school days : 108
想われ人の疑問
どちらかと言えば桃の方が好きだけれど、たまには蜜柑にしよう。そう決めたファイツは蜜柑のゼリーを自分の方に引き寄せて、残ったもう1個の方をラクツに渡した。早速蓋を剥がして柔らかいゼリーを口の中に入れると、甘酸っぱい味が口の中に広がった。ゼリーとパフェのどちらを選ぶと訊かれたら迷いなくパフェと答えるファイツだけれど、それでもゼリーだって好物であることに変わりはない。市販の物だと幼馴染は言ったが、美味しい物は美味しいのだ。「それを食べ終えたらでいい、キミに1つ訊きたいことがあるんだが」
「……え?」
夢中で食べていたファイツは、ゼリーに向けていた視線を上げた。既に食べ終えていた幼馴染と、しっかりと目線が合う。途端に心臓は普段より高鳴る羽目になったけれど、ファイツは彼に悟られないように「うん」と頷いた。彼がわざわざこんなことを告げるなんて珍しい、いったい何を訊きたいのだろう?
(どうしよう……。さっきより、どきどきして来ちゃった……)
ファイツの幼馴染は、どういうわけかこちらをじっと見つめていた。彼に見られていると思うと、否応なしにどきどきは強くなる。そのどきどきを何とかしたくて、ファイツは慌ててゼリーを口の中に放り込んだ。さっきまで美味しいと思っていたゼリーの味は、何だかよく分からなくなっていた。
「慌てなくていい。そんなに急いで食べると、咽るぞ」
「う……。けほっ!」
彼の忠告に無理に「うん」と頷こうとした所為なのか、言葉通りにファイツは見事にむせ込んだ。けほけほと何回か咳き込むと幾分楽になったものの、喉にはまだ何となく違和感が残っている気がする。
「水を持って来る」
「水が飲みたい」と頼む前にそう言った彼は、足早に自分の部屋を出て行ってしまった。1人取り残された部屋で喉の辺りに手をやりながら、ファイツははあっと息をついた。自分がとんでもなく情けないと思ったのだ。
「……大丈夫か、ファイツくん」
すぐに戻って来た彼に頷くだけで答えて、ファイツは手渡されたコップに入った水を何回かに分けて飲み干した。一息ついてから「ありがとう」とお礼を言うと、「どういたしまして」と返される。その態度を見たファイツは内心で項垂れた、何故彼はこうも大人びているのだろうか。元々の性格が違うからと言えばそれまでなのだが、それにしたって彼は大人びていると思う。子供っぽい自分とは、天と地程も差が開いている気がする。今度はゼリーをゆっくりと口の中に入れたファイツだけれど、食べ始めた時よりやっぱり美味しくないと感じてしまった。
(どうしてなんだろう……)
幼馴染の視線をまたもやその身に受けながら、ファイツは心の中でそう呟いた。何故これ程までに彼に見られてしまうのだろう。別に居心地が悪くなったわけではないが、どうにも気になる。何故だろうと疑問に思いつつも結局それを言えないまま、ファイツはようやくゼリーを食べ終えた。基本的に食べるのが遅い上にむせ込んだこともあり、随分と時間がかかってしまった。自分とは違って食べるのが早い彼にしてみれば、待っている時間はさぞ長かったことだろう。
「あの……。ごめんね、待たせちゃって」
「気にするな。水はもういいか?」
「うん……大丈夫。ゼリー、美味しかったよ」
ファイツは嘘をついたわけではなかった、確かに食べ始めた頃は美味しかったのだ。最後の方はあまり美味しいとは感じられなかったものの、自分が美味しいと感じたことに偽りはない。
「それは良かった。それなら、今度は2個食べるか?」
「だ、だから!い、1個だけで充分だってば!」
もしかしたら、食い意地が張っている娘だと思われたかもしれない。そう思ってしまったファイツは必死にそう主張した。幼馴染とはいえ、男の人にそう思われるのは恥ずかしいのだ。冗談だと告げて忍び笑いを漏らすラクツに口先だけで文句を言って、しかしファイツはここ最近の自分の行動を思い返した。
(で、でも……。あたし、最近は甘い物ばかり食べてたかも……。体重、そんなに増えてないといいんだけど……)
ファイツはNが好きだ。さっきだって、この部屋で彼の夢を見たくらいなのだ。幼馴染に寝顔を見られてしまったのは恥ずかしいけれど、恋する身としては好きな人の夢を見れて嬉しかった。だけどもしかしたら体重が増えているかもしれないと思うと、どうしても憂鬱な気分になる。そういえば最近は勉強ばかりで、体重のことをまったくと言っていい程気にしていなかった。
「ダイエットしようかなあ……」
「……ダイエット?」
「うん。あたし、最近食べてばかりだもん……。多分、かなり太っちゃってると思うから……」
「ボクにはそうは見えない。むしろ、キミは痩せ過ぎているとすら思うが」
「そんなことないよ!この夏休みにもうちょっと気にすれば良かった、どうしよう……!」
ダイエットという言葉を口にした為か、ファイツの頭の中にはふとある人物の姿が浮かんだ。ラクツくんが好きなのと言っていたあの子だ。確か、名前はユキだったはずだ。聞き間違いでなければだが、その子はダイエットを結構したと言っていた。だが自分はと言うと、勉強をしているのをいいことに、思うままに食べていただけの気がする……。
「ラクツくんみたいに背が高い男の人なら、ある程度体重があってもいいんだろうけど……。やっぱり、体重が増えるのはすっごく嫌だもん」
「高いと言っても、平均くらいだと思うがな」
「え、そうなの?ラクツくんって、身長いくつ?」
「最近は計っていないが、春の健康診断では170センチだった」
「そうなんだ……」
ラクツの身長を知ったファイツは軽く驚いた。彼の背がそれくらいあるなんて知らなかった。小学校の頃までは自分の方が少し高いくらいだったのに、いつのまにかすっかり引き離されていたらしい。
「身長、そんなにあるんだね……。あたしと、えっと……14センチも差があるよ?」
「つまり、キミの身長は156センチか」
「うん……」
170-156の暗算にすら即答出来なかった自分とは違い、彼は瞬時に答を出した。幼馴染の頭の回転が速いことを再認識させられたファイツは息を吐く。彼の1割でもいいから、あたしもそうなりたかった。そんな意味のないことを考えて、また深い息を吐く。数学が得意だったなら、大好きなあの人にももっと近付けたのかもしれない。
「あ~あ、やっぱりダイエットしなくちゃ……」
「……何の為に?」
「だ、だって……。やっぱり、外見だけでも可愛くなりたいもん……」
流石に”N先生が好きだから”とは言えないファイツは、そう言ってごまかした。そんなごまかしは既に何の効果もないのだが、当然その事実をファイツは知らない。
(N先生……)
大好きな人の姿を思い浮かべていたファイツは、ラクツが眉間に普段より深い皺を作っていたことに微塵も気付かなかった。今しがた見た、自分にとって一番好きな人の夢。その内容の詳細を思い出すことに、ファイツは気を取られていた。
「……キミは、既に充分可愛いと思う」
彼の声は、本当に静かだった。別のことに集中していたファイツは、幼馴染が不意に口にした言葉を理解するのに時間がかかった。「……へ?」なんて、何とも間の抜けた声を出す。
「キミは、既に充分可愛いと思うが」
自分が話を聞いていないことに気付いたのだろう、彼は律儀にもう一度繰り返してくれた。それでもまだ彼の言葉が信じられなくて、ファイツは硬直した。数秒間固まった後にようやく我に返る、今言われたことはきっと自分の聞き違いだ。浴衣を着ているわけでもないのに彼が”可愛い”と言うなんて、そんなことがあるはずがない。彼が実際は何を言ったのかを知りたくて、ファイツは目の前にいる幼馴染に「悪いけどもう一度言ってくれる?」と頼んだ。自分が見た夢のことは、頭からすっかり吹き飛んでしまっていた。
「……だから。ファイツくんは充分に可愛いと、そう言ったんだ」
「……え」
我に返ったファイツは、またしても固まった。先程より長い間硬直していたのだけれど、再び我に返る。彼の発言は、きっと自分を気遣ってのものだろう。優しい彼のことだ、正直に”そうだな”とは言えなかったのだろう。外見だけでも可愛くなりたいと言った自分に頷けなかっただけのことだ。絶対にそうだ、そうに決まっている。
「ご、ごめんねラクツくん!あたしったら、気を遣わせちゃって……」
「気を遣ったわけじゃない」
「え……っ」
「本当に、そう思っている」
ファイツの幼馴染は、それはそれは真剣な表情だった。それに、今度は冗談だとは言わなかった。まっすぐに見つめられて、ファイツの心臓はどきどきと高鳴った。抑えようという意思に反して顔が熱くなっていくのを確かに感じ取りながら、ただぼんやりと幼馴染を見返す。ラクツもまた無言のままだ。
「…………」
「あ、あの……。あのね、ラクツくん……」
時間にしてだいたい10秒くらい黙ってしまった末に、ファイツはようやく言葉を発した。視線なんてとても合わせられなくて、食べ終えたゼリーの容器を見つめながら大きく息を吸う。どきどきと心臓の鼓動が耳に響く中で、ゼリーの容器の中に入ったスプーンが夕陽に反射して眩しいとファイツは思った。そんなどうでもいいことを、どうして今考えたんだろうとも思った。
「あ、あたしに……。訊きたいことって、なあに……?」
蚊の鳴くような声で、ファイツは幼馴染にそう尋ねた。”可愛い”と言われた返しがこれなんて、脈絡がないにも程がある。自分でも露骨過ぎると思うけれど、だけどファイツは”これ以上この話題を続けるのはいけない”と思ったのだ。直感に従っただけなのだが、どうしてそう思ったのかは自分でも分からなかった。別に彼のことを嫌っているわけではないし、そう言われて嫌だとも思わなかった。だけど、とにかくファイツはこの話題の続きを聞くつもりはなかったのだ。”ラクツくんが何か言う前に訊かなきゃ”と、根拠もなくそう思った。
「……ああ。そうだったな」
露骨に話題を逸らした自分の態度を責めるでもなく、ラクツはただ穏やかにそう言った。そして「誕生日のプレゼントは何がいいか」と、やっぱり穏やかな口調で尋ねて来た。予想だにしない質問にファイツが思わず彼の顔を見ると、柔らかく目を細められる。
「誕生日の……プレゼント?」
大きく跳ねた心臓には構うことなく、ファイツは呆然と訊き返した。何を訊かれるんだろうと気になってはいたものの、そんな質問をされるなんて夢にも思わなかったのだ。
「来月の、9月16日。キミの誕生日だろう?」
「……憶えててくれたの?」
震え声でそう訊くと、「忘れるはずがないだろう」と即座に答が返って来た。その言葉に泣きそうになって、だけどファイツは何とか抑え込む。自分には、泣く資格もありはしないのだ。
「ごめんね、ラクツくん」
「何が?」
「あたし……。ラクツくんの誕生日、忘れてたの。ワイちゃんに言われるまで、すっかり忘れてたの。ラクツくんは憶えててくれたのに、あたしはそうじゃなかった……!」
「気にするな。ボクはキミに冷たくしたんだ。そんな男の誕生日なんて、忘れられて当然だ。その詫びではないが、ファイツくんにプレゼントを贈りたい」
「そんな……。ラクツくんが気にすることないよ!それに、忘れられて当然なんて……!」
ファイツはそう言ったものの、彼の誕生日を忘れていた事実がその語尾を小さくさせた。こんな自分の言葉に説得力があるとは思えない。そう考えたファイツは、声を震わせながら「あたしも来年は贈るから」と言った。
「じゃあ、ボクはクッキーがいい」
「……クッキー……?」
てっきり”考えておく”と言われるとばかり思っていたのに、予想はまたもや裏切られた。特に悩む素振りも見せず、ラクツは数秒間を置いた後にそう告げた。甘い物が苦手な彼にしては珍しいと思いながら、ファイツはどうしようと頭を悩ませる。ひと口にクッキーと言っても色々種類があるのだ、甘さが控えめな物を選ぶとして、どのクッキーを買えばいいだろうか。
「……えっと、どんなクッキーがいいかな。やっぱり、あんまり甘くない方がいいよね?甘い物なら詳しいんだけど、そうじゃないのは全然詳しくなくて……」
「ファイツくんの焼いたクッキーがいい。誕生日には、それが食べたい」
「……え」
「小さい頃……。ボクの為に、よく焼いてくれただろう」
「う……。うん……」
確かに彼の言う通り、ファイツは甘さが控えめなクッキーを焼いたものだった。だけど、そう言われるまですっかり忘れていた。まさか、自分が焼いたクッキーを望まれるなんて思わなかった……。
「……でも、あれで本当にいいの?」
自分が焼いたクッキーは、市販の物より味が良くないはずだ。その上、見た目も悪いことだろう。それだけに、市販のクッキーの方が彼も喜ぶのではないか。そう考えたファイツは念を押したが、それでもラクツは「あれがいい」と言った。何の迷いもなく、彼はそう言い切った。
「うん、分かった……。あたしも自分のプレゼントは何がいいか、早めに考えるから……」
「そうしてくれると助かる」
「うん……」
頷きながら、どうしてあたしはこんなにも嬉しいんだろうとファイツは思った。自分の焼いたクッキーがいいと、幼馴染は言ってくれた。それだけのことが、だけど泣きたくなるくらいに嬉しい……。
(どうして、こんなことを思うんだろう……?)
ファイツは頭を捻った。帰る用意をしながらどうしてと頭を悩ませてもみたけれど、やっぱりよく分からなかった。