school days : 107

想い人の憂鬱
椅子に座ったままの格好で居眠りをしている幼馴染に気付いたラクツは、彼女を起こさないように自室の扉をそっと閉めた。彼女のすぐ近くに置かれた別の椅子に音を立てないように腰かけたのだが、それでも彼女が目を覚ますことはなかった。数学を教えている最中も眠そうだと思っていたのだけれど、どうやらその予想は当たっていたらしい。自作の問題を全て解き終えたファイツの為にと、ラクツはよく冷やしたゼリーを2つ分冷蔵庫から取って来た。スプーンを2本持って自分がここに戻って来るまでのわずかな時間で、しかしファイツは思った以上に深い居眠りについてしまっていた。
彼女は多分、ここ最近あまりよく眠っていなかったのだろう。成績を上げる為に無理をしているのではないかと思うと、ラクツの眉間の皺は自然と深くなる。ファイツが目を覚ますまで、このままそっとしておいてやりたい。そんな結論を出したラクツは、何をするでもなく彼女の横顔を見つめた。読書をする気分にはならなかった、どうせならこのまま好きな娘の顔を見つめていたいと思った。本屋で出会ったマチエールには照れ隠しで”ただの幼馴染だ”なんて言ったけれど、ラクツはどうしようもなくこの娘に惚れているのだ。

(……可愛い)

思うままに彼女を見つめながら、ただひたすら可愛いとラクツは思った。本当にこの娘は可愛い、外見だけではなくて言動も可愛い。ふとした瞬間に抱き締めてしまいたくなるくらいに可愛い。そしてそれだけではなくて、ラクツはもっと強い感情に襲われてしまった。彼女の唇に自分のそれを重ねたいと思ってしまったのだ。そう思うのは、これで何度目だろうか。

(……またか)

そんな欲望を抱いた所為か、脳裏にはあの厄介な先輩の声が浮かんでしまった。”どうせならキスしちゃえば”なんて、ラクツにとってはとんでもないことを平然とした顔で言ってのけたあの先輩の声だ。いや、彼女にとってもこれはとんでもないことだ。幼馴染でしかない男にキスされるなんてことを、彼女が望んでいるとは到底思えない……。あの先輩にそう言いつつも結局はキスをしたいと考えている自分に対して、ラクツは薄く笑った。まったく本当に、自分は何を考えているのだろう。

「ん……」

ファイツが少しだけ身じろぐのが分かって、ラクツは頭に思い浮かべた邪な考えを何とか霧散させた。多分、彼女はもうすぐ目を覚ますだろう。そうしたら、まずは彼女を労おうとラクツは思った。そして、次はこの机の上に置いたゼリーを彼女に食べてもらう。それが済んでから、誕生日のプレゼントは何がいいのかと尋ねよう。そうラクツは心に決めて、再び幼馴染の顔を見つめた。
いくら見ていても飽きないなんて考えをラクツが抱いたまさにその時、ファイツの唇が微かに動いた。例えばここが騒がしい教室内であったなら、おそらくは上手く聞き取れなかっただろう。しかし幸か不幸か、ラクツは人並み以上の聴覚を有していた。その上彼女からかなり近い距離にいたこともあって、だからラクツはファイツが何を言ったのかをしっかりと聞き取ってしまった。聞き間違いなどではない、ファイツは今確かに”N先生”と言ったのだ。彼の名を聞いたラクツはその瞬間、この娘が誰を想っているのかを悟った。そして彼女がどうしても特進クラスに入りたいと言った、その理由も。本人に直接確かめたわけではないが、しかしラクツはある確信を抱いた。この娘はラクツのクラスの担任に惚れているのだ。

「…………」

彼女に好きな男がいるであろうことはずっと前から気付いていた。それこそ、彼女に対してそれは酷い態度を取っていた頃から気付いていた。しかしいざその人物が判明してみると、やはりいい気分にはならなかった。心の中には形容しがたい黒い何かが渦巻いている。どう考えても、自分は今担任に対して嫉妬心を抱いているのだ。そして十中八九、今ファイツは想い人の夢を見ているのだろう。そう考えると、ラクツはますます嫌な気分になった。ただの夢だとはいえ、他の男の夢なんて見て欲しくはない。実に子供染みた、自分勝手な考えをラクツは抱いた。以前この娘に”大人びていて落ち着いてる”と言われたことがあるけれど、やはりそれは買い被り過ぎだと思う。本当に自分がそのような人間なら、まずこんな考えを抱く時点でおかしい。

「……ファイツ」

彼女を起こさないようにしようと決めたことも忘れて、ラクツは彼女の名前を口にした。呼び捨てで呼んだ理由は、もしかしたらそう呼ぶことで彼女が起きるかもしれないと期待したからだ。そんな自分の願いが通じたのか、先程までぐっすりと眠っていたファイツの手がはっきりと動く。眠りからようやく覚めたファイツを、ラクツは無言のままで見ていた。

「あ、あれ……?」

小さな呟きと共に、ファイツは俯いていた顔をゆっくりと上げた。そして数回瞬きをしてから、とろんとした目できょろきょろと辺りを見回す。当然横に座っていたラクツとも目が合うわけなのだが、それでもまだ彼女はぼんやりとした顔付きのままだった。もしここにいたのが担任だったなら、彼女はすぐに覚醒したのかもしれない。そんな現実にはあり得ないことを思いつつ、ラクツは再度ファイツの名を呼んだ。今度はよく呼ぶ方で彼女を呼んでやると、ファイツは軽く小首を傾げてから口を開いた。

「……ラクツくん?」
「おはよう、ファイツくん」

心にはまだ担任への嫉妬心があるけれど、それを表には出さずにラクツはいつも通りの表情を作った。声色も、自分で聞く限りでは普段と変わらないはずだ。しかし何とかいつも通りの自分を作り出したラクツとは違い、ファイツは見るからに狼狽えていた。瞬く間に顔を赤く染めた様子からするに、彼女は完全に覚醒したらしい。

「ご、ご、ごめんねラクツくん!あたし、いつのまにか寝ちゃってたみたい……っ」
「別に構わないが……。確かにキミはよく寝ていたな」
「う……。あの……ラクツくん。ちょっと訊きたいんだけど、寝てる時にあたしは静かだったかな……?だ、だから……。その、つまりね……」

そこまで言ったところで、彼女は口を噤んでしまった。自分が寝言を言ってしまった可能性でも危惧したのか、その顔色は更に赤く染まっている。今は真っ赤になっているものの、今日のファイツは先日とは違っていた。つまりはただ恥ずかしがっているだけとは思いがたい程の、顕著な反応をしなかったのだ。その事実に心のどこかでは落胆しつつも、例の如くラクツはいつも通りの態度を作った。先日の件はただの思い違いだったのだ、彼女を困らせてしまうよりはずっといいだろうと、ラクツは勉強を教えながらも何度も自分に言い聞かせたものだ。だが今のファイツは見るからに恥ずかしがっていたし、明らかに目を逸らしてもいる。別に寝言を言うくらい何でもないだろうとラクツは思うのだが、恥ずかしがりやな彼女にとってはそうではないのだろう。真実を告げるのは簡単だが、そうしたら彼女は確実に困ってしまうに違いない。

「……いや、何も?静かだったぞ」

数秒程沈黙したラクツは、程なくしてそう答えた。実際は真っ赤な嘘だし、おまけに彼女の寝言をしっかりと聞き取っているわけなのだけれど、それを言うわけにはいかないと思ったのだ。

「ほ、本当?」
「……ああ。だが、寝息はよく立てていたがな」

穏やかにそう告げると、ファイツは両頬に手を当てた。「やだ、恥ずかしい!」なんて悲鳴にも似た声を上げて、目を思い切り瞑ってしまった。彼女が何故そんな反応をするのかが分からなくて、ラクツは口元に手を当てて思案する。眠ったところを他人に見られるというのは、それ程恥ずかしいものなのだろうか?

「……そういうもの、なのか?」
「う、うん……。あたしが気にし過ぎてるだけかもしれないけど……。でも、寝顔を見られるのはすっごく恥ずかしいの……。あの、このことは忘れてね……?」
「……さあ?どうしようかな」

頬を染めてそう懇願して来た彼女があまりに可愛らしくて、ラクツは思わずそんな意地悪い言葉を口にした。本当なら”キミの望む通りにする”と答えるのが一番いいのだろうが、素直にそう言う気分にはなれなかった。ファイツの寝言がただの寝言ではなかった為だろう。

「え……。そ、そんな!」

ちょっとからかっただけなのに、しかし彼女はこちらの言葉を本気にしたのだろう。「どうしよう!」と叫んだファイツはとうとう瞳を潤ませてしまった。流石にそんな反応をされるとこちらとしても罪悪感が残るわけで、だからラクツは困り果ててしまった彼女を見つめて「キミがきちんと睡眠を取れば忘れる」と言い放った。これもまた、本来ならばからかった詫びを入れるべきなのだろうが、こうでもしなければ彼女はまた無理をすると思ったのだ。

「……え」
「数学を教えている時も思ったが……。ここ数日、あまり寝ていなかっただろう。このままだと、いずれは身体を壊すぞ」
「……あたし、そんなに眠そうにしてたの?」
「ああ。夜遅くまで勉強するにしても、最低限の睡眠を取るべきだ」
「う、うん……。そうするね……」

こくんと頷いたファイツは、そう言いつつもこちらを見つめた。彼女の性格から考えれば珍しい行動だが、それくらい寝顔を見られたことを気にしているのだろう。彼女の心中を察して、しかしラクツは苦笑した。彼女にじっと見つめられたことで、抑え込んだはずの衝動が再び爆発しそうになったのだ。涼しい顔をしている幼馴染が、その実必死に欲望と戦っているなんて、この娘は露程も思っていないだろう。

「……そんなに見つめられると、ボクも困る。心配しなくても、キミが身体を大切にすると約束するなら先程のことは忘れる」
「ほ、本当?本当に、忘れてくれる……?」
「……ああ」

そうは言っても、絶対に忘れないという確信がラクツにはあった。彼女の想い人を知ってしまったのだ、忘れたくても忘れられるはずがない。それでも不安そうにしていた彼女は自分のこの発言にホッと肩を撫で下ろした。相当不安だったのだろう、長い溜息と共に「良かった」と呟いている。そんな態度を見てしまうと、やはり本当のことは言えないなとラクツは思った。

「……さあ、ファイツくん。長時間勉強をして疲れただろう。蜜柑と桃、どちらのゼリーがいいか選んでくれ」
「あ、本当だ……。あたし、全然気付かなかった……。いつもありがとう、ラクツくん」
「どういたしまして。こちらこそ、美味しい料理をいつもありがとう。本当に感謝している」
「あ……。その、あんな物で良ければ何回でも作るよ!あたしこそ、いつも勉強を教えてもらって助かってるもん……。このゼリーだって、あたしが来る度に用意してくれてるでしょう?」
「市販の物だが、な。だが、キミは甘い物が好きだろう」
「うん、大好き!」

先日までのような態度ではなくなったファイツは、にっこりと笑ってそう言った。彼女のその笑顔と口から発せられた”大好き”という言葉に、そういう意味ではないと分かってはいてもラクツの心臓は大きく跳ねた。しかしファイツはゼリーを選ぶのに夢中で、こちらを気に留める様子はなかった。

「どうしよう、どっちも美味しそう……」

真剣な顔でどちらのゼリーを食べるか悩んでいる彼女を見て、ラクツは思わず忍び笑いを漏らした。単純に”微笑ましい”と思ったからなのだが、何を勘違いしたのかファイツはまたもや顔を赤くした。固まってしまった彼女に「何なら2個食べてもいいぞ」と大真面目に言うと、ふるふると首を横に振られる。そしてファイツは顔を赤くさせたまま、「そんなに食べないよ!」と慌てた様子で返した。