school days : 106
初めての気持ち
「とりあえず座りなよ」とエックスに言われたワイは頷いて、指で指し示された椅子に腰かけた。そのすぐ後に幼馴染はキッチンへと向かった。つき合いがそれは長い為に、ワイには彼が何をするつもりなのかがよく分かった。どうやら、自分の為に紅茶を淹れてくれるつもりらしい。その心遣いに甘えることにしたワイは、待っている間に自分の髪に触ってみた。やっぱり短い。ここに来るまでに何度も触ってみたのだけれど、相変わらず短い。「……はい、ワイちゃん」
いつのまにか、エックスはリビングへと戻って来ていた。幼馴染の声に髪から指を放して、ワイは差し出されたマグカップを受け取る。希望を何も言わずとも、その紅茶は湯気が立つ程に温められていた。例え暑い夏でも、温かい方が好きな自分の為にわざわざお湯を沸かしてくれたのだ。この色からすると、どうやらこの紅茶はワイのお気に入りのシャラの紅茶らしい。
「……ありがとう、エックス」
「……うん」
お礼を言ったワイは、さっそく自分専用のマグカップに口をつけた。口の中に紅茶の渋みが広がる、やっぱりこれはシャラの紅茶だった。いつもの通り美味しいはずなのに、何だか妙に憂鬱な気分だった。あっという間に胃の中に紅茶を全て流し込んで、ワイはふうと一息ついた。
「ワイちゃん、火傷はしてないか?」
その様子を眺めていたエックスは、静かな口調で訊いた。その声色は普段とまったく違っていた。どこか無気力さを感じさせるようなものではなく、ワイのことを心から心配してくれているような、そんな優しさが感じられる声だった。普段のエックスらしくない、そうワイは思った。そう思ってから、それはむしろ自分の方だわと思い直す。いつもの自分なら、エックスの家に来たら好き勝手に過ごして思うままに喋るはずなのだ。それが今に限っては逆だった。普段はあまり話さないエックスの方が喋っていて、いつもはよく話すはずのワイが全然喋っていない。
「……うん、大丈夫」
熱い紅茶を流し込んだワイは、小さく頷いた。これも自分にしては珍しく控えめな動作だ。普段なら、もっと大きく頷くはずなのだ。自分が悪いとはいえ、髪が短くなったという事実は思った以上に衝撃を与えていたらしい。
「ワイちゃん、おかわりはいるか?」
「……うん」
ワイはこれまた小さく頷いて、彼が差し出した手にマグカップを渡す。きっと今度はシャラの次にお気に入りのコウジンの紅茶を淹れてくれるんだろうなと思いつつ、ぼんやりと部屋を眺めた。エックスが再びここに戻って来るまで、ワイは何も言わずにそうしていた。
「はい、これ。今度はコウジンのやつ。ワイちゃん、これも好きだろ」
「うん……。ありがとう」
予想通りにコウジンの紅茶を淹れて来てくれたエックスに対して、ワイは普段よりずっと小さな声でお礼を言った。さっきから自分は「うん」とか「ありがとう」とか、そんな短い言葉しか口にしていない。明らかに、これはどう考えても自分らしくない。だけどエックスは、そんな普段とは違う自分を見つめるだけで何も言わなかった。玄関先でこそ「どうしたんだよ」なんて彼は言ったけれど、ワイがエックスの家にお邪魔してからはそういったことは訊かなかった。多分、無理には聞かないということなのだろう。いつもは面倒事は嫌がるエックスは、だけどワイが頼まないのに紅茶を淹れてくれた。そんな彼を、ワイは優しいと思った。いつもは何事にも無気力で中々やる気を出さないエックスだけれど、その実とても優しい性格をしている。それは小さい頃からのつき合いでよく知っているはずなのに、どういうわけかワイはそう思った。
(変なの……。アタシ、何でこう思ったのかしら……)
心の中で首を傾げつつ、ワイはマグカップに口を近付ける。今度は胃の中に一気に流し込むなんてことはせず、ひと口ずつゆっくりと味わうかのように飲んだ。そうした所為だろうか、さっきより何となく美味しいとワイは思った。こちらを見ていたエックスはキッチンへ行って、けれどすぐに今いた場所へと戻って来た。片手には、冷たそうな麦茶が入ったコップが握られている。
(あ……)
その時、ワイはエックスが飲み物を飲んでいなかったことにようやく気が付いた。この空間は冷房が効いていて冷えているとはいえ、よくよく考えてみれば外はかなり暑かった。家主を待っている間にペットボトルのお茶を細目に飲んでいたワイだって、エックスの家に入った時には喉の渇きを覚えたものだ。それならば、当然外出していたエックスだって喉が渇いていたことだろう。しかし、彼は自分より先にワイの為に紅茶を淹れてくれた。そしてそのことに、ワイは今の今まで気付かなかった……。
(アタシ、考えてみればエックスに買い物をさせちゃったし……。外はあんなに暑かったのに、悪いことしちゃったなあ……)
自分で買いに行けたのにも拘らず、ワイはエックスに”この少女漫画を買って来てよ”と頼んだのだ。当然の如く嫌がったエックスに対して、無理やりに押し切って結局買いに行かせた。そうさせたのは他でもない自分自身だが、ワイは今更ながらに自分の行いを恥じた。
「……ごめんね、エックス」
「ごめんって、何が?」
呟くように謝ると、静かな口調で返される。「暑いのに少女漫画を買いに行かせたから」と告げると、エックスは軽く首を横に振って頬を数回掻いた。気にしていないというサインだ。
「別に、いい。久し振りにマチエールにも会えたし」
「マチエールが?」
やや目線を外して、彼はぶっきらぼうにそう言った。エックスの口から思わぬ人物の名前が飛び出して来たことに驚いて、ワイは思わず彼女の名前をオウム返しに口にした。
「……うん。オレが今日行った本屋でアルバイトとして働いてるんだって。マチエールはオレ達と同い歳だろ、だからもうすぐあの施設にはいられなくなるから働き始めたって言ってた」
「そう、なんだ……。マチエール、元気そうだった?」
「相変わらずだった。そうだ、マチエールはクロケアさんと結婚するつもりらしいよ」
「……そうなの?」
この衝撃のニュースを聞いて、もちろんワイは驚いた。マチエールがクロケアのことを男の人として好きだったなんて、まったくの初耳だったのだ。マチエールは両親に”怖いこと”をたくさんされて来たらしい。だから彼女のクロケアに対する気持ちは、子が親に向けるような”好き”だと思っていたのだが、どうやらそれはワイの思い違いだったようだ。普段なら大袈裟に驚くはずのニュースだけれど、口からは小さな声しか出て来なかった。
「そうなんだ……。マチエールって、そうだったんだ……」
「オレも驚いた。クロケアさんに断られたらしいけど、諦めないってさ」
「そっか……」
ワイはそれだけ言って、再び紅茶をゆっくりと飲み始めた。エックスも自分に倣ったのか、麦茶をちびちびと飲んでいる。しばらくの間、ワイもエックスも何も言わずにただそれぞれ飲み物を口にしていた。やがて半分程紅茶を飲んだワイは、テーブルの上にマグカップを置いた。大好きな紅茶を飲んだ為か、それとも他の理由があるのかは知らないが、ここに来た直後に比べれば大分落ち着いたような気がする。
ワイは向かい側に座っている幼馴染をじっと見つめた。エックスも何かを察したのか、持っていたコップを少し離れたところに置いた。どうやら、彼は話をちゃんと聞いてくれるつもりのようだ。ありがとうと声に出さずに呟いてから、ワイは結んでいた唇を開いた。彼に話さないという選択肢なんて、ワイには最初からなかった。
「……あのね、エックス」
「うん」
「エックスには言わなかったんだけど、アタシはスカイダイビングのクラブで嫌がらせを受けてたの。……あ。エックスだけじゃなくて、サナ達にもサファイア達にも言ってないんだけど」
「……何で、ワイちゃんが?」
「それは、ほら。アタシのお母さんって……まあ、名の知れたアスリートでしょう?」
絶賛反抗期中のワイは、母親のことを話す際に口ごもった。出来ればあまり母親については話したくはないのだけれど、これはもう仕方ない。「まあね」と同意した幼馴染に頷き返してから、ワイは言葉を探しながら話を続けた。筋道を立てて順序良く話すなんて芸当はどうにも苦手なのだけれど、そうしなければちゃんと伝わらないと思ったのだ。
「えっとね……。だから、それで嫌がらせをされたのよ。”あなたみたいな人は地面に足をつけているのがお似合いだ”って、先輩に言われたわ。先輩は、アスリートの親を持つアタシがスカイダイビングをするのが気に食わないみたい」
ワイは自分に嫌がらせをして来た人物の顔を思い浮かべた。名前はミソラと言って、高飛車な言動が目立つ女の先輩だ。これまでにも教科書を隠されるとかすれ違いざまに悪口を言われるとか、そんな陰湿な嫌がらせを、ワイは数え切れないくらい受けたものだ。こちらの話を静かに相槌を打っていたエックスは、「気に食わないみたい」とワイが言った瞬間に顔色を変えた。
「……それで、髪を?」
眉間に思い切り皺を寄せたエックスは、間違いなく怒っている。基本的に無気力で、自分に関係がない事柄はだいたい”どうでもいい”なんて言う幼馴染は、けれど今この瞬間怒っていた。まさかこの幼馴染がそれ程反応を示すなんてまったく予想していなかったワイは驚きつつも、しかし慌てて首を横に振った。
「違うの。これは、アタシが自分で切ったのよ」
ミソラを庇ったわけではない、これは本当のことなのだ。今日は風が強く吹いていた為に残念ながら座学の授業だったのだが、それだって大好きなスカイダイビングに関係あることなのだ。負けん気が強いワイは、嫌がらせにも屈せずクラブがある日はきちんと休まずに通っていた。それがまた、ミソラにとっては気に食わなかったのだろう。今日も今日とて、ワイは悪口を言われたのだ。それも、授業が終わって先生が教室を出たタイミングで。
それだけならいつものことだと流せたかもしれないのだが、今日の悪口にはワイの母親のことも含まれていた。絶賛反抗期中であるワイは、だけどどういうわけかミソラの悪口を聞き流すことが出来なかった。彼女と激しい言い争いになったそのうちにワイは頭に血が上って、気が付いたら自分の髪を切ってしまっていたというわけなのだ。
「……と、いうわけなの」
「……いったい何をやってるんだよ」
説明を終えたワイは、ふうっと長い息を吐いた。そんな自分を見つめた幼馴染もまた深い溜息をつく。彼の言葉にはまったくの同感だ、何故こんなことになったのだろう。だけどいくら考えても、その場で答を出すなんてことは無理だと思った。テーブルの上に頬杖をついてから、ワイはまた溜息をついた。
「……多分、アタシの髪の毛についても何かを言われたんだと思うんだけど。あんまりよく憶えてないのよ」
「ワイちゃんは、カッとなりやすいからな。よく考えてから行動に移せば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。オレ、そうした方がいいんじゃないかってよく言ってるだろ」
「……そうかもね」
自分自身で髪を切ったのだと言ったからだろう。先程までの表情はすっかり消え失せて、ワイの幼馴染はまたいつもの無気力そうな表情でこちらを見つめた。呆れたようにワイを諫めたエックスは、けれど確かにこちらを心配してくれているとワイには分かった。つき合いが長い幼馴染だから、ワイには彼の声の違いが理解出来るのだ。
「流石にちょっとだけ落ち込んじゃったけど、これはアタシが自分でやったことだしさ。アタシの話を聞いてくれてありがとうね、エックス。キミのおかげで、何だかすっきりしたわ!」
先程まで頬杖をついていたワイは、ぐぐっと大きく伸びをした。いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない、それによくよく考えたらたかが髪の毛だ。今は短くなってしまったけれど、月日が経てばまた伸びるではないか。
「まだまだ暑いし、髪を短くして良かったかも!スカイダイビングをするのにもちょうどいいし……」
そう言いつつも、ワイは何故だか急に泣きたいと思ってしまった。自分自身でやったことなのに、どうしてこんなに悲しいと思うのだろう。よく分からないワイは、泣きたいという気持ちを吹き飛ばすように明るく笑った。
「……ワイちゃん。オレ、後ろ向いてるから」
しばらく黙っていた幼馴染は、何の脈絡もなくそう告げた。ワイは彼が何を言いたいのかを悟ったものの、そこは負けん気が強くて意地っ張りな性格が邪魔をして。素直に受け止められなかったワイは、思わず「何よ」なんてはぐらかした。エックスはそれを聞いて、それは深い溜息をついた。
「何なら、外に出てようか。ワイちゃん、人に見られるのって嫌がるだろ」
「だから、何がよ……!」
「泣きたいなら、我慢しないで泣けばいいじゃん」
ついにそう指摘されてしまったことで、ワイは顔を思い切り歪めた。エックスが見ているのにも構わず、声を上げてしゃくり上げる。
「エックス……!アタシ、アタシ……!すごく悲しかった!」
「うん」
「お母さんの悪口を言われて、アタシがやりたいことが否定されて!それがすごく悲しくて、悔しかったの!嫌がらせを今までされてたのも、ずっとずっと嫌だった!」
「……うん」
「か、髪を切ったのも悲しかった!アタシが自分でしたこと、なんだけど……!でも、すっごい嫌だった!!さっきはすっきりしたなんて言ったけど、そんなの嘘!本当は、今でもすごく悲しいの!」
「……うん。オレは、ちゃんと分かってるから」
エックスの声が、ワイのすぐ近くで聞こえた。いつのまに自分の近くに来たのか、涙で顔をぐちゃぐちゃにさせたワイには分からなかった。そして、何故自分は今幼馴染に抱き締められているんだろうとワイは思った。ただ1つ分かるのは、彼にそうされても嫌じゃないということだけだ。嫌というより、むしろ落ち着く気がする……。
「ワイちゃんは、これからもまたスカイダイビングをやるんだろう?」
「……う、うん……。アタシの夢を、諦めたくないもん……」
抱き締められている為に、彼の声が耳元で聞こえる。今までそうされても全然何とも思わなかったワイは、だけど心臓をどきどきさせながらそう答えた。あんなことで諦めるなんて、絶対に嫌だった。子供みたいな口調で、子供みたいに何度も何度も頷く。
「……そっか。また嫌なことがあるかもしれないけど、その時はオレに吐き出しに来なよ。そうしたくなければそれでいいけど、話を聞いてもらうだけでもすっきりするってワイちゃんはよく言ってるじゃん」
「うん……」
小さく頷くと、ワイの幼馴染はあっという間に離れた。彼から解放されたワイは、改めて幼馴染を見つめる。もしかしたら夢かもしれないなんて思ったけれど、それは違うと頭の片隅で声が聞こえた。ワイは今、産まれて初めて男の人に抱き締められたのだ。
「…………」
ワイは、エックスに「どうしてこんなことをしたの」とは訊かなかった。間違いなく彼は、自分が泣いていたからそうしたのだ。とりあえず落ち着かせようと思って抱き締めたのだろう。別に、抱き締めたこと自体に深い意味はないのだろう。その証拠に、彼はこんなにも平然としているではないか。だけど頭ではそう思いつつも、ワイの心臓はどきどきと高鳴っていた。見慣れているはずの幼馴染が、急に大人びて見えてしまったのだ。そう思うと、更にどきどきが強くなっていく気がする。
(どうしたのかな、アタシ……)
胸を高鳴らせながら、ワイは自分の身に起こった異変にただただ戸惑っていた。幼馴染にこんな気持ちになるなんて……ワイにとっては産まれて初めてのことだったのだ。