school days : 104

じこあんじ
「……ですから、ファイツさん。この問題の答はこうなるのですよ」
「ああ、そっか……。そういうことなんだ……」

向かい側に座ったプラチナの説明を聞き終えたファイツは、ぽつりとそう呟いた。以前に比べればいくらか分かるようになったとはいえ、やっぱり数学は難しいと思う。そんな難しい数学を、しかしプラチナは好きだと言う。プラチナと自分は違う人間だからそう感じること自体はおかしくはないのだろう、だけどやっぱりすごいとファイツは思った。

(うう……。やっぱり、どうしても数学は苦手だよ……)

改めて問題文に目を通しながら、ファイツは声に出さずにそう呟く。一段落ついたので、ファイツは眼前に置いたオレンジジュースをようやく飲んだ。氷がほとんど溶けてしまった為に随分と味が薄くなってしまっているが、それでも喉が渇いていた身としては美味しかった。コップに入っていたジュースを飲み干してしまったのだが、まだ飲み足りないと思ったファイツはゆっくりと立ち上がった。

「あたし、ジュースのおかわりに行って来るね」
「はい」

自分の言葉に返事をしたのはプラチナだけだった。その場にはワイとサファイアもいたのだが、彼女達は先程から一言も声を上げずに数学の問題を解くのに集中していたのだ。それを知っているファイツはなるべく静かにテーブルを離れると、ドリンクバーのコーナーに向かった。
今から1時間くらい前のことだ。「アタシ達とサファイアとプラチナを入れた4人で、これからお茶にしない?」とワイに電話で誘われたファイツは、その誘いに「いいよ」と言った。思い返せばこの夏も勉強ばかりしていて、2人と全然遊ばなかった。場所はファミレスにしたいと言われて、その言葉にもファイツは快く頷いた。何でもワイによると、プラチナはファミレスに行ったことがないらしい。今までに数え切れないくらいファミレスに足を運んでいるファイツは驚いた。まさか、そんな高校生がいるなんて思わなかったのだ。

「ファイツさんは、何にするのですか?」
「きゃあ!」

突然後ろから話しかけられたファイツは、小さく悲鳴を上げた。振り返ると、自分に負けず劣らず驚いた表情をしたプラチナが視界に映った。彼女は形のいい眉を八の字に寄せている。

「すみません、驚かせてしまったみたいですね。私も飲み物を持って来ようと思ったのですが……」
「あ……。あの、あたしこそごめんなさい!あたし、ぼうっとしてて……」

こんなことで悲鳴を上げるだなんて恥ずかしいと赤面したファイツは、プラチナを見て更に顔を赤く染めた。プラチナは、それは綺麗に微笑んでいたのだ。元々綺麗な顔立ちは更に綺麗になるわけで、ファイツは息をすることも忘れてただひたすら彼女の顔を見つめた。それに気付いたプラチナは軽く小首を傾げる、そんな何でもない動作すら溜息が出る程に綺麗だとファイツは思った。本当に綺麗だと思う、自分の幼馴染が彼女とつき合っていないことが不思議なくらいに。

「どうされたのですか?」
「え、えっと……。その、綺麗だなって……思って……」
「まあ、ありがとうございます。……でも、ファイツさんだって可愛らしいですよ?」
「え……っ。そ、そんなこと……」
「いけません、ファイツさん!」

”そんなことない”と言いかけた言葉は、自分のそれよりずっと大きなプラチナの声によってかき消された。ものすごく真面目な顔をしたプラチナと、ファイツの目がしっかりと合う。

「もっと、自分に自信を持たなくては!ファイツさんは本当に可愛らしい方なのですから、そんなことでは幸せが逃げてしまいますよ!」
「あ、あの……。プラチナさん……?」

それはもう力いっぱい力説されたファイツは、小さな声でそう呟いた。プラチナは我に返ったのかコホンと気まずそうに小さな咳払いを1つして、だけどやっぱり真面目な顔付きのまま口を開いた。

「本当に……。本当に、私はそう思っています。一応念の為に断っておきますが、これは断じてお世辞ではありませんから」
「あ、ありがとう……」

彼女の勢いに押されたファイツは、自分をそう思えないと思いつつもお礼を言った。そうしてから、数学の問題を教えてもらったことのお礼をまだしていないことに気が付いた。自分からやや離れてドリンクバーの機械を物珍しそうに眺め始めたプラチナに、ファイツはそっと近付いた。

「その……。プラチナさん、さっきはありがとう……」
「……さっき、とは?」
「あたしに数学を教えてくれたから……。ここに来る前に終わらせちゃおうって思ったんだけど、全然分からなくて……」

今日は息抜きをしようねとワイに言われたのにも関わらず、結局数学のある問題が分からなかったファイツは問題集を持って来ていた。自分にはさっぱり分からないこの問題も、プラチナなら分かるかもしれないと思ったのだ。座席に座るなり教えて欲しいと言った自分の態度は、今思うとそれは失礼だったと思う。だけど彼女は嫌な顔1つ見せず、二つ返事で頷いてくれた。それどころか、1回では分からなかった自分の為に繰り返し説明してくれたのだ。その際もプラチナは顔を顰めることもなく、ファイツが苦手な数学をそれは丁寧に教えてくれた。

(プラチナさんって、本当にすごいなあ……)

彼女は自主的に毎日勉強をしているらしい。ファイツだって同じように勉強をしているものの、それはAクラスに入りたいからという理由があるからだ。目的がないのに勉強を進んでするプラチナを、ファイツは尊敬の眼差しで見つめた。

「……あの、何か?」
「あ、ごめんなさい!……えっと、プラチナさんってすごいなあって思って……。あたしは数学が苦手だから……」

自分が彼女をじっと見つめていたのは事実だ。決まりが悪いからというのもあるけれど、何より緊張してしまったファイツは胸をどきどきさせながら答えた。プラチナは驚いたのか目を見開いて、それから静かに「いいえ」と言った。

「私はすごくなんてありません。私に言わせれば、ファイツさんの方がずっとすごいですよ!」
「え、ええ……?どうしてですか……?」
「私……。実は、国語が苦手なのですよ。特に、登場人物の心情を答える問いは幼い頃から苦手で……。はっきりした答がないからなのでしょうが、しかしファイツさんは国語がそれは得意だとワイさんが言っていました。……すごいです!!」
「そ、そんな!」

片手にコップを持ったファイツは、もう片方の手をぶんぶんと思い切り振った。確かに国語は自分でも得意だと思うけれど、対するプラチナは主要5教科で高得点を叩き出しているのだ。

「ワイさんだけではなく、サファイアさんも同じことを言っていました。ですから、今度は私にも教えて下さると助かるのですが……」
「え……!」

プラチナの言葉にファイツは驚いて目を大きく見開いた。その拍子に落としそうになったコップをしっかりと握り直して、先程より勢いよく首を振る。自分なんかがプラチナに勉強を教えるなんて、とんでもない!

「あ、あたしが教えるなんて恐れ多いよ!ワイちゃんとかサファイアちゃんならともかく、あたしがプラチナちゃんに教えるなんて……!……あ!!」

プラチナのことを”ちゃん”付けで呼んだことに気が付いたファイツは、片手で口を覆った。「勉強を教えて欲しい」だなんて言われてパニックになっていた所為か、ついワイやサファイアに対する呼び方と同じように彼女を呼んでしまったのだ。

「……今、プラチナ”ちゃん”と……そう呼ばれましたね」
「は、はい……」

おずおずと返事をすると、プラチナはこちらを凝視したまま固まってしまった。重苦しい沈黙と自分に突き刺さる彼女の視線に身を縮こませていたものの、ついに耐え切れなくなったファイツは思い切って口を開いた。

「あ、あの……」

しかし、口から出て来たのは言葉にならない言葉だった。どうしてきちんと喋れないんだろうと自分に失望しながら、それでももう一度話しかけようとファイツは拳をぎゅうっと握った。

「……ファイツさん」
「は、はいっ!」

黙り込んでいたプラチナは、不意にファイツの名を呼んだ。だけど、今しがた自分を呼んだ時のプラチナの声はファイツにも分かるくらいに震えていた。

(ど……どうしよう……。プラチナさん、怒っちゃったのかなあ……)

もしかしたら彼女を怒らせたかもしれないと思うと、ファイツは急に怖くなった。思わず拳を更に強く握る。その場から逃げ出してしまいたいと思ったまさにその時、自分の手に温かいものが触れた。手元に視線を落とすと、プラチナが自分の手をしっかりと掴んでいるのが目に入る。

「えっ……?」
「ファイツさん!ぜひ私をその呼び方で呼んでください!」
「あ、あの……?」
「ファイツさんが嫌でなければの話ですが、私としてはそう呼ばれたいのです!」

彼女の勢いに押されたファイツは目を瞬いたが、プラチナはものすごい勢いでまくし立てる。余程興奮しているのか、彼女の頬は赤くなっていた。

「その……。もしかして、嫌でしたか?」

眉根を寄せてそう尋ねた彼女に、ファイツはふるふると首を横に振ってみせた。実際嫌というわけではない、ファイツは余計な不安に駆られて勝手に怖くなっていただけなのだ。それでもどこか不安そうに見えたから、ファイツはもう一度同じ動作を繰り返した。するとようやく彼女は笑ってくれた、やっぱり綺麗な笑みだった。

「ああ、良かった!私……ファイツさんともっと仲良くなりたいとずっと思っていて……!その、ですから出来れば敬語ではなく……ファイツさんの一番話しやすい話し方で接していただきたいのです!」
「は、はい……。あ、うん……」

どうやら彼女は興奮していた為に声を震わせていたらしい。それを理解したファイツはホッとしながらこくんと頷いた。今まで通りに、つい「はい」と言ってしまってから、慌てて「うん」と言い直す。それは嬉しそうに微笑んだプラチナの反応を見て、ファイツの胸に温かい何かがじんわりと広がる。言うまでもなくそれは嬉しいという感情だ。面と向かってはっきりと”もっと仲良くなりたい”と誰かに言われるなんて、いったいいつ以来のことだろう?

「分かった。えっと……じゃあ、これからプラチナちゃんって呼ぶね」
「はい!ああ、嬉しいです!」

にこにこと笑っているプラチナは、言葉通りにそれは嬉しそうな表情を見せていた。つい今さっき言われたことを思い出して、未だに興奮冷めやらぬプラチナにファイツはそっと話しかけた。

「あの……。プラチナちゃん」

おずおずと話しかけたのは理由がある。彼女の顔というより全身から滲み出る雰囲気に圧倒されたのもそうだが、単に緊張したのだ。普通に話そうと決めたとはいえ、ファイツは自他共に認める程の人見知りだ。ましてや相手は誰もが認める美人な上に、長い間勝手に幼馴染の彼女だと思い込んでいた人物だ。それでもワイやサファイアだったらすぐに打ち解けることも出来ただろうが、決して自分は彼女達のようにはなれないことをファイツはよく知っていた。きっと、将来的には2人の親友と同じようにプラチナに接することが出来るとは思う。しかし、そうなるまでにはそれなりに時間がかかるだろう。

「えっとね……。あたし、人見知りが激しいの。だから緊張しちゃうとどもっちゃったりするんだけど、慣れれば普通に話せるようになると思うの……。少しの間は大袈裟に反応しちゃうかもしれないけど、よろしくお願いします……」
「分かりました。私こそ、これからもよろしくお願いします!」
「うん……。あ、プラチナちゃんも一番話しやすい喋り方でいいよ?」
「私にとっては敬語が一番自然な話し方なのです。誰に対しても私は敬語ですから、どうかお構いなく。……ところで、ファイツさんは何を飲みますか?」
「あ!……そうだった!!」

ジュースのお代わりをしようとドリンクバーのコーナーに来たはずなのに、気が付けばかなりの時間話し込んでしまっていた。夏休みの午後ということもあって座席には何人かのお客がいるのだが、幸運なことに自分達が話し込んでいる間はただの1人も来ることはなかった。他のお客さんが来なくて良かったと心の底から思いながら、ファイツはコップを置いてオレンジジュースのボタンを押した。空になったコップに注がれていくジュースを何の気なしに眺めていたファイツは、隣にいるプラチナが困った様子で立ち尽くしているのに気が付いた。

「どうしたの?」
「私……恥ずかしながら、ドリンクバーを利用するのは初めてなのです。ここに書かれている説明の通りにすればいいのですよね?」
「うん、そうだよ!」

程なくして無事に紅茶を淹れることに成功したプラチナは、何度も「ありがとうございます」と頭を下げて来た。くすぐったい気持ちになりながら、ファイツは元いた座席へと戻った。座席に腰を下ろしてコップを置くや否や、隣に座っていたワイに肩をばしばしと叩かれる。

「何よファイツ!何でこの問題が分かるの!?これ、いくら考えても全然分かんないんだけど!」
「あたしもお手上げったい!!」

ワイの声量に負けじと、サファイアも大きな声を上げる。2人共眉間に深い皺を刻んで、それは難しい顔をしていた。問題を解くのに使ってねとファイツが提供したノートの1ページには、席を離れる際にはなかった可愛らしい鳥やら蛙の落書きが描かれていた。それでもちゃんと書きかけの計算式がいくつも書かれているところを見ると、2人が相当に悪戦苦闘したことが窺える。

「ねえ、どうしてファイツは分かるの!?」
「あ、あのね……。あたしも最初から分かったわけじゃないよ。プラチナちゃんに教えてもらわなかったら、少しも理解出来なかったもん……。それに、何回も教えてもらったし……」
「アタシも同じように教えてもらったけど、全然分かんなかったわ。やっぱり普段から勉強してるだけはあるわね、ファイツ!」
「あ!……ファイツば、プラチナの呼び方が違うったい!」
「あ。本当!プラチナちゃんって呼ぶことにしたの?」
「うん!」

大きく頷いたファイツは、プラチナと顔を見合わせた。すると、綺麗な笑みを湛えた彼女が嬉しそうに頷く。ワイとサファイアは少しの間互いの顔を見合わせていたものの、すぐにその顔は笑顔になった。先程まで問題が解けないと言って顰め面をしていたとは思えないくらいの晴れ晴れとした笑みだった。

「そうなんだ!……うん、アタシも何だか嬉しくなってきちゃった!」
「あたしもったい!ファイツば人見知りが激しいけん、普通に話せる相手が増えるのはいいことったいね!」
「サファイアの言う通りだわ!良かったね、プラチナ!ファイツと仲良くしたいって言ってたもんね?」
「はい!呼び方が違うだけといえばそれまでですが、それでも以前よりずっと距離が縮まった気がします!」
「あ……」

心がポカポカと温まったのも束の間、プラチナに”呼び方が違う”と言われて…ファイツは思わず声を漏らした。しかし、極小さな声だった為に3人には気付かれなかったらしい。顔を見合わせてお喋りしている3人を見ながら、ファイツはホッと安堵した。

(……うん、大丈夫。前より良くなってる)

自分のことを時折呼び捨てで呼ぶ幼馴染を頭に思い浮かべてしまった結果、ファイツはつい反応してしまった。どういうわけか彼のことを考えるとどきどきしてしまうけれど、だけどそのどきどきは前に比べれば穏やかなものだった。どうやら自分にかけた暗示はうまくかかっているらしい。
つい先日のことだ、従姉と行った店で”ラクツくんに押し倒される夢を見た”なんて話を耳にしてしまったファイツは、帰宅してからも中々胸のどきどきが収まらなかった。もちろんファイツは幼馴染に一度だってそんなことをされた覚えはないし、これからだってそんなことがあるわけもないのだけれど。だけど、何だか妙に意識してしまったのだ。それでも心臓を宥めすかして何とか布団を被ったのだけれど、自分もあの女の子と同じ事態に陥るのではないかと危惧したファイツは”ラクツくんのことはただの幼馴染”と心の中で何度も呟いた。自己暗示の効果があったのか、それともただの偶然かは分からなかったものの、とにかく幼馴染が自分の夢に現れることはなかった。だけど、毎晩寝る前にそんなことを思い浮かべていた為か、ファイツはここのところかなりの寝不足を感じていた。急に襲って来た眠気に勝てなくて、思わず大きなあくびをする。

「ファイツ、眠いの?」
「……うん、ちょっと眠いだけだよ」

大あくびをしたところをばっちりと3人に目撃されてしまったファイツは、恥ずかしさで顔を赤く染めながら答えた。目を擦ってみたものの、中々眠気は取れない。それでもごしごしと目を擦っていると、疑わしげに眉間に皺を寄せたワイがずいっと詰め寄った。

「本当~?まさか、また無理してるんじゃないわよね?」
「う、うん……。大丈夫」
「以前、何かあったのですか?」
「ああ……。この子ったらね、勉強のし過ぎで睡眠不足になったことがあるのよ」
「まあ!くれぐれも無理はしないでくださいね、ファイツさん!」
「うん……。あたしは無理なんかしてないよ。本当に、ちょっと眠いだけだから……」

今回寝不足になったのは夜遅くまで勉強をしていたからではないのだけれど、それは3人には言わなかった。別に秘密にしていたわけではない、ただ言う必要がないと思っただけだ。

「ねえ!今日はもう勉強はお終いにして、ガールズトークでもしようよ!早速だけど、プラチナは気になる人っている?」
「え……。私ですか?……その、私には婚約者がいるものですから」

突然ワイに話を振られたプラチナは、困ったように笑いながらそう言った。婚約者という言葉の響きに、ファイツもサファイアも彼女に尋ねたワイまでもが黙り込んだ。数秒の静寂の後で、真っ先に声を発したのはワイだった。

「え!そうなの、プラチナ!?婚約者って、あの婚約者?」
「はい」
「もしかして親が決めた……とか、そういう感じ?」
「……はい。ですが、私に不満はありません。彼はいい方ですし……」
「婚約者なんて、ドラマの話だけだと思ってたとよ……。結婚ば、あたしにはまだ早いったい……」
「あたしも、そういうのは考えたことがないなあ……」

ようやく回復したファイツは、そっと呟いた。好きで好きで堪らない人はいるけれど、彼と自分が結婚するなんて想像はしたことがなかった。もちろん彼のことは大好きだ、だけどとにかくまず彼と普通に話せるようにならなければどうしようもない……。あの優しい緑色の目をした男の人を想ったファイツは、悩ましげに頬杖をついた。だからファイツは、プラチナが神妙な顔付きで自分を見ていることにまるで気付かなかった。

「あ!サファイアったら顔が赤い!ル……じゃなくて……。えっと、例の彼氏のことを思い浮かべたでしょう!」
「まあ、サファイアさんにはおつき合いしている方がいらっしゃるのですか?」
「う……。これは内緒とよ、あたしばルビーとつき合ってるったい……。その、手芸部の。プラチナやから話したやけんね!」
「ああ……。そういえば、裁縫がそれは得意な方が手芸部にいましたね。そうですか、サファイアさんはその方とおつき合いしているのですか……。もちろん、誰にも言いませんから安心してください」
「ああもう恥ずかしいったい!……ワ、ワイこそエックスとよく2人きりで出かけてるけんね!」

サファイアは、お返しとばかりにそう指摘する。顔を赤くさせたサファイアとは対照的に、ワイは至って平然と「だって幼馴染だもの」と答えた。

「もう、何回その話をするのよ。アタシとエックスは幼馴染なんだからさ、別に2人きりで出かけたっておかしくないでしょう。普通よ普通!……さ、せっかく来たんだから何か美味しいものでも食べようよ。ねえファイツ、ちょっとそこのメニューを取ってくれる?」
「あ、うん……。あたしは一番最後に決めるから、皆先に選んじゃって?」

メニューをワイに手渡したファイツは、何となく正面を見た。するとそこにはプラチナがいて、物珍しそうにメニューを見つめているのが映る。彼女の言う通り、この場所に来たことが今までになかったのだろう。その瞳は、きらきらと輝いているようにファイツには見えた。プラチナという名に相応しい煌きだ。

(あたし……。プラチナちゃんをラクツくんの彼女だと思ってたんだよね……)

ほんの少し前まではそうであると固く信じていたのだが、実際に違うのだと分かっても未だに信じられない程だった。そんなお似合いに見えた2人は、だけど本当の恋人ではないらしい。”告白される回数を減らしたいからだ”と告げた幼馴染の顔が浮かんで、ファイツはそっと目を伏せた。途端に、”ラクツくんのことが好きなの”と一緒にいた女の子達にはっきり言い切った彼女の姿が頭に浮かんだ。

(あの子って、やっぱりラクツくんのことが好きなんだよね……。告白、するのかなあ……)

オムライス屋さんで見かけた女の子は、自分が以前ぶつかってしまった子だった。あの時はまったく何も思わなかったけれど、もしかしたら自分は彼女の邪魔をしてしまったかもしれない。もう過去のこととはいえ、それを思うとどうにも憂鬱な気持ちになる。彼女のことは全然知らないけれど、少なくとも自分よりずっと勇気があることだけは分かる。告白なんて、臆病な自分には出来そうもない。大好きだと声に出さずに呟くので精一杯だ、好きですと言うところを想像しただけで震えてしまうくらいだ。

(でも、ラクツくんって誰ともつき合う気がないみたいだし……。あの子、断られちゃうのかなあ……。……あ、でもあの子って押しが強そうだったから、もしかしたらつき合うことになるかも……。あんまりよく憶えてないけど、スタイルがすごく良かったような気がしたし……)

そんなことをぼんやりと考えていたファイツは、ふとあることを思い浮かべた。つまり、自分の幼馴染がその子を押し倒しているという光景を想像したのだ。

(あ、あたしったらいったい何を考えてるの!?)

きっと、オムライス屋でそんな話題を耳にしてしまった所為だ。”ラクツくんに押し倒された夢を見た”なんて話をあの子がして、そしてそれを自分が聞いたから、だからそんな光景を想像してしまったのだ。

(も、もう!あのラクツくんがそんなことするわけないのに!……というか、何でこんなにラクツくんのことを考えちゃうのよ!あたしが好きなのはN先生だけなんだから!)

真っ赤になったファイツは、おそるおそる向かい側にいるプラチナとサファイアの様子を窺った。幸い2人も、そして隣にいるワイもメニューに見入っていてこちらに気付くことはなかった。ああ良かったと思いながら、ファイツは心の中で独り言を言った。

(ラクツくんはあたしの大切な幼馴染!それだけの関係なんだから!)

彼が自分に勉強を教えてくれる日がすぐそこまで近付いている、夏休みの最後の日だ。それを思うとちょっとどきどきするけれど、だけど自分達は幼馴染でしかないのだ。何も緊張することはないのだと、ファイツはそう言い聞かせた。

「……ファイツ、ファイツってば!」
「えっ?……あ、ありがとう、ワイちゃん……」

目の前にメニューが差し出されていることに気が付いたファイツは、お礼を言いながらそれを受け取った。「心あらずって感じだったけど大丈夫?」と心配してくれた彼女に「うん」と答えたけれど、それは嘘だった。まったく大丈夫ではなかったのだが、ファイツはそう言わなかった。何となく、言ってはいけないような気がしたのだ。

「ワイちゃんはもう決めたの?」
「うん、アタシはこのショートケーキにする!」
「そっか。あたしはやっぱりパフェにしようかなあ……」

ファイツはメニューを開いてみた、そこにはデザートの定番のパフェの写真がいくつか載っていた。「何のパフェにしようか迷っちゃう」なんて言いつつも、だけど心では幼馴染のことばかり考えていて。最近の自分はおかしい、どこかが確実におかしい。その自覚はあるものの、それでもファイツは”大丈夫”だと自分に言い聞かせた。正体が分からないもやもやした気持ちを感じながら、だけどファイツは”おかしいのは今だけだから”と心の中で呟いた。
そう、おかしいのは今だけなのだ。新学期になって、ファイツが大好きなあの人に会えば、そうすればすぐに良くなるに決まっている。Nというただ1人の男の人だけに、自分の心臓は高鳴るはずなのだ。そうに決まっている、絶対に絶対に……そうに決まっている。