school days : 101
どく・まひ・こんらん・ねむり
幼馴染の家で勉強を終えたファイツが帰宅したのは、夕方の5時半を少し回った頃だった。すぐにシャワーを浴びて汗を綺麗さっぱり流したファイツは、少し休憩しようと自分の部屋に向かって。そして何をするわけでもなく、ベッドに寝転がってぼんやりと時を過ごしていた。時間が経つのは早いもので、横になってからもう30分が経過している。今日も予備校に行っているホワイトが帰って来るのは夜の8時を過ぎる頃だろう。だから、ファイツはそろそろ夕飯の準備をしなければならないのだ。しかしそうしなくちゃと頭では思うのに、何故だかその気になれなかった。シャワーを浴びた為なのか身体を起こすのも億劫で、このまま眠ってしまいたいとすら思った。だけど、目を閉じるとどうしてか幼馴染の顔が浮かんで来てしまう。そっと溜息をついて、ファイツは口元に手をやった。「そういえば、言いそびれちゃったな……」
優しい彼は、もしかしたら夏祭でのことを気にしているかもしれない。彼は悪くないのに、罪悪感を抱いているかもしれない。だから「あのことは気にしないでね」と、笑って明るく言おう。そう自分で決めたはずだったのに、しかしファイツはそれが出来なかった。頭からすっかり吹き飛んでいたと表現する方が正しいかもしれない。ちゃんと言おうと決めたのに今になって思い出すだなんて、最近の自分は本当におかしい。それだけではない、気が付けばファイツはラクツのことを考えてしまっている。
夏祭を一緒に見て回った時だってこうなってしまったけれど、あれはもう仕方ないと思う。だってあれはどう考えてもデートだった、しかも自分にとっては人生で初めてのデートだ。それでも、ファイツには分からなかった。人生初のデートの最中とか、帰宅した直後にこうなるのならまだ理解出来るのに。けれど、あれから数日が経っているのにも拘らず、ファイツの頭の中はまたもや幼馴染の存在でいっぱいになっていたのだ。夏祭での時のように彼に手を握られたとか、そういうことがあったわけでもないのに。ただ彼の家で2人きりになって、彼に勉強を教えてもらっただけだ。それなのに、こんなにも幼馴染のことで頭がいっぱいになってしまうなんて。本当に、自分はどうかしている……。
「……ワイちゃんの、所為だよ」
ファイツはごろんと寝返りを打って、ぽつりとそう呟いた。弱々しく呟いたのとは対照的に、枕の端を思い切りぎゅうっと強く掴む。自分でも分かっている、これはもう完璧な八つ当たりだ。しかしファイツはそうせずにはいられなかった。このもやもやした気持ちを枕以外の何にぶつければいいのか、ファイツには分からなかったのだ。
「ワイちゃんが、あたしに変なことを言うから……。だから、あたしは……っ」
そこまで声に出したファイツは、けれどその言葉の続きを飲み込んだ。自分が幼馴染の存在を変に意識してしまっていることは流石に分かっている。だけど、それはワイに”ラクツくんのことが好きになったの?”と言われてしまったからだ。そうに違いない、そうに決まっている……。
「…………」
親友にこの前言われた”ラクツくんのことが好きになったの?”という言葉に違うよと返したファイツは、けれど頭のどこかではずっとそのことを気にしていた。今だってそうだ、目を大きく見開いたワイの表情と共に、彼女の言葉が頭の中で何度も鳴り響いているわけで。つまり、それだけ自分はワイに言われたことを気にしているのだ。
(酷いよ、ワイちゃん……)
大切な親友に対して、ファイツはぶつくさと文句を言った。ワイのことは大好きだしいつも色々と助けてもらっているけれど、だけどこれは流石に文句を言っても許されると思う。だって、ワイの言葉がきっかけになったおかげで、ファイツはこんなにも幼馴染を意識するようになってしまったのだ。
(もう……。あたしがN先生を好きだって知ってるのに、何でワイちゃんはあんなことを言ったんだろう?)
分からない、どうして親友はあんなことを言ったのだろうか。親友が何を思ってあんな発言をしたのかが分からない、本気で分からない。
(もしかして……。ワイちゃんにはそう見えるってこと、なの……?)
そう考えてしまって、ファイツは愕然とした。そんなわけがない、自分が幼馴染を好きになってしまったなんて、そんなはずがない。だって、ファイツはNが好きだからポケスペ学園の入学を決めたのだ。今だって、彼が受け持つ特進クラスの生徒になりたいからという動機があるが故に勉強をしているのに。それなのに、ファイツは心変わりをしてしまったのだろうか。一目見たその瞬間からずっとずっと想いを募らせていたNではなく、幼馴染のラクツを自分は好きになってしまったのだろうか?
「……ち、違うよ!」
誰にともなく、ファイツは1人叫んだ。一瞬だけ空しさを感じたけれど、それはどうだって良かった。意味もなく身体をがばりと起こして、思い切り首をぶんぶんと横に振る。確かに、自分はラクツを気にしてしまっているのは事実だ。
今日だって、彼の家に向かう途中に”ラクツくんのことは変に意識しないようにしなくちゃ”と自分に言い聞かせたものだ。何度も何度も、そう強く言い聞かせた。しかしそれにも拘らず、結局は無駄に終わってしまった。彼の姿を見て言葉を交わした瞬間に心臓は大きく跳ねて、こちらの意思に関係なくどきどきと胸は高鳴ってしまった。手と手が触れたわけでもないのに、ただ彼を見ただけなのに。いつも勉強を教えてくれるお礼にと、持って来た自作の煮物をどうにか渡した時だってそうだった。壊れそうになってしまうくらいに、自分の心臓は激しく音を立ててはいなかっただろうか。
「はあ……」
胸に手を当てたファイツは、そっと目を伏せた。やっぱりどきどきと心臓は高鳴っている。いつのまにか顔は赤くなっているし、何故かじんわりと汗をかいてしまっていた。せっかくシャワーを浴びたのにと声に出さずに文句を言って、ベッドに勢いよく倒れ込む。だけど、それでもワイの言葉は消えてくれなかった。赤くなった顔を両手で押さえて、ファイツは違うよねと呟いた。
(……ち、違うよね?今日はちょっと、その……。ちょっとだけ、変になっちゃっただけだよね?ワイちゃんにあんなことを言われちゃったから、だから気になっちゃっただけだよね?)
実際にはちょっとどころかだいぶおかしかったわけなのだけれど、それには気付かない振りをした。”ちょっとだけ変になっただけだから”と、ファイツは誰にともなく言い訳をする。いや、言い訳ではなくこれは事実だ。だって、自分が好きなのはNその人なのだから。
それでも幼馴染のことを変に意識をしてしまったファイツは、今日の勉強会でラクツと目を合わせないようにしていた。何だか、そうしてはいけないような気がしたのだ。その努力も空しく結局は目が合ってしまったわけだけれど、どうにか目を合わせないようにしようと心がけていたのは事実だった。
(その所為で、きっとラクツくんに心配かけちゃったよね……。気にしてないといいんだけどなあ……)
ラクツは今日も優しかった、相変わらず優しかった。もしかしたら無視をされるかもなんて思ったことが恥ずかしいと思える程に優しかった。彼は「何か悩みでもあるのか」と、心配そうな声で尋ねてくれた。その上気まずくなったファイツが露骨に話題を変えたのにも拘らず、「そうか」とだけ言ってくれた。多分、彼は話を合わせてくれたのだろう。深く追及しないその態度も本当に優しい。止めとばかりに、「時間を作るからキミの都合がつけば夏休みの最後の日にでも勉強を見る」と今日の勉強会の終わり際に言ってくれた。どうして彼はこんなにも自分に優しくしてくれるのだろうと、ファイツは思った。
「ラクツくんって、どうしてあんなに優しいんだろう?」
優しいといえば、目が合った時の彼がとても優しい表情をしていたように見えたことを思い出した。彼はとても優しい瞳で、何かを大切なものを慈しむかのように目を細めていた。あれは、ファイツの見間違いだったのだろうか?
(ラクツくんって、あんな風に笑う人じゃなかった気がするし……。……うん、やっぱりあたしの見間違いだよね)
そう、あれはきっと自分の気の所為だ。目が合ってしまった事実と、あれ程優しい瞳をした彼に驚いた結果、ファイツは思わず声を上げてしまったけれど。だけど、あれは何かの間違いだったのだろう。自分達はただの幼馴染に過ぎないのだ、ファイツには彼にあんな瞳で見られる理由がまるで思いつかなかった。そうしてラクツのことをまたしても考えていたファイツは、心拍数が上がった事実に気が付いた。ラクツにじっと見つめられたことを思い出すと、どうしても顔が赤くなってしまう。今はラクツ本人に見つめられているわけではないけれど、やっぱり赤くなる……。
「もう……。ワイちゃんもワイちゃんだけど、ラクツくんもラクツくんだよ。何も、あたしを見つめたまま考え事なんてしなくてもいいのに……」
ファイツは頬を膨らませて、本日数回目の文句を言った。どうして自分をあれ程見つめたまま考え事をしたのだなんて、今更言っても仕方のないことをぶつぶつと呟く。
(もしかして、あたし……。ラクツくんに変な子だって思われた……?)
自分でも変だと分かるくらいなのだから、鋭い彼はファイツの様子がおかしいことに絶対に気付いていただろう。いや、事実気付いていたから「悩みでもあるのか」なんて尋ねて来たのだ。けれど、ファイツは「実はそうなの」とは言わなかった。正直に答えずに、「ううん」と言った……。
(だって、言えるわけないよ……)
彼に嘘をついてしまったことになるわけだけれど、でもそれで良かったのだろうとファイツは思った。多分、自分は正しいことをしたのだ。いくら何でも”ラクツくんのことを変に気にしちゃってるの”などと打ち明けたら良くないことくらいは分かる。
(だってだって、あたしが好きなのはN先生なんだもん……。変に打ち明けて気まずくなったら嫌だし、だいたいラクツくんはプラチナさんと……)
そこまで思って、ファイツははたと我に返った。そういえばそうだった、彼は実際にはプラチナとつき合っているわけではないのだ。「プラチナくんとつき合っているわけじゃない」と真剣な表情で告げられたあの夜のことを思い出して、ファイツは先程より強く首を振った。ラクツくんには今好きな人がいないのかななんて考えた自分に向けて、いったい何を考えてるのと呟いた。
「……あ、あたし達はただの幼馴染なんだもん!ラクツくんがもし本当に誰かとつき合ったとしても、N先生を好きなあたしには関係ないよ!」
ファイツは大きな独り言を言って、薄い毛布を頭から被った。そのまま目を閉じるとやっぱり幼馴染の顔が浮かんで来てしまうけれど、ファイツは違うもんと呟いた。
(違うもん、ちょっと意識しちゃっただけだもん。ラクツくんのことは好きだけど、それは幼馴染として好きなだけだもん……)
瞳を閉じたまま、ファイツはそう何度も繰り返した。自分が好きなのはNであって、決して幼馴染の彼などではないのだ。
(時間が経てば、いつものあたしに……。N先生が好きなあたしに、ちゃんと戻るよね?)
あの優しい緑色の瞳をした、大好きな男の人の姿をファイツは思い浮かべた。だけど気を抜くとその大好きな人の姿は薄れて、代わりに別の男の人の姿が浮かんで来る……。茶色の瞳を持つラクツの姿を思い浮かべてしまったファイツは、まるで毒にでも侵されているようだと思った。言い方は悪いけれど、何故か麻痺してしまったように上手く働いてくれない頭では、それ以外の言葉が思い浮かばないのだ。
「N先生に会いたいなあ……」
もうラクツは自分を無視しないのに、もう彼は怖くないのに、けれどファイツはそんなことをふと思った。何だか無性にNに会いたい、会いたくて堪らない……。Nに会えば、絶対に自分はどきどきするはずだ。幼馴染よりもっともっと、自分の心臓は高鳴るはずなのだ。
(そうだよね……。あたしは今、ちょっと混乱してるだけだよね……)
自分にとってただ1人の、この世で一番大好きな人に今すぐ会いたい。これだけ想っているのだから、ひょっとして夢でなら会えるだろうか。
(ちょっとだけなら……いいよね?)
ホワイトが帰って来る前に起きれば何の問題もないはずだ。そう結論を出したファイツは携帯のアラームをセットして、”N先生に会えるといいな”と思いながらそっと目を閉じた。