school days : 100
譲れない願い
「……いったい、何があったんだ?」勉強が一段落ついた頃を見計らって、ラクツは眼前に座っている幼馴染に対してこう尋ねた。今日顔を合わせてからずっと様子がおかしかった彼女は、大袈裟な程に身をびくんと大きく震わせる。それもこちらを見ずに、言葉にならない言葉を発するというおまけつきで。その拍子に、彼女が持っているコップに入った氷がカランと音を立てた。しかし、ラクツは彼女のその反応を見ても口元を上げなかった。笑うどころではない、やはり今日のファイツはどこかがおかしい。
「何か……悩みでもあるのか?」
もし彼女に悩み事があるのならば、その悩みを払拭してやりたい。もちろん自分に出来ることなんてたかが知れているわけだし、そもそもファイツが話してくれるかどうかが分からないのだけれど。それでも好いた相手の様子がおかしいのに見て見ぬ振りをするなんて、ラクツには到底出来なかったのだ。
「…………」
「…………」
「……ううん」
ファイツは少しの間黙っていたが、やがてコップを机の上に置いて静かに首を横に振った。その瞬間にファイツの目線をが泳いだことにラクツはきちんと気付いていたが、これ以上の追及はしなかった。今しがたの反応からしても、十中八九ファイツは嘘をついたのだとは思う。しかし彼女が否定したということは、つまりはそういうことなのだろう。
(……ボクには言いたくないということか)
ファイツがいったい何に悩んでいるのか、知りたくないと言えばそれは嘘になる。けれどむやみやたらに尋ねたところで、結局は彼女を傷付ける結果に終わるだけだ。だからラクツは「そうか」とだけ言って、彼女が今しがた解いた問題の答を見る為に視線を下に落とした。
「……ど、どう……かな。頑張って解いてみたんだけど、合ってる?」
「いや。残念だが、間違っているな」
そう告げると、おずおずと問いかけて来たファイツは大きく肩を落とした。はあっと大きな溜息までついて、見るからにがっかりした表情をしている。
「うう……。また間違えちゃった……」
「だが、途中までは合っていたぞ。最後の計算式さえ間違っていなければ、完璧な正答だった」
「ほ……本当?」
「ああ。だから、そんなに気を落とすな」
「う、うん……。そうだよね、これくらいで落ち込んでちゃダメだよね!全然分からなかった最初の頃に比べれば、ちょっとは成長してるってことだもんね!」
「ああ。……大分、な」
「えへへ……。次は正解出来るように、何とか頑張ってみるね!」
つい先程までは誰が見てもそうだと分かるくらいにしょげていたファイツは、今やはにかんだような笑顔を見せていた。間違えたことをどこかで気にしているのか、満面の笑みではなかった上にどういうわけかこちらを頑なに見ないものの、それでもようやく笑顔を見せてくれたのだ。やはりこの娘には笑っていて欲しいとラクツは思った。ファイツの笑顔を見ると、何だかものすごく癒される気がする。それに、優しい気持ちにもなれるのだ。他の異性の笑顔を見たところで、決してこのような感情にはならないと断言出来る。大いに愛しさを覚えながら、今しがた解いた問題とノートを見比べているファイツのことをラクツはただじっと見つめていた。意識して見つめているというよりは、勝手にそうなってしまうのだが。しかしそれだって、自分がこの娘を好きだから見てしまうのだ。ずっとこのまま、ファイツと2人きりでいたい。そんな考えまで浮かんで、内心で苦笑する。
(まったく、何を考えているんだろうな……)
彼女は単に勉強をしに来ているだけだというのに、教える側の自分が集中していないというのはやはり良くない。良くないというよりかは、彼女にとてつもなく悪い気がする。こんな有様ではこの娘の願いを叶えてやれなくなると、ラクツは自分にそう強く言い聞かせた。せっかく、あのファイツが自分を頼ってくれたのだ。
(絶対に、叶えてやりたい)
ファイツの望みが叶うということは、即ち自分達はクラスメートになるということだ。つまりはこちらにも利点はあるわけで。しかしそれを抜きにしても、この娘の望みは叶えてあげたい。ラクツがそう思った瞬間、ずっとノートを見ていたファイツが顔を上げた。こちらは彼女の姿を見つめていたわけで、自然と目が合う結果になる。
「あ……っ!」
小さく叫んだのは、ファイツだった。ラクツだって彼女と目が合って平然としていられるはずがないのだけれど、どういうわけかファイツは自分以上に動揺しているように思えてならなかった。おまけに、彼女の顔は赤く染まっているようにも見えた。
「……どうした?」
「な、な、何でもないの!!」
多分”何でもない”と返されるだろうなと思いつつもそう訊いてみたのだが、案の定その通りだった。けれどこちらの予想以上に上擦った声で返される結果になり、ラクツは柄にもなく戸惑った。それと同時に心には疑念が渦巻く、やはり今日のファイツはどこかがおかしい。どう考えてもおかしい。身に覚えはないけれど、それでもラクツは口を開いた。
「……ボクは、キミに何かしたか?」
「ち、違うの!ラクツくんがどうとかじゃなくてね……!だから、その……!」
そう言いつつも、ファイツは必死に言葉を探しているように見えた。あからさまな嘘なのか、それとも言葉に詰まったのか。いったいどちらなのか、判断がつかなかったラクツは彼女が続きを言うのを待った。
「だから、あのね……!も、もうすぐ2学期が始まるから……。そうしたら、すぐに球技大会があるでしょう?だから憂鬱だなあって思ったの、本当にそれだけだから!」
「…………」
当然のことながら、自身には人の心を読む力はない。しかし幼馴染故か、ファイツが嘘をついたことがラクツには分かった。何故嘘をつくのか気になって仕方がなかったが、問いただしたい感情を何とか抑えてラクツはまたも「そうか」と言った。
「う、うん。そうなの!……ほら、あたしって体育が苦手だから……」
明らかに安堵した様子のファイツは、何故か目線をノートに固定して数回頷いていた。その反応を笑えばいいのか、それとも何も訊かずにそっとしておいてやるべきか。少々悩んだものの、やはりそっとしておくのが良策だろうと判断したラクツは、しかしそのままファイツのことを見つめ続けた。どうにもこの娘の態度が気になったのだ。急変したファイツの態度は、おそらくはラクツ自身にも関係があるのだろう。けれど、ラクツにはまったく身に覚えがなかった。
(まさか、ワイくんやプラチナくんに何かを吹き込まれでもしたのか?)
もしや、こちらの気持ちを彼女に勝手に明かしたのではないか。根拠はないものの、ラクツはそんな考えを抱いた。しかし、それならばファイツからの「ごめんなさい」がないのもおかしい。悔しいけれど、ファイツには好きな男がいるのだ。いくら自分達は幼馴染といえど、彼女に想い人がいる以上は断られることになるだろう。基本的に流されやすいファイツだけれど、ちゃんとここぞという時には自己主張することをラクツはよく知っている。ファイツは、間違いなくこちらの想いを受け入れないだろう。申し訳なさそうにしながらも、「他に好きな人がいるから、だからごめんなさい」と答えるだろう。
「あ、あの……。ラ、ラクツくん!」
物思いに耽っていたラクツは、自分の名を呼ぶファイツの声で我に返った。「何だ?」と返事をすると、彼女はこちらの顔を見ないままに口を開いた。何だか、告げることを躊躇っているようにラクツには思えた。
「そ、そんなに見られると……。その、あたし……」
「…………」
「あ、あの……。その……っ」
顔を真っ赤に染めてしまったファイツは、消え入るような小さな声でそんな言葉を口にする。ファイツのその反応に、ラクツの心臓は大きく音を立てた。きっと彼女は”困るよ”とか、”恥ずかしいからあんまり見つめないで欲しい”などと言いたかったのだろう。しかし、ファイツはそれきり口を噤んでしまった。自分の両手を触れ合わせながら、そわそわと落ち着かない様子で椅子に座って黙り込んでいる。依然として目線を合わせてくれない上に、その瞳が潤んでいるように見えたのは多分見間違いではないだろう。
(何だ……?)
彼女のこの反応は何だ、とラクツは胸中で呟いた。ファイツは押しに弱くて流されやすくて、ついでにかなりの恥ずかしがりやだ。だから、じっと見られることに抵抗もあるだろう。そして、ラクツはもちろんそれをよく知っている。本来ならば「すまない」と言って、目線を逸らして。そうしてから、彼女が落ち着くのを待ってやるのが最善の行動なのだろうとは思う。しかしラクツは、それをすべきだと分かっていながらもそうしなかった。正確に言えば、出来なかった。希望にも似たある仮説が頭の中に膨れ上がって、正直それどころではなかったのだ。
声も出せずに、ついでに身動きすら出来ずに、ラクツはただひたすらファイツのことを見つめ続けた。そんな中で、ラクツは浴衣を着た彼女の姿をふと思い出した。あの姿のファイツの破壊力と来たら、それはもう可愛いという言葉では言い表せない程だった。けれどあの姿の彼女を見た衝撃より、今しがた受けた衝撃の方が数段上だった。
(ボクが自惚れているだけ、なのか……?)
自分が彼女を好きだから、だからこう思ってしまうのだろうか。けれど、ラクツは頭に浮かんだある考えを打ち消すことが出来なかった。”もしかしたら、ファイツも自分のことを想ってくれているのではないか”などという、そんな自分勝手な考えを抱いてしまった。以前にもそのような考えを持ったものの、その時は”自惚れるな”と自分を律することが出来た。だが、今はそれが出来なかった。ファイツがあまりにも顕著な反応をした所為なのだろうか?彼女は顔を真っ赤に染めて、視線を合わせないで、止めとばかりにそわそわと落ち着かない様子で指を動かしている。”ただ恥ずかしがっているだけ”だと片付けるには、どうにも行き過ぎているように思えてならない。ファイツのそれらの反応を総合すると、どうしてもそんな思考に至ってしまうのは仕方のないことなのだろうか。
「…………」
プラチナにもワイにも、”ファイツくんには想いを告げる気はない”と言った。彼女には他に好いた男がいるから、彼女を困らせたくないから、だから告白しないのだとも言った。時折その誓いが揺らぐのもまた事実なのだけれど、しかしファイツが自分ではない男を好きな以上は言うべきではないと、そう自分に何度も言い聞かせて来たのに。けれど、と思う。もし自分が立てた仮説が事実だったなら、それらの問題は一挙に解決したも同然なのではないだろうか?
もちろん、すぐに結論が出せるわけではなかった。それに、最終的にはやはりこちらの考え過ぎだという結論に至るかもしれない。この娘が自分と一緒に夏祭を見て回ってくれたことで、気がかなり大きくなっているのかもしれないとも思った。しかし、もし万が一にも彼女が自分をほんの少しでも意識してくれているというのなら、これを逃す手はない。
「……ファイツくん」
長い長い沈黙と思考の末に、ラクツはようやく言葉を発した。やはりびくんと肩を跳ね上げた彼女は、勢いよく顔を上げた。またもや視線がかち合ったものの、すぐに目は逸らされる。その顔は、言うまでもなく真っ赤に染まっていた。
「な、何……?」
ファイツは視線を明らかにこちらから外したままで、そう返した。蚊の鳴くような、極々小さな声だった。何故彼女の態度が急に変わったのかはやはり気になるが、今はそんなことよりもその事実の方がずっと重要だった。手をこまねいていると、彼女の気持ちが変わってしまうかもしれない。
「いや……。少し、考え事をしていてな。結果、ずっとキミを見つめることになった。その所為で困らせたのなら、悪かった」
「……う、ううん。別に、あたしは気にしてないから……」
そう答えるとすぐに俯いてしまったファイツを、ラクツはほんの少しだけ見つめた。そうしながら、やはり自分は彼女のことが好きなのだと思った。告白するつもりはないなどと友人には言った癖にこう思うなんて、何とも都合がいい男だと自分でも思う。だが、この気持ちだけは誰にも譲れない。ファイツが好きで好きで堪らなくて、誰にも渡したくなくて、彼女を自分のものにしたいのだ。今は声に出さずに呟くだけだけれど、もしかしたら言う機会は結局来ないかもしれないけれど。好きだと告げたら彼女はどんな反応をするのだろうと、ラクツは思った。