school days : 099

人魚姫
「……はあ」

足が焼けてしまう程に熱い砂浜に立ったカスミは、ふうと息をついた。目の前には青い海が広々と広がって実に素晴らしい眺めなのに、けれど心は憂鬱だった。せっかく海にやって来たというのに、結局カスミは先程から海に入っていなかった。これでは1人になった意味がまるでない。

(……今頃、皆は思う存分泳いでるのかしら?)

小学生だった頃から高校生までずっと水泳部であり、そして現在も大学のスイミングサークルに入っているカスミは、親友であるエリカに思い切り遠泳をしたいと言い渡して皆と離れて1人になったのだ。だけど実際には海に一歩も足を踏み入れていないわけで、いったい自分は何をやっているのかとまた溜息をついた。適当に理由をつけて皆のところに戻ろうかとも思ったのだけれど、ふとそう思った途端に彼の姿が頭に浮かんだ。それだけじゃない、黄色とも金色とも取れる髪色をしたあの子の姿も一緒に頭に浮かんだ……。

(レッド、イエロー……)

今までのあの2人の様子を見る限りでは、別に2人はつき合っているわけではない……とは思う。だから例えばカスミがレッドと一緒に泳いだとしても、咎める者はいないはずだ。だけどカスミはそんなことを実行する気にはとてもなれなかった。こう思ってしまうのは、ここに来る少し前にレッドとイエローが自分達から離れて2人きりになった光景を見た所為かもしれない。少し前のイエローの言葉から推測するに、多分誕生日のプレゼントを贈る為に2人きりになったのだとは思うのだけれど。だけどもしそれだけでは済まなかったらと思うと、カスミは暗い気持ちになった。悩みに悩んで、結局は白い水着を選んだというのに。しかし心は、どんよりと黒い雲に覆われたように重かった。
イエローがレッドに告白して、そしてその想いをレッドが受け入れたらと想像するだけで、カスミの胸は締め付けられるように痛くなる。最後に彼の隣にいるのは決して自分じゃない。根拠はないけれど、そんな気がするから。だから自分はレッドに告白するつもりはないけれど、やっぱりそんな光景を想像すると胸はずきずきと痛んでしまう。

「おーい!」

何だか、涙が零れそうになって。視線を足元に向けて目尻にそっと手を当てたその瞬間、想ってやまない人間の声がカスミの耳に飛び込んで来た。聞き間違えるはずがない、あれは絶対にレッドの声だ。あれだけ今は1人になりたいと思っていたはずなのに、カスミは嬉しいと思ってしまった。今ここにいるのは紛れもなくカスミだけで、つまり彼は間違いなく自分を呼んでいるのだ。好きな人に声をかけられたというだけでどんよりと曇っていた心がこんなにも明るくなるだなんて、現金にも程がある。そう苦笑しながら、カスミは俯いていた顔をゆっくりと上げた。やはり自分に声をかけて来たのは彼だった、レッドは実に不思議そうな顔をしている。

「カスミ、こんなところでどうしたんだよ?」
「……ちょっと、思い切り遠泳をしようと思って。もうナナミさん達は来たの?」
「ああ、マサキと一緒にな。でもどうしたんだよ?せっかく海に来たのに、全然泳いでないじゃん」
「今から泳ぐつもりだったのよ」
「そうなのか?」
「そうなの!」

真っ赤な嘘なのだけれど、レッドがそれ以上言及して来ることはなかった。半ば勢いで「今から泳ぐつもりだった」と言ってしまった以上は仕方ないと、カスミは海に向かって足を進めた。砂浜で熱くなった足を冷たい海水の中に入れるのはいつにも増して気持ちがよかった。しかし、カスミはそれ以上前に進まなかった。その代わりに肩越しに振り返る。レッドの視線が先程から背中に突き刺さっているのが、どうにも気になって仕方がなかったのだ。

「……何よ?」

好きな人に見つめられると、否が応でも心臓はどきどきと高鳴ってしまう。それを悟られないようにしなければという心理が働いたのか、普段以上につっけんどんな言い方をしてしまった。けれどレッドは気を害した様子もなく、それどころか満面の笑顔を見せた。

「……いや、久し振りにカスミの泳ぐところを見たくなってさ。カスミって本当、泳ぐの上手いよな。流石は”人魚姫”って言われてるだけあるよな!」
「……人魚姫じゃなくて、おてんば人魚よ。”姫”だなんて、アタシの柄じゃないわ」
「そうか?だけどさあ、カスミの家ってかなりの豪邸じゃん。メイドさん達も何人もいるんだろ?」
「それはそうだけど……。でも、豪邸って言う程じゃないわよ。それを言うならエリカの家の方がずっと大きいし」
「カスミの家だって充分大きいと思うけどなあ。懐かしいよな、よくかくれんぼで遊んだよな!」
「……そうね。そういえば、レッドったらうちのメイド達をよくナンパしてたわよね。懐かしいわね」
「そ、それは昔の話だろ!」

懐かしむように目を細めたレッドは、カスミの言葉を聞くなり慌てて首を横に振った。そんなレッドの反応がおかしくて、カスミはくすくすと笑みを零した。

「と……とにかく!オレは、人魚姫っていうのもカスミにぴったりのあだ名だって思うぜ。だってカスミの泳ぐ姿って、素人が見ても綺麗だって分かるし。オリンピック選手にだって見劣りしてないぜ?」
「それは言い過ぎだと思うけど……。でも……」

続けて”ありがとう”と言おうとして、だけどカスミはその言葉を飲み込んだ。レッドの肩越しに、薄い緑色の水着を着た金髪の女の子がこちらを見ているのが見えたのだ。遠目からだけれど、あの女の子は絶対にイエローだ。

「…………」
「カスミ、どうしたんだ?」
「……ううん、何でもない」

カスミは何とかそれだけを言って、身体の向きを変えた。自分のすぐ後ろにいるレッドに向かって、平静を装いながら口を開く。

「……それじゃあアタシはしばらく1人で泳ぐから、レッドは皆と泳いでて?」
「……え?オレ、ここにいちゃダメか?」
「ダメってわけじゃ、ないけど……。あんまりじろじろ見られてると、気が散って泳ぎに集中出来ないのよ。気が済んだら、アタシも皆のところに行くから」
「……分かった。じゃあ、後でな」

そう告げたレッドに返事をすることもなく、そして後ろを振り返ることもなく、カスミは海に飛び込んだ。瞳からは涙が溢れていたけれど、それを知る人間は当然自分以外にいなかった。ただひたすら泳ぐカスミの脳内に、ふとレッドの言葉が蘇った。

(人魚姫、か)

人魚姫だなんてあだ名は、やっぱり自分には似合わないと思うけれど。だけどカスミは人魚姫になりたいと思った。最後には泡になってしまった人魚姫のように、レッドに対する気持ちも泡となって消えてくれたらどれだけいいだろう。この胸の痛みも泡沫のように消えてくれたらいいのにと思いながら、カスミは1人孤独に海を泳いだ。