school days : 096
魅せる者
「師匠、どうですか?」自分が描いたデザイン画のコピーをミクリに見せたルビーは、緊張しながらもそう尋ねた。普段から何事にもあまり物怖じしないルビーだけれど、この瞬間はどうしたって緊張してしまう。ファッションデザイナーであるミクリは自分が手渡したデザイン画をじっと眺めていたが、ふむと頷いて顎に手を添えた。
「私はいいデザインだと思う。ただ、こうした方が更に良くなると思うのだが……」
そう言いながら、ミクリはルビーが描いたデザイン画に手を加えていく。その様子を隣で眺めていたルビーは息を吐いた。もちろんこれは感嘆の溜息で、手を加えられたことに対するものではない。
「……私ならこうするかな、もちろんこれもいいデザインだがね。きっと、アダン先生も誉めてくださると思う。まだコピーはあるんだろう?後で先生にも見せるから」
「大師匠にですか!?ありがとうございます、師匠!」
穏やかに告げられたミクリの言葉に、ルビーは瞳を輝かせて答えた。将来の夢はファッションデザイナーになることだと固く決めているルビーは、学校が長い休みになるとこうしてミクリが経営しているルネデザイン事務所で住み込みのアルバイトをさせてもらっているのだ。ちなみに大師匠というのは、自分の師匠であるミクリのこれまた師匠に当たるアダンのことだ。滅多に会えない彼を、ルビーは尊敬の意味を込めて勝手に大師匠と呼ばせてもらっている。師匠の師匠であるわけなのだから何とも安直なネーミングだと思うのだけれど、特にそのことで何かを言われたことはないのだから自分としてはそれでいいと思っている。
「師匠、コーヒーは飲みますか?」
「ああ……。ありがとう、それでは淹れてもらおうかな」
「はい!」
ルビーのアルバイトの内容は、今のところデザイン事務所の家事全般だ。今は学生ということもありデザインに関する事柄は任されてもらえないのだけれど、空いた時間にこうして自分が描いたデザインを見てもらえるのだからルビーに不満はなかった。もちろん裁縫が群を抜いて好きだが、ルビーは元々料理も掃除も割と好きな方なのだ。少なくとも空手をやるよりずっと好きで、なおかつ自分に合っていると断言出来る。仕事場である今の部屋からキッチンに向かったルビーは、早速いつも通りにサイフォンを使ってコーヒーを淹れ始めた。最初は四苦八苦したものだが、今ではもうサイフォンでコーヒーを淹れるのもお手の物だ。
(ただ……。慣れたってことと、美味しいコーヒーを淹れられるかってことは……また別の問題なんだよなあ……)
コーヒー通であるアダンの影響か、ミクリもまた彼程にないにせよコーヒーにうるさい。そんなミクリ好みの味のそれを淹れられるようになるまで、それなりの時間がかかっていた。しかし、未だに自分のコーヒーをアダンがおかわりしたことはないのだ。デザイン画もそうだ、まずミクリのお眼鏡に敵った物でないとアダンに見てもらえないし、時には厳しい意見をもらうこともある。それでもルビーは幸せだった、まだその道のプロでもない自分を同じように扱ってくれるのだ。それはとてつもなく幸せなことだろう。
「ふう……」
ミクリと自分の分のコーヒーカップを小さな戸棚から取り出して、ルビーは一息ついた。住み込みのアルバイトをさせてもらうようになってから、今では自分専用の食器もいくつかここに置かせてもらっているのだ。溢さないように慎重にカップにコーヒーを注いで、これまた慎重な足取りでルビーは仕事場へと戻った。
「師匠、コーヒーが入りました」
「ああ、ありがとう。じゃあ少し休憩にしようか、ルビーも少し休みたまえ」
「はい」
コーヒーをすぐに飲み終えたら今度は掃除でもしようかと考えていたルビーは、ミクリの言葉に素直に頷いた。彼と向かい合って、小さめのソファーに腰を下ろす。コーヒーをひと口飲んだミクリに対してルビーは「どうですか」と尋ねた。先程デザイン画を見せた時よりはマシだけれど、やはりこの瞬間も緊張してしまう。
「うん、美味しい」
「ああ良かった!でも、大師匠にはまだそう言われたことがないんですよ。ありがとうとは言われるんですけど……」
「ふむ……。多分…アダン先生は、もっと濃いコーヒーが好みなのだろうね」
「あ、やっぱりそう思いますか?……ボクもまだまだですね」
「先生は私よりずっとコーヒー通だからね、気を落とすことはない」
「……はい」
湯気が立ち上るコーヒーカップに口を付けていたミクリは、しばらくそうしていたものの、ふと軽く息を吐いた。
「ルビーがここに来てからもう1年か。……早いものだな」
「はい……。ボクもそう思います。何だか、もっと前からここにいたような気がするんです。師匠はボクと初めて会った時のことを憶えてますか?」
「ああ。何しろ、いきなり事務所に押しかけて来て”弟子にしてくれ”と言って来た男の子だからね。忘れたくとも忘れられないよ」
「あの時は、そうするしか他に方法がないと思い込んでいたんです。先生がデザインした服を見なければ、ボクは今でも空手をやっていたかもしれませんね……」
今でもはっきりと思い出せる、それ程の衝撃だった。父親であるセンリの言い付けをまだおとなしく守っていた頃、空手に関する雑誌を探す為に来ていた本屋でルビーはファッション雑誌を手に取った。何故そうしたのかは流石に憶えていない。たまには普段は読まない雑誌でも読んでみるか程度の、軽い気持ちだったのかもしれない。
けれど何気なくページを捲ったその瞬間、ルビーの全身には稲妻が落ちた。雑誌に載っていた女物の服に、空手一筋だった当時の自分は見事に心を奪われたのだ。それからは早かった、あれよあれよという間にルビーは幼い頃から長続けていた空手をあっさりと止めた。元々父親の言い付けで始めたので、止めたことに未練は微塵もなかった。それでも服作りについては素人同然だったルビーは、空手関係の本を買おうとした場所で「初めての裁縫」という題名の本を買って服作りを勉強し始めた。幸い家庭科の成績も良かった上に手先も元から器用だったので、それ程苦労はしなかった。しかし服についての知識が深まるに比例して、どうしても自分のことを魅せたデザイナーのことも気になってしまう……。
とうとうその気持ちをまるで我慢出来なくなったルビーは、彼が設立した事務所の住所を調べた。思いのままにここに押しかけて、応対したミクリに「あなたの弟子にして下さい」と頼んだのだ。当然にべもなく断られたけれど、ルビーは粘り強く何度もここに来て頼み込んだ。そして何度目の訪問だろうか、とうとうミクリは自分が弟子になることを渋々ながらも認めてくれた。もちろん、学業を疎かにしないことという条件をきっちりと提示されたけれど。
「今から思うと、自分でも分不相応過ぎると思いますけど……。でも、師匠のおかげでボクは本当に自分のやりたいことがはっきりと分かったんです。師匠には感謝してもし尽くせませんよ」
「はは、私もルビーが来てくれて良かったと思っているよ。キミのデザインの発想はいい刺激になるし、おまけに家事もしてくれて正直とても助かっている。ルビーが高校を卒業したら、うちに来てくれると非常にありがたいのだが……」
「もちろんボクもそのつもりでいます。クラスには大学に進学する予定の人が圧倒的に多いんですけど、ボクは早く一人前のデザイナーになりたいですから」
「だが、ルビー。高校生活は今しかないのだ。デザインの勉強も大事だが、勉学も遊びも大事だぞ」
「はい、分かっています。……今度の日曜日に、サファイアとデートをする約束をしてるんですよ。周囲にばれないように、少し遠出をしようかって話もしてて」
頭に浮かんだのは、自分とは正反対の非常に活発である恋人の姿だ。彼女とつき合っていることを周囲の人間に隠しているルビーは、夏祭の日はこのデザイン事務所にこもりきりだったのだ。その埋め合わせの意味も込めて、今度のデートでは思い切りサファイアを甘やかすつもりでいる。本音を打ち明けるのは少し照れ臭いけれど、自分の言葉を聞いたミクリは柔らかく目を細めた。
「それはいい、思う存分彼女とのデートを楽しんで来なさい。せっかく恋人がいるのだから、よく気にかけてあげることだ」
「はい。サファイアに愛想を尽かされるわけにもいきませんしね」
「分かっているならばいい。何にしても、後悔しないように日々を過ごしなさい。……決して私のようになってはいけないよ」
「…………」
そう呟いたミクリは口元こそ笑みを浮かべていたけれど、その表情には暗い影が差しているようにルビーには見えた。数ヶ月前に別れてしまったらしい恋人のことを思い出しているのだろう。
「はい。……でも、やっぱりボクは師匠を見習いたいんです」
「それは、何故かな?」
「だって、ボクは師匠のデザインした服に魅せられましたからね。ボクも将来、誰かを魅せることの出来るデザイナーになりたいんです。これだけは、例え師匠が何と言っても譲れません!」
「……そうか。これからも頑張りなさい」
「はい!」
ルビーはミクリの言葉に大きく返事をした。誰に何を言われたとしてもデザイナーになるのは自分の夢だ、例え父親や姉に何を言われても諦めるつもりはない。
(……父親、か)
未だに空手をしろだの何だのと口うるさい父親のことを思うと、どうにも気が重くなるけれど。だけど自分にはこの夢があるから頑張れるのだ。絶対にファッションデザイナーになってやる、そして出来ることならミクリやアダンのように人を魅せたい。そう強く意気込んで、ルビーは勢いよくコーヒーを飲み干した。