school days : 095

彼と彼女の関係
笑顔で出迎えてくれた従姉の顔を見るなり、ファイツは「あ!」と大声にも似た声を上げた。玄関先で、口をポカンと開けたままの何とも間抜けな格好で固まる。不思議そうな表情をしたホワイトが首を傾げる一連の動きが、ファイツの目にはやけに遅く映った……。

「ご、ごめんねお姉ちゃん!あたし……お姉ちゃんの分の食べ物買って来るの、すっかり忘れちゃってた……っ!」

たっぷり10秒くらい固まっていたファイツは、はっと我に返るとすぐに両手を合わせて謝った。ようやく合点がいったのか、ホワイトは手を左右に振りながら「いいのよ、そんなこと気にしなくても」と笑いながら告げる。そんな優しい従姉に促されて家の中へと入りながら、ファイツは気付かれないように息を吐いた。プラチナの家でヘアメイクをしてもらった時はきちんと憶えていたのに、色々なことがあり過ぎてホワイトの顔を見るまで思い出せなかった。受験勉強で祭に行かなかった従姉の為に出店の食べ物を買うつもりだったことを、ファイツは今の今まですっかり忘れていたのだ。あたしったら何をやってるんだろう、と声に出さずに呟く。

「ああ、やっぱりその浴衣姿のファイツちゃんっていつも以上に可愛い!……ね、どうだった?」
「……え?」
「だから、お祭よ。楽しかった?」
「う、うん……。……楽しかったよ」

まったく楽しくなかったわけではなかった、だけど楽しいというよりは疲れたというのが本音だった。それでもそれを正直に告げるのはにこにこと笑っているホワイトを思うと気が引けて、だからファイツは”楽しかった”と答えた。そう口にするまでに数秒の間が空いたけれど、ホワイトは特に不審には思わなかったらしい。笑顔で「良かったわね」と言ってくれたことにホッとしたファイツは、すぐに自分の部屋へと向かった。

「うう……。すごい汗かいちゃったよ……」

高い気温と何より緊張していた所為で、普段よりかなり汗をかいていた。一刻も早く汗を流したいと思いながら、ファイツは持っていた巾着を椅子の上に無造作に置いた。タンスから半袖のパジャマと下着を引っ張り出して、今度は脱衣所へと向かう。

「あ、ファイツちゃん!今日は一応お風呂にしておいたから、良かったらどうぞ。アタシは先に入ったから」

脱衣所までの道を最短ルートで急いでいたファイツは、自分を気遣ってくれた従姉の言葉に立ち止まった。この時期は大抵シャワーで済ませてしまうのだけれど、今日は疲れを取る為にゆっくりとお湯に浸かろうかななんて考えていたので、今かけられた言葉は心底ありがたかった。「ありがとう」としっかりお礼を言ってから、ファイツは一目散に脱衣所へと滑り込んだ。いつも通りに脱衣所のドアをしっかりと閉めてから、ファイツは身にまとっていた物を手早く脱ぎ去った。いくら従姉とはいえ、自分の裸を見られるのはどうにも恥ずかしいのだ。何となく落ち着かない気分になりながら、今の今まで着ていた物を全て洗濯かごに放り込む。棚から引っ掴んだ真っ白なバスタオルを1枚、自分の部屋から持って来た着替えと一緒に置いてから、ファイツは浴室へと足を踏み入れた。
すぐさまシャワーの蛇口を捻って、大量にかいた汗をまずお湯で流したファイツは、ヘアメイクで使われたワックスを落とす為に普段以上に念入りに頭を洗った。そしてこれまた念入りに時間をかけて全身を石鹸で洗ってから、ようやく湯舟の中に足を入れる。熱過ぎることも温過ぎることもない、実にちょうどいい温度だ。石鹸のいい香りに包まれながら、浴槽の中に入ったファイツは思い切り手足を伸ばした。

「はあ……」

普段ならホワイトに聞こえない程度に鼻歌の1つでも歌うところだけれど、今日はとてもそんな余裕はなかった。こうして静かな場所で1人きりになると、否が応でも彼のことを考えてしまう。彼のというよりは、彼と彼女のことという方がより正確だけれど。

「プラチナさんと、つき合ってたんじゃなかったんだ……」

彼女がいるはずなのにやたらと自分を気にかける幼馴染の姿を実際に目で見て、”おかしい”と思ったけれど。だけど、ファイツは”自分の幼馴染は本当に彼女とつき合っているのだろうか”という疑問をまったく抱かなかった。よくよく考えてみれば、あの彼が恋人を放っておくはずがないのに。しかし彼に告げられるその瞬間まで、ファイツは”ラクツくんにはプラチナさんっていうそれは素敵な彼女がいる”と思い込んでいたのだ。

「あんなにお似合いなのに……。でも、ラクツくんとプラチナさんはただの友達なんだ……。恋人じゃないんだ……」

”ラクツくんとプラチナさんはただの友達”という言葉をもう一度繰り返して、ファイツはぼんやりと浴室の真っ白なタイルを見つめた。お似合いだと思った。本当にお似合いだと、そう思った。エックスとワイも勝手にそうだと思っているけれど、ラクツとプラチナだって隣にいて絵になる2人だとファイツは思っていた。だけどラクツ達は、実際に恋人としてつき合っているわけではないらしいのだ。彼曰く、”女子に告白される回数を減らしたくて”つき合っていることにさせてもらっているのだとか。もちろんプラチナも了承済みのことらしい。

「そういえば……。ラクツくんって昔から女の子にすっごく人気があったけど、あんまり嬉しそうじゃなかったもんね……」

彼がいつからそうなったのかは分からないけれど、ラクツはとにかく女子によくモテていた。だけどよく告白されていた本人の反応はといえば何とも微妙なもので、しかし当時の自分はそれに首を傾げながらも「良かったね」と無邪気に言ったものだった。

「あたし……。あの頃から何にも変わってないなあ……」

気付かなかった、まったく本当に気付かなかった。心の底から、ラクツはプラチナが好きなのだとばかり思っていた。よくよく考えれば気付けることなのに、微塵も2人の関係を疑わなかった。それなのに自分は勝手に勘違いして、2人のデートの邪魔をしたのだと思い込んで。「ごめんなさい」と言って頭を下げた時、プラチナはそれはそれは困惑した顔をしていたけれど、今から思えば当然のことだ。それにラクツも「謝る必要はない」と何度も口にしたが、それもそのはずだ。だって、2人は恋人ではないのだから。ワイは知っていたらしいし、もしかしたら勘が鋭いサファイアも気付いたかもしれない。あの場にいた5人の中で、きっとファイツだけが知らなかった。きっと自分だけが、ラクツとプラチナはつき合っているものだと思い込んでいた……。
恥ずかしいやら情けないやらで、穴があったら入りたいとファイツは思った。おまけに公園で彼の服の裾を掴んでしまったことも思い出して、ものすごく恥ずかしくなった。もちろん穴なんて都合良くあるはずもなくて、その代わりに湯船に思い切り勢いよく全身を沈めた。数秒経ってお湯の中から顔を出したファイツは、髪の毛からお湯が滴り落ちるのにも構わずにそっと息を吐いた。それは、湯船の中で息を止めていた為についた溜息ではなかった。

「……ラクツくん、気にしちゃってるよね」

彼は自分をこのマンションの前まで送ってくれたけれど、普段以上に言葉少なだった。何となく気まずくなったのと混乱していたのとで、ファイツもあまり喋らなかった。せいぜい「暑いね」とか「星が出てるね」とか、そんな何でもないことを言った程度だった。ラクツも自分の言葉に相槌を打っただけで、彼の方から何かを言って来ることはなかった。
だけど、と思う。今だからこそ思うのだけれど、もう少し彼と話すべきだったのではないだろうか。暗い公園で「すまなかった」と悲痛な表情で謝って来たラクツの姿が脳裏に浮かんで、ファイツの胸はまた痛んだ。おそらくはこちらに対して罪悪感を抱いてしまっているであろう彼に、”気にしないで”と笑顔で告げるべきだったのではないだろうか。結局はそれも出来ずにこうして家に帰って来てしまったわけなのだが、暑いとかどうでもいいことを言う前に、まずそれを告げるべきだったのではないかとファイツは思った。いや、絶対にそうするべきだった。

(あたし……。何で”そうなんだ”なんて言ったんだろう……)

”黙っていてすまなかった”と言ったラクツは、本当にすまなそうな表情をしていた。それなのに、自分は「気にしないで」とも「謝ることないよ」とも言わずに、ただ”ラクツくんはプラチナさんとつき合っていない”という事実を受け入れることに精一杯だった。確かに驚きもしたけれど、2人に対して罪悪感を抱きもしたけれど、それは自分が気付かなかったからで、彼は少しも悪くないのに。むしろ、悪いのは自分の方だ。勝手に勘違いをして、本当に泣きはしなかったけれど涙が零れそうになって、2人に散々気を遣わせてしまった。「黙っていて悪かった」なんてラクツは言ったけれど、それだってあまり人に広めたくないから黙っていたのだろう。どこから噂が広まるか分からないのだ、秘密を知っている人間は少ないに越したことはない。それをおそらくは告げたから、だからプラチナも自分に「自分達はただの友人だ」と言わなかったに違いないのだ。本当は言いたくなかったことかもしれない、だけど自分があまりにも気にするから。だからラクツは、気付くことがなかった自分に仕方なく打ち明けることにしたのかもしれない……。

(また……。胸が痛い……)

”彼に対する罪悪感”で、ファイツの胸はまた痛んだ。先程より強い痛みだ、鋭い針で何度も刺されたかのようにずきずきと痛い……。こんなに胸が痛いのは、自分が罪悪感を感じているからだ。あの優しい彼にきっと罪悪感を抱かせてしまったから、「気にすることないよ」と言えなかったから、だから胸が痛いのだ。

「まさか……。また無視されるなんてことは、ないよね……?」

これがきっかけで、また前のようになってしまうかもしれないと思うと、ファイツはぞっとする思いだった。また前のように彼に冷たい目で見られて、そしてあの冷たい声をかけられるなんて絶対に嫌だ。せっかく彼と話せるようになったというのに、また以前の関係に戻るなんて絶対に絶対に嫌だった。

「今度ラクツくんに勉強教えてもらう時に……ちゃんと、言わなくちゃ……」

気にすることなんてないとか、謝ることなんてないとか、あたしこそごめんねとか。もしかしたら最後の言葉は適切ではないかもしれないけれど、とにかく彼に直接会って告げたいと思った。根拠なんてないけれど、メールや電話で済ませてしまうより気持ちがちゃんと伝わる気がする……。

「うん、そうしよう!」

次にラクツに勉強を教えてもらうのは1週間後だ、それ以降は彼が所属する剣道部がまた忙しくなるから難しいかもしれない。1週間後にちゃんと彼に教えてもらった問題をきちんと解けるように勉強をして、そして”今日のことは気にしないで”とちゃんと言おう。ちゃんと彼の目を見て、はっきりと言おう。そうファイツは心に決めて、拳をぎゅうっと強く握った。