school days : 094
臆病
「ファイツくん、そこに座っていてくれ。今、何か飲み物を買って来るから」公園に設置されているベンチに幼馴染を座らせたラクツは、彼女にそう告げた後で暗い公園内を見回した。目当ての自動販売機を見つけて一歩足を踏み出したところで、ラクツは後ろを振り返った。自分が着ている黒いシャツの裾を掴んで不安そうに眉根を寄せているファイツと、目が合う。
「……何だ?」
「え……。……えっ?」
何か自分に言いたいことでもあるのだろうと、ラクツはそう尋ねた。しかしファイツは驚いた様子で声を漏らして、わけが分からないと言わんばかりに首を傾げるだけだった。
(ああ……。無意識か)
彼女がいたずらにそうするような性格の娘ではないと理解しているラクツは、苦笑しながら「ボクの服の裾を掴んでいるから」と告げる。ファイツは自分の指摘にぼんやりと数回瞬きして、そして目線を下に向けた。
「きゃあ!」
余程驚いたのか、そんな可愛らしい声を上げたファイツの反応にまた笑みを零す。彼女が自分の服の裾を掴んでいた手を放したことを感じ取って、ラクツは身体の向きを変えた。ベンチに座って膝に両手を置いたファイツはびくりと大きく身体を震わせる、どうやら委縮してしまったらしい。ファイツは目線を自分に合わせずに、それはおどおどと口を開いた。
「あ……。あの……。ご、ごめんなさい……っ」
「いや、別にいい。……それで、ボクに何の用があるんだ?」
「わ、笑わない?……子供みたいだなって、呆れたりしない?」
「ああ」
「あ、あのね……。あたし、ちょっと怖くなっちゃったの……」
「怖い?」
彼女が言う”怖い”の意味がよく理解出来なくて、ラクツはその言葉を反芻する。怒っているつもりはまったくないのだが、ファイツは怒られた幼子の如くしょげた様子でこくんと頷いた。
「この公園、外灯がないし……。それにあたし達の他には誰もいないから、1人になるのが何だか怖くて……。そ、それでつい……」
「…………」
ファイツの言葉に、ラクツは改めて公園内を見回した。確かに彼女の言う通り、自分達がいるこの公園内には1本の外灯もなかった。暗い公園内に取り残されたところで自分は何とも思わないけれど、ファイツはそうではなかったらしい。
「でも、ラクツくんに言われるまで全然気付かなかった……。こんなことをしちゃってごめんね、驚いたでしょう?」
「確かに驚きはしたが、その謝罪は要らないぞ。むしろ謝るのはボクの方だ、ファイツくんに対する配慮がまたしても欠けていたな。……すまなかったな」
「ううん……。ラクツくんが謝ることなんて、ないよ……」
「じゃあ、キミが謝る必要もない」
そう言い切ると、ファイツは丸くさせた目を柔らかく細めた。「それじゃあ、あいこってことでもいい?」なんて大真面目に口にする彼女の反応に思わず笑いそうになったものの、それを何とか押し止めて、ラクツは何も言わずに頷いた。
「隣に座ってもいいか?」
「……うん」
彼女が頷いたのを確認してから、ラクツは少し距離を開けてベンチに腰を下ろした。あまり近付き過ぎると、良からぬ行動を起こしてしまいそうだったから。ただでさえ可愛いファイツは今浴衣姿で、おまけに周囲には誰もいないのだ。
「…………」
ファイツと同じベンチに腰を下ろしたラクツは、何をするわけでもなくただまっすぐに前を見つめた。1人になるのが怖いと言ったファイツを気遣った故の行動だったのだが、別にラクツは疲れているわけではなかった。緊張した為に精神的にはそれなりに疲労していたが、肉体的にはまるで問題がなかった。しかし、ファイツの方はどうなのだろう。幼馴染とはいえ好いてもいない男に連れ回されて、嫌な思いをしていないだろうか……。
「……ラクツくん」
自分の脳内を今まさに埋め尽くしている張本人に話しかけられて、ラクツは思考を中断させた。わずかに顔を横に向けると、俯いているファイツの姿が目に入る。
「その……。ごめんね……」
「何故、謝る?」
「……だって。今日だけで、数え切れないくらいの迷惑をかけちゃったから……。あたし、本当に色々と迷惑かけちゃったよね……?だからあたし、ラクツくんに謝りたくて……。謝って済むことじゃないけど、本当にごめんなさい……」
そう呟くように告げた幼馴染の声は、明らかに覇気がないようにラクツには思えた。今の「ごめんさい」には、プラチナとのデートを台無しにした謝罪の意味も多分含まれているのだろう。実際には友人でしかないわけなのだが、ファイツはそうは思っていないのだ。
「ボクは気にしていないから、だからキミも謝るな」
「ど、どうして?だって、あたしはラクツくんとプラチナさんの邪魔をしたんだよ?ラクツくん、プラチナさんとすっごくお似合いなのに!なのに、あたしは邪魔ばっかりして!……ふ、2人に気を遣わせてばっかりで……っ!」
手を思い切り握り締めて絞り出すように心情を吐露するファイツの姿を、ラクツは声も出せずに見つめた。顔をこちらに向けない彼女の声は、どう解釈しても震えている。涙こそまだ零れていないものの、そうなるのは時間の問題のように思えてならなかった。困らせたいわけじゃないし、泣かせたいわけでもない。この娘には、いつだって笑っていて欲しい。そう思っているのは本当なのに、しかし今のファイツは今にも泣き出しそうな声をしていた。そしてそうさせたのは、紛れもないラクツ自身なのだ。
「…………」
声を途切れさせて身体を震わせてしまったこの娘を、今すぐに抱き締めたい。そんな衝動が湧き起こったけれど、ラクツは”してはいけない”と必死に言い聞かせた。自分にそのような資格があるはずがない。それでも彼女を抱き締めたいと思っている自分は、そして心のどこかでは嬉しいと感じている自分は、なんて小狡い男なのだろう。わざわざ問うまでもなく、ファイツは自分とプラチナのことを気にしている。今にも泣き出しそうな程に気にしてくれている。ファイツのその姿に罪悪感を抱いたのは確かな事実なのだけれど、同時に嬉しいとラクツは思った。もしかしたらこの娘も自分と同じ気持ちを抱いてくれているかもしれないだなんて、ありもしない考えまで浮かんで来てしまう……。
(……何を考えている)
今はそんなことを考えている場合ではないだろうと、ラクツは胸中で呟いた。本当に、そんな場合ではない。自分が今するべきなのは1人思考することではなく、彼女を抱き締めることでもなく、もちろん”好きだ”と想いを告げることでもない。後者の2つは論外だけれど、それでもそんなことをこの状況下でのんきに考えている自分に毒づいて、ラクツは結んでいた口を開いた。
「……ファイツ」
「…………」
ラクツは好いている相手の名前を呼び捨てで呼んだ。心の底から伝えたいことがあるのに、くん付けなんてするのはまるで取り繕うような気がして良くないと思ったのだ。その所為かどうかは知らないが、彼女は明らかに身をびくりと大きく震わせた。しかし頑なにこちらを見ないファイツの姿を見つめながら、ラクツは軽く息を吸った。”何でもっと早く言ってくれなかったの?”とか、”内緒にしてるなんて酷い”とか。他にも色々と非難の言葉をぶつけられる可能性もある、むしろその可能性の方が高いのではないだろうか。騙していた気はないが、こちらがずっと黙っていたのは事実なのだから。
ラクツは、ふと怖いと思った。暗い公園内に1人で取り残されたところで怖いとも思わないけれど、ファイツにもしかしたら嫌われてしまうかもしれないと思うと怖くなった。彼女を散々傷付けておいてそんなことを危惧する自分は、どうにも怖がりだとも思った。だけど、これ以上真実を告げずに黙っているのは無理だとも思うのだ。今更どうこう言える義理は微塵もないのだが、ファイツを傷付けるのはやはり嫌だった。果たしてファイツがどんな反応を見せるのかは、ラクツには分からない。ただ分かるのは、このまま真実を告げることなく黙っていたら、ファイツの心についた傷は広がる一方だということだけだ。
「ボクは、プラチナくんとつき合っているわけじゃないぞ」
思っていたより小さな声になってしまったものの、静かな公園内では何の問題もないだろう。ラクツははっきりとそう言い切って、軽く息を吐いた。プラチナには”つき合っていることにしておいて欲しい”なんて言いつつも、結局は自分でそれを否定する羽目になるのは予想外だった。それも、この娘に言うことになるだなんて本当に予想外だ。だけどあの時のラクツは、本当に言う必要がないと思っていたのだ。どの道自分の想いは届くことはないと分かっているのだから、別に言わずともいいだろうと思っていた。
それも今となっては言い訳にしかならないけれど、まさかファイツがここまで自分とプラチナのことを気にするなんてまったく思わなかった。それは多分単純に罪悪感を抱いているだけなのだと思うが、泣き出しそうになるくらい気にしてくれるなんて想像もしていなかったのだ。こんなことなら最初から打ち明けていれば余計な心労をかけずに済んだのになんて思いつつ、ラクツはただひたすら好きな女の子の顔を見つめた。
「え……」
ファイツはぽつりとそう呟いて、ゆっくりと……実にゆっくりと顔をこちらに向けた。呆然自失といった表情で、そしてぼんやりと焦点が合わない目で、こちらを見つめている。
「……だから。彼女とはただの友人なだけであって、別にボクの恋人なわけじゃない。だいたい、ボクはプラチナくんに友人以上の好意を抱いたことはただの一度もない」
「え……。でも……。だって……っ」
ファイツは目を瞬かせて、言葉にならない言葉を何度も繰り返した。明らかに困惑している彼女は、目を伏せながら震え声で「だって」と呟いた。
「だって、あんなに……。あんなにお似合いのカップルって……。皆、言ってるのに……」
「周囲が勝手にそう言っているだけだ。いちいち否定するのも面倒だからそうしなかっただけで、本当につき合っているわけじゃない。プラチナくんに確認してくれてもいいし、それにそのことはワイくんも知っている」
「ワイちゃんも……?」
「ああ。とにかく、あれはただの噂だ。だから……ファイツが気に病むことはないし、謝ることはない。……今まで黙っていて、本当に悪かったな」
「ほ……」
「…………」
「本当に……?」
てっきり”どうして黙ってたの?”なんて言葉が出るかと思っていたのに、ファイツが口にしたのはこれまた予想外なことに別の言葉だった。ファイツは青い瞳を瞬かせて首を傾げながら、大いに困惑したような声でそう呟いた。
「……本当に、そうなの?」
「ああ」
「ラクツくんは、プラチナさんと本当につき合ってないの?」
「ああ。告白される回数を減らす為にも、これからもつき合っていることにはさせてもらうつもりだが……。本当にプラチナくんとつき合うつもりはない」
「そう、なんだ……」
ファイツはそれを言ったきり、口を閉ざしてしまった。彼女が今何を思っているのか、そして何故自分を責めないのか。気になる癖に、気になって仕方がない癖に、それを正面切って訊けない自分は本当に臆病だとラクツは思った。