school days : 091

大好きだけど好きじゃない
轟音と共に空に咲いた花を見上げながら、ファイツはそっと溜息をついた。夜空に派手に上がった打ち上げ花火は本当に綺麗だと思うのに、しかし頭では別のことを考えていた。ファイツは幼い頃から花火が好きだった。大好きなお祭が終わってしまうのは淋しいけれど、真っ暗な夜空に赤や緑や青の花が咲くのは本当に綺麗だから。道端に咲いている花も好きだが、たまにしか見られない打ち上げ花火はもっと好きだった。そんな大好きな打ち上げ花火が今上がっているのに、ファイツは全然集中出来ていなかった。自分の隣に立っている幼馴染に言われたことで、頭の中は見事にいっぱいになっていたのだ。ファイツは先程、ラクツに”可愛い”なんて言われてしまった。
誰かにそう言われるのは初めてではない。ファイツとしてはそんなことはないと思うのだけれど、ワイやサファイアに何度か可愛いと言われたことはある。姉のように慕っているホワイトに至っては、可愛いと言いながらぎゅうっと抱き締めて来る始末だ。それが嫌なわけではない、そんなことは決してない。自分では全然可愛くないと思っているファイツは、そんな時は首を傾げながらも曖昧に頷いたものだ。どうしてそう言われるのかは不思議で仕方がなかったが。そんなわけで、とにかくファイツは誰かに可愛いと言われたのは初めてではなかった。しかし、男の人にそう言われたのはこれが初めてだった。今までそう言って来たのは皆同性で、異性にそう告げられるのは正真正銘これが初めてだ。ファイツにとっては爆弾発言とも言える言葉を口にして来たのは、幼馴染の男の人だった。真剣な表情で、本当に可愛いなんて言われてしまった。しかも2回も。
ファイツはまた小さく息を吐いた、どうしても分からないのだ。本当に本当に、意味が分からない。ラクツが何を考えているのかが、さっぱり分からない。自信が持てない自分のことを励まそうとして、彼はそう言ってくれたのだろうかとファイツは思った。だけど、それにしても可愛いと口にするのは良くない気がする。急にそんなことを言われてしまった為に、思考は完全に停止して。だから思わず「はい」と答えてしまったけれど、そう言われるままに頷いてしまったけれど。だけど、とても自信なんて持てそうにない……。

(何で……あんなことを言ったんだろう……)

だって、自分の幼馴染にはそれは素敵な彼女がいるのだ。誰が見たってお似合いだと思うに決まっている彼女だ。先程はファイツがそう言われてしまったけれど、本来は彼女がそう言われるべきなのだ。……いや、数え切れないくらい学校で言われていると思うけれど。とにかく、ラクツの恋人はプラチナなのだ。

(ダメ、なのに……)

あんなにお似合いの恋人がいるのに、自分は彼と幼馴染でしかないのに。けれど可愛いなんて言われてしまったから。あんなに真剣な表情と声で、そう告げられてしまったから。だからファイツは、嬉しいと思ってしまった。もちろん最初に感じたのは驚きと困惑だったのだが、彼の言葉を頭の中で繰り返すうちに、確かに心にはじわじわと嬉しさが込み上げて来たのだ。

(……ダメなのに……。こんなことを思っちゃ、ダメなのに……っ)

隣で花火を見ている幼馴染に気付かれないように、ファイツは極めて小さく頭を振った。嬉しいなんて思っちゃいけないと、声に出さずに呟いた。何度も何度もそう言い聞かせた。可愛いなんて言われてそう思うなんて、プラチナに悪い……。”プラチナさんに悪い”と思った瞬間、ファイツの胸はずきんと痛んだ。”まただ”と唇だけで呟いて、そっと目を伏せる。

(やっぱりこれって、そういうことだよね……)

花火が始まるまでの間、ファイツはずっと考えていた。どうしてこんなに胸が痛くなるのかが不思議で仕方なくて、だからずっとずっと頭を捻っていたのだ。それもラクツに”可愛い”なんて言われたことで、頭の中から吹き飛んでしまったわけなのだけれど。だけどファイツは胸のどきどきをどうにか宥めて考えた末に、やっと結論を出すことが出来た。つまり、これは罪悪なのだ。成り行きとはいえ人の恋人とデートをしてしまって、おまけにその彼には可愛いなんて告げられてしまって。だから自分は、2人に対して罪悪感を感じているのだ。例え自分でなくとも、誰だって悪いと思ってしまうだろう。何しろ、人の彼氏とデートをしてしまったのだから。

(ごめんなさい……。プラチナさん、ラクツくん……)

これは自分を卑下して言うのではない、純粋に悪いと思っているから言うのだ。打ち上げ花火が全て上がり切るのは予定では20時頃となっている、つまりは後5分程だ。そして花火を見終わったら、ワイ達と最初に決めていた待ち合わせ場所で合流する手筈になっている。サファイアに連絡することをようやく思い出したファイツは、先程彼女宛にメールを送ってみた。割とすぐにサファイアからは返事が返って来たことに安堵しつつ、”プラチナが怒っている”なんて書かれていたらと思うと、ファイツは中々メールの内容を確認することが出来なかった。数回の葛藤を経てついに覚悟を決めたファイツは思い切ってメールを開いて彼女からのメールを読んで、そして思わず呆気に取られた。サファイアからのメールには、待ち合わせ場所を確認する文しか書かれていなかったのだ。何度読み返してみても、プラチナのプの字もない。
そのことが気になったけれど、ファイツは特に何も訊かなかった。サファイアに”うん”とだけ返して、携帯を桃色の巾着に入れた。どの道、後でプラチナには頭を下げるつもりなのだ。いや、つもりではなくて頭を下げなければならないのだけれど。

(プラチナさん、やっぱり嫌な気持ちになるよね……)

平身低頭で謝るつもりだけれど、それでも赦してくれるかは分からない。例え表面上は赦してくれたとしても、本当に心の底からそう思っているかは本人以外分かることはない。もちろん、プラチナの態度に自分がどうこう言える資格がないことはよく理解している。出来ることなら赦して欲しいと思ってはいるけれど、それが叶わなくても仕方がないとも思うのだ。何しろ、それだけのことをファイツはしてしまったのだから。せっかくのデートを台無しにしてしまった。自分にとっては初デートなわけだったのだけれど。いや、そんなことはどうでもいいのだ。本当に、そんなことなんてどうでもいい。問題は自分が2人のデートを台無しにしたことだ、これに尽きる。

(ラクツくんにも、ちゃんと謝らなくちゃ……)

つい今しがた、彼には必要以上に謝るのはお前の悪い癖だと言われてしまった。だけど、これはどう考えても謝るべきだと思う。これも自分を卑下しているのではない、どうにも悪いと思うからそうするのだ。ラクツは以前、「キミを嫌うなんてあり得ない」と言ってくれた。だけどそんな彼でも、心の中ではやはりいい気はしなかったに違いないはずだ。しつこいようだがデートを台無しにしたのは自分なわけで、つき合っている以上はそのことが気にならないはずがない。
今更だけれど、本当に今更だけれど。最初にごめんなさいと思ってからかなりの時間が経っているけれど。だけど、ファイツは意を決して口を開いた。彼に嫌われるのは怖い、どうしようもなく怖い。それでも、謝らなければ自分の気が済まないのだ。彼の名の最初の一文字が口から出かかったちょうどその時、ファイツの幼馴染が顔をわずかにこちらに向けた。出鼻を挫かれたファイツは、思わず息を止めてしまった。

「……綺麗だな」
「ふえっ!?」

幼馴染が呟いたその一言に驚いたファイツは、言葉にならない声を上げた。自分でも明らかに変だと思うくらいの変な声だ。途端に彼に忍び笑いを漏らされて、ファイツの頬は再び熱を持つ羽目になってしまった。

(も……もう!せっかく収まったと思ったのに!)

せっかく……本当にせっかく、自分の顔色はやっとのことで普段通りになったというのに。だけどファイツの顔色は再び赤くなってしまった。自分でもよく分かる、それに多分彼も気付いているだろう。ただ、わざわざ指摘しないだけで。

(ど、どうして顔が赤くなっちゃうの?まるで……まるで、N先生と話す時みたい……)

思わずそう胸中で呟いたファイツは、そう言ったことに愕然とした。慌てて誰にともなく違うよねと言い聞かせる。違う、絶対に違う。

(だって、あたしが好きなのはラクツくんじゃないのに……。あたしが好きなのは、N先生なのに……っ)

好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きだと言える。自分に自信がないファイツでも、迷わずそうだと断言出来る。好きどころか、大好きだと言ってもいい。けれど、そういう意味では決してないのだ。ラクツのことは大好きだけれど、だけどそういう意味ではない。

(あたしが好きなのは、N先生だもん……)

自分が好きなのは、男の人として好きなのは、Nその人だ。誰をも落ち着かせるあの優しい笑顔が、聞いた人間全てを優しい気持ちにさせてくれる穏やかな声が、ファイツは好きだった。もちろんそれ以外にも数学がものすごく出来るところとか、あの優しい緑色の髪の毛だとか瞳だとか、数を上げればきりがない程に好きなところがあるのだけれど。とにかく、あの全身から滲み出ている優しい雰囲気がファイツは大好きなのだ。彼の前に出るとどきどきしてそれどころではないけれど、でも好きなのだと自信を持って言える。男の人として好きなのだと、はっきり言い切れる。

(ラクツくんは、ただのあたしの幼馴染だよ。確かにすごく優しいけど、N先生とは全然違うタイプの人だし……)

彼と2人でここに来る道すがら、”あの男の人、すっごいかっこいいよね!”と黄色い声を上げた女の子達がいたことをファイツは唐突に思い出した。彼女達が指差していたのは、間違いなく自分の幼馴染だった。だけど、ファイツはよく分からなかった。かっこいいというより、優しい印象の方がずっとずっと強いからだろうか……。

「……ファイツくん、……ファイツ!」
「……えっ!?」

少しだけ大きい声で名前を呼ばれて、ぼんやりと物思いに耽っていたファイツははっと我に返った。慌てて返事をしながら、しかし頭の片隅では別のことを考えていた。

(また呼び捨てで呼ばれちゃった……)

きっと、彼は何度も自分を呼んだのだろう。だけどぼうっとしていた自分は彼に返事をしなかったから、だから彼は仕方なく”ファイツ”と呼んだのだろう。ラクツに名前で呼ばれると、どういうわけか過剰に反応してしまう気がする。幼い頃はそう呼ばれていたのにどうしてだろうとファイツは思った。

(多分……。”くん”付けに慣れちゃったから、なんだろうなあ……)

そう思ったその時、またもやファイツの胸には痛みが奔った。今日だけで何度痛みを感じたことだろう。しかし、その痛みの正体はもう分かっている。きっと、これも罪悪感なのだ。ラクツの手を煩わせてしまったから、だから自分は罪悪で胸が痛いのだ。

「やはり……。ボクの話を、まるで聞いていなかったな?」

問いかけの形こそ取っていたけれど、彼の口調は確信を抱いている言い方だった。本当にそうなので、ファイツは小さく頷いた。「ごめんなさい」と謝ってから、何の話をしていたのかを尋ねる。溜息をつく幼馴染の反応と、身体に突き刺さる視線が痛かった。

「ファイツ、キミは花火を全然見ていなかっただろう。もう全部打ち上がったぞ」
「え!?……嘘!」

ファイツは慌てて視線を夜空に向けるが、確かにラクツの言う通りだった。真っ暗な夜空には白い星がいくつか光っているだけで、幻想的な色とりどりの花は咲いていなかったのだ。もちろんその光景だって綺麗だと思うけれど、花火が好きなファイツは肩を落とした。いや、そもそも悪いのは自分なのだけれど。

「本当だ……。もう終わっちゃったんだ……」
「花火が終わったことに気付かなかったのか?」
「う、うん……。ちょっと考え事をしてて……」
「考え事、か……」

ラクツはそう言ったきり、何かを考えるかのように押し黙った。ファイツは彼の様子が気になったものの、先程言おうとしていた言葉を口にするべく息を吸った。花火が終わったのだから、これから自分達はワイ達と合流するわけで。その前に、どうしても彼に告げておきたかったのだ。

「あの……。あのね……」
「……何だ?」
「その……。あたし、ラクツくんに謝りたくて……」
「謝るって、何を?」
「え?……だから、今日のこと……。せっかくプラチナさんとお祭に行けるはずだったのに、あたしは邪魔しちゃったから……。今更だけど、本当にごめんなさい……っ」

ごめんなさいと言ってから、ファイツは深く頭を下げた。しかしそうしてから数秒もしないうちに「頭を上げてくれ」とラクツに言われてしまい、そろりとファイツは頭を上げた。彼は静かな声でそう告げたけれど、いったいどんな顔をしているのだろう?

「え……?」

とんでもなく怖かったけれど、それでもおそるおそる彼の顔を見たファイツは吐息混じりの声を漏らした。さぞや怒っているだろうと思っていたのに、ラクツは予想外に普通の表情をしていたのだ。眉間に皺は寄せているけれど、これは彼のいつもの表情だと知っているファイツは驚いた。どこからどう見ても、普段通りの表情だ。まったくもって、普段通りの。

「ラクツくん、怒ってないの……?」

どう解釈しても、ファイツの目には怒っているようには見えなかった。それに怒りを押し殺しているようにも見えない。それが不思議で仕方なくて、小さな声でそっと尋ねる。

「いや、別に?そもそも怒る理由がないからな」
「……気にならないの?」
「別に。……ファイツは気になるのか?」
「え?……うん……。やっぱり、どうしても気になっちゃうよ……」

”ラクツくんはどうして、あたしを今呼び捨てで呼んでいるんだろう”。彼の問いに頷きながらファイツはこんな疑問を抱いたが、それは口にしなかった。それより、もっと気にかかることがあったからだ。

(成り行きだったけど、プラチナさんとお祭を見て回ったわけじゃなかったのに……。なのに、ラクツくんはどうして気にしないんだろう?あたしに気を遣ってくれたのかなあ……。だけど、何だか本当に気にしてない感じがする……)

ラクツと目を合わせられなかったはずなのに、気付けば彼の顔を見たままファイツは考え込んでいた。頭の中には疑問符がこれでもかと言う程溢れ返っている。

「どうしてもって……。それ程気になるのか?」
「うん……」
「ボクがプラチナくんと祭に行けなかったことが、それ程?」

”当たり前のことをわざわざ尋ねて来るなんてラクツくんらしくない”。ファイツはそうぼんやりと思ったけれど、やっぱりそれを口に出すことはしなかった。最早数えていないけれど、また罪悪感で胸はずきんと痛んだ。少し顔を顰めながらもこくんと頷いたら、ラクツは神妙な顔付きで「そうか」と呟いた。彼はそのまままっすぐにこちらを見つめて、普段通りの表情で口を開く。

「謝る必要はないぞ。ボクは、まったく気にしていないから。だから、もう謝るな」
「う、うん……」

釈然としない気持ちを抱えながらも、ファイツは小さく頷いた。ラクツがあまりに普段通りなことが気になる。どうしても気になる。

(もしかしたら、プラチナさんと上手くいってないのかな……)

ものすごく失礼なことを考えてしまって、ファイツは慌てて首を振った。失礼にも程がある。だいたい、もしそうならそもそも一緒に祭なんて行かないはずだ。

(何考えてるんだろう、あたし……)

もう謝る必要はないと言われてしまったから、だから声に出さずにごめんなさいと呟いて。幼馴染の「行こう」という言葉に頷いて、ファイツは彼の後を追って歩き出した。彼のことは大好きだけれど、優しくて頼りになる大切な大切な幼馴染だけど。だけど彼が何を考えているのかはさっぱり分からなくて、ファイツはラクツの背中を見つめながらそっと溜息をついた。