school days : 090
望んだ未来
「誰も、いないね……」「……そうだな」
ぽつりと呟かれたその言葉に同意したラクツは、隣にいるファイツに気付かれないように息を吐いた。まるで図ったかのように、自分達の周囲には人がいなかったのだ。別にそうなるように画策したわけではないのだが、どうしてかファイツと2人きりになってしまった。それが嫌なわけではない、どちらかと言えば嬉しい。もうすぐ上がるはずの花火を静かに見る為には、きっと最高の状況だろう。
しかしこの状況で2人きりというのは、どうにも心臓に悪過ぎる。周囲には人目がない上、今自分の隣にいるのは心の底から好いている娘なのだ。しかも今の浴衣姿のファイツはというと、それはそれは殊更可愛いわけで……。
(……落ち着け)
落ち着けと、ラクツは自分自身に言い聞かせた。今はもう彼女の手を握っていない右手を眺めながら、何度も何度もそう言い聞かせる。
(この娘を……。ファイツを、また傷付けるつもりか?)
ラクツは今、自分自身と戦っていた。今自分の隣にいる幼馴染を思い切り抱き締めたいという欲望を、男なら必ず抱く感情を、けれど実行してはいけないと。そう、強く言い聞かせる。本能に負けるわけにはいかない、ただでさえラクツは許可なくファイツの手を握ってしまっているのだ。また逸れたら困るなどと自分が言ったから、ファイツはきっと抵抗しなかったのだろう。しかしいくら何でも、抱き締められたら抵抗するに決まっているはずだ。ふらついたファイツを思わず抱き留めてしまった先日とは違う、あれは本当に不可抗力だった。けれど今の自分は、明確な意思を持ってファイツに触れたいと思っているのだ。ファイツの手を握って、抱き締めて、そして。そして、出来ることならキスをしたいとまで思ってしまっている……。
ファイツにはどういうわけか”兄”のようだと、すごくしっかりしていて大人びていると、そう評されたけれど。しかし、それは買い被り過ぎでしかないと自分では思っている。誕生日の関係で今は1歳上だけれど、ラクツはまだ17歳なのだ。17歳の、健全な男子高校生だ。当然そちら方面の興味はきちんとあるし、性別が男である以上は普通だとも思っている。むしろ自分くらいの歳の男で、そういうことに興味がない方がおかしいのだ。
しかし、例えそういった欲望を抱いても、それを実行するとなると話は別だ。いくら何でも恋仲でもない相手に無理やりキスをするわけにはいかない。ファイツに自分の気持ちが伝わってしまう以前の問題だ。倫理的にも人道的にも、絶対に間違っている。自分は良くても、ファイツは良くないに決まっている。幼馴染の関係とはいえ、そういう”好き”を抱いていない相手に無理やりキスをされて喜ぶ女はいないだろう。どうあっても、ファイツを深く傷付けてしまう結果になることは明白だ。
(ファイツを傷付けるのは……嫌だ)
彼女の手を握っただけでも充分過ぎる程だろう。それで満足しろと声に出さずに言い聞かせて、頭の中で膨らんでいた邪な考えをどうにか振り払って。ラクツは今の今までそういうことを考えていた事実をおくびにも出さずに、自分の隣で佇んでいるファイツに静かな口調で尋ねた。
「……ファイツくん、暑さはどうだ?」
片想いでしかないとはいえ、好いている異性と手を繋いで祭を見て回れることに微塵も浮かれない男は非情に稀な存在だろう。ラクツもその例に漏れず、内心ではものすごく浮き足立っていた。それと同時にものすごく緊張していたラクツは、ファイツがかなりの暑さを感じていることに気付けなかった。シャツとジーンズというラフな格好である自分とは違い、ファイツは浴衣を着ているのだ。高い気温に加えて人混みという熱気がある場所にいれば、暑さを感じて当たり前だ。何故もっと早く気付いてやれなかったのかと、ラクツは内心で自分自身に毒づいた。緊張していたというのは言い訳にしかならない。2人きりである以上、自分が彼女を気遣ってやらなければならなかったのに。
「う、うん……。大丈夫……」
そう静かに答えたファイツの顔を、ラクツは横目で見つめた。彼女の顔はまだ赤みが差しているようにしか見えないものの、ファイツが大丈夫と言った以上は追及しないようにしようと思った。その代わりというわけではないけれど、どうしても気になっていたことを尋ねようと口を開く。
「足は?」
「え……?」
「……足は、痛くないか?」
「…………」
今更過ぎる自分のその問いに、ファイツはどういうわけかすぐに答えなかった。10秒程沈黙していた彼女は、「ちょっとだけ痛いかな」という答を返して来た。そうではないかと思ってはいたけれど、彼女の答を聞いたラクツは顔を顰めた。
「すまなかったな」
「……え?」
「ボクは、キミの歩幅に合わせずに人混みの中を歩いた。キミが下駄を履いていることにまで気が回らなかった。ファイツくんを、もっと気にかけるべきだった」
「そんな……!ちょっと痛いだけだよ!本当にちょっとだけだから、だからそんなに気にしなくてもいいのに……!」
「…………」
ふるふると首を横に振ったファイツのその反応を、ラクツは声も出せずにただ見つめていた。彼女は「ちょっとだけ」なんて言ったけれど、本当のところはどうなのだろう。もしかしたら痛みを我慢していて、しかしこちらに気を遣っているが故に口にしないだけかもしれない……。
「……ラクツくんは、あたしをちゃんと気にかけてくれたよ」
自分の不甲斐なさと彼女に対する罪悪感でラクツが眉間に深い皺を刻んだその時、ファイツがそう静かに言葉を発した。時折吹き抜ける風の音に紛れてしまいそうな、静かな声だった。
「……そうか?」
彼女を信用していないわけではないが、それでも気を遣わせているのではないかという疑念をラクツはどうにも拭い去れなかった。だからそう口にしたのだけれど、ファイツは即座に「うん」と答えた。その迷いのない所作は何とも彼女にしては珍しくて、ラクツは思わず目を見開いた。
「だって……。ここに来るまでの間に、”何が食べたい”とか、”気になるものはあるか”とか……。あたしにちゃんと訊いてくれたでしょう?…ラクツくんは、ちゃんと気を遣ってくれたよ。本当に、充分過ぎるくらいに……っ」
ファイツの言葉を黙ったまま聞いていたラクツは、ある事実に気が付いた。気が付いたというよりは、先程から抱いていた疑念を確信に変えたという方が正しいのだけれど。
(やはり……。思い違いではないな)
もしかしたら気の所為かとも思ったが、やはりファイツの様子はおかしい。先刻「プラチナさんに悪いから」と口にした時もそうだったが、今も同様だった。明らかに、ファイツの声は震えていた。普段からしても彼女の声は大きいとは言えないけれど、今の言葉の語尾は誰がどう聞いてもか細い声と形容するだろうと思った。ここが静かな場所でなければ、絶対に聞き取れなかっただろう。
「……ファイツくん」
ラクツは自分の隣に立っている娘の名を口にした。迷いがないと言えば嘘になる、もし訊くことでファイツの心が傷付く事態になってしまったらと考えると、正直怖いとも思う。しかし、それでもラクツは知りたいと思った。何故彼女が声を震わせているのか、そして彼女が自分と目が合うと逸らすようになったその理由を、どうしても知りたかったのだ。絶対というわけではないけれど、明らかに逸らされることの方が多いことが気になった。もちろん無理強いはしない、そんな気は更々ない。だけどラクツは、訊くだけ訊いてみようと思った。
「な、何……?」
「ボクは、キミに……。……キミの気に障ることを、したか?」
”何かしたか”と言いかけて、けれどラクツはその言葉を寸でのところで飲み込んだ。何かしたかなんて、わざわざ訊くまでもないことだ。許可も取らずに彼女の手を握ったのはラクツなのだ。その自分の行為を棚に上げて何かしたかなんて、どの口が言えるのか。
「え……?」
呆然としたようにそう声を漏らしたファイツの顔を、ラクツはしっかりと見つめた。彼女と目が合ったのはほんのわずかのことで、すぐにその目は逸らされた。しかしそれでもなお、ラクツはファイツのことを見つめ続けた。そして黙り込んでいる彼女に対して、静かな声で言葉を続ける。
「ファイツくんの気に障ることをしたか、と訊いたんだ。ボクが気付いていないことで、キミに何かをしてしまったのなら、その詫びをしたいからな」
「…………」
「もしそうだったら、どうか正直に言って欲しい」
「……ううん。……大丈夫」
ファイツは、小さく首を横に振った。その首の動きよりずっと小さな声で、ラクツの問いかけを否定した。彼女の表情は明らかに憂いを帯びていたが、ラクツからすればとても”大丈夫”とは思えない声だったが、それでもラクツは「そうか」と頷いた。いつかのように、見るからに体調が悪いようにも見えないわけだし、自分の考えを押し付けることはしたくなかった。ラクツはファイツから視線を外して、雲1つない夜空を見上げた。まだ花火が打ち上がらない夜空には、星がいくつか瞬いている。
「ファイツくん。空に、星が出ているぞ」
「うん……」
ラクツの記憶が正しければ、ファイツは星を見ることが好きだったはずだ。しかし、今の彼女の視線は夜空ではなく地面に向けられている。星に興味がなくなったのか、あるいはやはり何か気に病むことでもあって、星を見るどころではないのだろうか?
(どうにも気になるな)
自分がフェミニストだという自覚はある、ましてや相手は好きな娘なのだ。彼女が今何を考えているのかを知りたい。そして何故そんな暗い表情をしているのか、その原因を突き止めて、ファイツの心に巣くっているであろう不安を払拭させてやりたい。出来ることならそうしたいけれど、ファイツは「大丈夫」と言ったのだ。どう見ても大丈夫ではない顔で、そんなことを口にした。
もしも自分がファイツの恋人であったとしたら、堂々と「何を悩んでいるんだ」と告げることが出来ただろう。「打ち明けられない程ボクは頼りないのか」と、言外に自分をもっと頼れと伝えることも出来るだろう。しかし、今の自分達はそのような関係ではないのだ。”今”どころか、そうなる可能性は万に一つもないのだけれど。
(まったく、何を考えているんだ……)
ファイツと2人きりで祭を見て回れたのは、言わば奇跡に近い。その事実に浮かれてありもしない可能性を夢想している自分自身をラクツは嘲った。ファイツが「うん」と頷いてくれたから、だから今ラクツはこうしてこの娘と2人で打ち上げ花火が上がるのを待っているのだ。それだって、きっと”幼馴染として好きだから”頷いてくれたに違いない。
(……思い違いに、決まっている)
思い違いか、あるいは勘違いか。確かにこの目で見たから気の所為ではないだろうが、とにかく思い違いだとラクツは思った。結局は受け取らなかったけれど、かき氷の代金を払おうとしたファイツは言ったのだ。「プラチナさんに悪いから」と、震える声でそう言った。どういうわけか目を逸らしたファイツの表情は、今にも泣き出しそうに見えた。実際には泣きはしなかったけれど、だけどラクツにはそうにしか見えなかった。そして、そんなファイツの反応を見たラクツの心の中に浮かんだのは、ある思考だった。それは自分の願望と言っていい思考だ。完全に自分だけが望んでいる、独善的な思考だ。ファイツに”好きだ”と言わないと決めたのは、他ならぬラクツなのだ。それなのに何を期待したのかと、自分に胸中で毒を吐いた。
ファイツがプラチナに嫉妬したなんて、ファイツが自分を男として見てくれているなんて、そんなことがあるはずがない。緊張はしたかもしれないが、それは異性と2人きりで祭を見て回ることについてだろう。向こうもこちらを意識してくれているなんて考えは、ラクツの願望でしかない。ファイツと2人で、彼女と手を繋いで歩いている時、ラクツはある想いに囚われた。”ファイツと恋人になりたい”と、確かにそう思った。もちろんプラチナとのように形だけの恋人になりたいのではなく、正しい意味での恋人になりたいと思った。先日ファイツを家まで送り届けた道中でもそう思ったけれど、今日はあの時以上にそうなりたいと思ってしまった。
(この娘の手を握ったから……そう思っているのか?)
彼女の手を握って祭を歩くなんてことをしたから、だからそんな考えを抱いたのかと内心で呟く。好いている男がいるファイツには申し訳ないけれど、ラクツはデートをしたも同然だと思っていた。実際、すれ違う人間に何度か似合いのカップルだと評された。学園の関係者に見られていたらという懸念はあったが、嬉しさの方がずっと大きかったのだ。浮かれていたのと緊張していたのとで、ファイツの様子にまで気が回らなかったことは多大なる反省点だけれど。
(……まあ、”次”はないわけだが)
浴衣を着たファイツとデートをするのはこれきりだと思う。本当に、そうだと思う。来年にも祭はあるわけだけれど、まさかまた2人きりで見て回るなんてことはないだろう。もしかしたら来年の今頃のファイツは、本当に好きな男と祭を見て回っているかもしれない。自分ではない別の男が、ファイツのこんな可愛い浴衣姿を堂々と目にして。そして遠慮なく手を握って、何の憂いもなくデートをしている……。そんな光景を想像したラクツは、思わず深い溜息をついた。やはりそれは嫌だ、どうしようもなく嫌だと断言出来る。
「あ、あの……。ラクツくん……」
「何だ?」
それはもう遠慮がちにかけられた声に、ラクツは内心で感じた不快な気持ちを悟られないようにしなければと意識しながら答えた。先程からずっと黙り込んでいたファイツの方を見てみるが、彼女の視線は相も変わらず地面に向けられていた。
「えっと……。……ありがとう」
思いがけず礼を言われたことに、ラクツは少しだけ目を見開いた。彼女の”ありがとう”が今日の祭のことを差しているのだとようやく察して、見開いた目を細めた。礼を言うのはむしろこちらの方なのに、それでも律儀にありがとうと告げて来たのだ。何とも彼女らしい。
「あ、その……っ。お祭でのことで、ラクツくんにお礼が言いたくて……」
「いや……。ボクの方こそ、今日は楽しかった」
実際はどちらかといえば緊張していたのだけれど、楽しかったことは事実なのでそれは伏せておいた。ファイツは小さく頷いてから、やはり小さな声で呟くように言葉を続けた。
「ラクツくんがいてくれて、本当に良かった……。皆と逸れてから待ち合わせ場所に行くまで、色んな人にじろじろ見られたから……。だからあたし、ずっと心細くて……」
「それは……」
思わずそう口走ってしまって、しかしラクツはふと口を噤んだ。このまま続きを言っていいものか逡巡したのだ。けれど一度言いかけた以上はと、今しがた飲み込んだ言葉を結局は声に出した。
「……ファイツくんが、可愛いから……だろう」
「えっ!?」
巾着を持っていない左手で口を押さえたファイツは、絶句したように目をぱちぱちと瞬きさせた。右へ左へと視線を彷徨わせた後で、やはり地面を見つめながら、そっと呟いた。
「……そ、そんなこと……ないよ。あたしなんか、全然可愛くないもん……」
「…………」
いつものことと言えばそれまでなのだけれど、ファイツはやはり自己を卑下する言葉を口にした。それは最早彼女の癖なのだろう、だけどそれを聞いたラクツはどうにもいい気はしなかった。あからさまに溜息をつくことはしなかったが、何かを察したらしいファイツは「ごめんなさい」と謝った。そのままおずおずと言葉を続ける。
「あたしがこう言うのって、ラクツくんは好きじゃないんだよね……。だ、だから……ごめんなさい……」
しょげる彼女が言ったことはまったくもってその通りなので、ラクツは軽く頷いた。他の人間が言うなら卑屈だなと思うだけなのだけれど、それをファイツが口にするなら話が別だ。
「……確かにそうだな。自己を卑下するのも、ついでに言うなら必要以上に謝るのも、お前の悪い癖だ」
「う……」
ファイツはびくりと身体を震わせた。彼女のその反応を訝しんだラクツは自身の言葉を振り返ったが、程なく納得する。どうやら、”お前”と言われたことに対してのことらしい。何故この娘にお前と言ってしまったのだろうと、ラクツは自分でも疑問に思った。今のは完全に無意識だった。それでもラクツは素知らぬ顔で静かに告げる。
「……一応念を押すが、別に怒っているわけじゃないぞ」
「う、うん……」
「だから、そんなに気を落とすな」
ファイツは何も言わなかった。何も言わずにただ首を縦に振っただけだったが、ラクツは彼女が落ち込んでいるであろうことは容易に想像出来た。気を落とすなと言われたところでこの娘がすぐにそう出来る性格をしていないことは分かっている。何よりこの娘は今見るからに肩を落としたのだ。
「ファイツくん」
ラクツは未だに地面を見ているファイツの名前を呼んだ。けれど、彼女は何の反応もしてくれなかった。何かに取り憑かれたかのように、一心に地面だけを見つめている。それでもラクツは何度か名前を呼んだものの、彼女が顔を上げることはなかった。
「……ファイツ」
「……っ!」
呼び捨てで名を呼んだのは、ただの思いつきだった。幼い頃は呼び捨てで呼んでいたし、普段と違う呼び方をすれば何か反応があるかもしれないと思っただけだ。そんな自分の考え通りの行動をしたファイツと、顔を勢いよく上げたファイツと、まともに目線がぶつかった。視線を逸らそうとしたファイツがそうするより先に、ラクツは軽く屈んで彼女と目線を合わせた。当然心臓は激しく暴れ出したわけだけれど、それには構わずに口を開く。少し前、自分達はかき氷を持ったまま見つめ合っていた。正確に言えば、それはファイツの反応が無性に気になったから一方的に見ていただけだったのだが、それはわざわざ言わずともいいことだ。
ラクツは改めて、今のファイツを見つめた。普段だって可愛いと思っているけれど、やはり今の浴衣を着ているファイツは普段以上に可愛い。おまけに、彼女は明らかにそうだと分かる程顔を赤らめさせている。その可愛さと来たら、正直言って理性がかなり危ないと危惧する程だった。またもや自身の脳裏に浮かんだ欲を何とか押し止めたラクツは、真剣な表情で口を開いた。
「浴衣を着た今のキミは可愛いとボクは思っている。世辞ではなく、本当によく似合っていると思うぞ。……本当に、可愛い」
「え……」
「だから……。もっと、自分に自信を持ってくれ」
穏やかな顔で、穏やかな声で。とにかくファイツにちゃんと伝わって欲しいと思いながらそう告げると、ファイツの顔は瞬く間に赤くなった。どうやら、こちらが願うまでもなかったらしい。ファイツがもし勘のいい娘であったなら、もしかしたらこちらの気持ちに気付いたかもしれない。しかしそれはないだろうとラクツは思っている。別に彼女を下に見ているわけではないが、とにかくファイツの性格からしてもそれは絶対ないはずだ。こちらがはっきりと言わない限り、好きだと告白しない限り、ラクツの”好き”が伝わることはない。だからこそ、真顔で可愛いと言えるわけなのだが。
気恥ずかしさがまったくないと言えばそれは嘘になる、しかしそれでファイツが自信を持ってくれるようになるなら御の字ではないか。可愛いと口にしただけだ、別に好きだと言ったわけではない。これは自分の紛れもない本心なのだし、見たところファイツも嫌がっている表情はしていない。ただ、と思う。脈絡もなくそんなことを突然言われて、彼女は戸惑ったのではないだろうか。それだけが懸念要素だ、果たして彼女はどう答えるだろうか。
「……はい……」
ファイツはこくんと頷いて、顔を赤くさせて、そう答えた。どう見ても彼女の顔は真っ赤になっているわけだが、それは”そういう意味”ではないだろう。可愛いなんて言われたから顔を赤くさせているだけだ。自惚れるなと自分に言い聞かせて、ラクツはファイツから視線を外した。あまり長い間見つめているのはやはり心臓に悪いし、何よりこの娘を困らせることになってしまう。可愛いと口にした時点でもしかしたら困らせたかもしれないけれど、それ以上に今のファイツを抱き締めたいというのが本音だった。そんな自分はとんでもなく強欲だとラクツは思った。男である以上は仕方のないことだけれど、しかしそれでも何とか抑えなければいけないのだ。そう、頭では理解している。……けれど。
今は何とか理性が勝っているが、それもいつまで持つか分からない。実に情けないことだが、だけど固く決めたはずの意思が時折揺らぐのもまた事実なのだ。危惧した通り、理性が本能に負けてしまう日は果たして来るのだろうか。例えどれ程この娘を困らせても想いを告げたいと思う日が、いつかはやって来るのだろうか。