school days : 089

あなたから目を逸らせない
(どうして……。どうしてあたしは断らなかったんだろう……)

そう心の中で呟きながら、ファイツは人混みの中をゆっくりと歩いた。目線を自分の手に向けてみるが、何度見てもその結果は変わらない。自分の左手は、どう見てもしっかりと幼馴染に握られている……。ファイツはまたしても”どうして”と呟いた。彼の手が握るのは、本来はプラチナの手であったはずなのだ。しかし、実際はどうだろう。ラクツが手を握ったのは、紛れもなく自分で。そして彼と2人で祭を見て回っているのも、紛れもなくファイツだった。ただの幼馴染でしかない自分が、彼女がいる男の人と祭を見て回るというのはどうなのだろう。彼女を差し置いて2人きりで、おまけに手まで繋いで。

(……どうして?)

ファイツはまたそう呟いた、何度も何度もそう呟いた。何であたしは断らなかったのだろうという問いかけを、自分自身に対しての問いかけを、数え切れないくらい繰り返した。確かにラクツに言われた通り、また逸れてしまうのは困る。ワイ達と逸れて人混みの中を何とか歩いていた時、ファイツは確かに心細かった。たった1人になってしまって、心細くて堪らなくて、待ち合わせ場所にいた幼馴染の姿を見つけて安心したのは事実だった。だから、また逸れるのを防ぐ為に手を繋ぐというのは頭では理解出来る。だけどそれでも、頭ではよく分かっていても、ファイツは断るべきだったのだ。
「ラクツくんと2人で見て回ってくればなんて」言って来たワイは、プラチナの名前を出さなかった。しかし、プラチナに許可を取ってから提案して来たに違いないとファイツは思った。いくら何でも、恋人であるプラチナに何の断りもなしにそんなことを言うはずがない。絶対に、そうに決まっている……。

(プラチナさんに、後で謝らなくちゃ……)

ワイとサファイアと、そしてプラチナとは、後で合流することになっている。もう少ししたら、ファイツは合流する時間と場所を決める為にサファイアに連絡をするつもりでいた。ワイの携帯はどうやらあまり調子が良くないようだけれど、サファイアの携帯までそうだとは限らない。それに、ファイツはプラチナの連絡先を知らなかった。だけどもし知っていたとしても、きっと自分が連絡を取るのはサファイアに変わりなかっただろう。彼女であるプラチナを差し置いてラクツと2人で祭を見ておいて、そして何食わぬ顔で連絡するなんてことは、ファイツには到底出来なかった。

(ごめんなさい、プラチナさん……)
 
ごめんなさいと、ファイツは声に出さずに呟いた。彼女も了承済みだと思うけれど、だけど謝るべきだと思った。本当に偶然だった、逸れてしまったのはわざとじゃない。とはいえ、ファイツが彼女の恋人とこうして歩いているのは事実なのだ。せっかく彼氏と祭を楽しむはずだったのに、それを台無しにしてしまった。自分が逸れてしまったばかりに、ラクツの「一緒に見て回るか」という問いに自分が頷いたばかりに、プラチナの楽しみを大いに奪ってしまった……。だからファイツは、ごめんなさいと謝らなければいけないのだ。しかもその上、ラクツと手まで繋いでしまっている。どうやって謝ればいいのかファイツには分からなかった。ごめんなさいと何度謝れば赦してもらえるのだろう?いや、そもそも赦してもらえるのかも分からない……。

(ラクツくんは、気にならないのかな……)

突然手を繋いで来たラクツは、「嫌か」と尋ねて来た。それは静かな声だった。彼にそうされるのは嫌ではない、断じて嫌ではない。けれど、ファイツは「手を放して欲しい」と、ラクツに言うべきだったのだ。彼の問いに首を横に振って、自分が彼を嫌いではないことを伝えた上で、「放して」と告げるべきだったのに。しかしファイツはそう言わなかった。何も言えないまま、ただその場に立ち尽くしていた。そんな自分の沈黙をどう解釈したのかは分からないけれど、ラクツは自分の手を握ったまま歩き出した。もちろん彼の行動を責めるわけではない、そもそも自分にはそんな資格はない。実のところ、こうして彼と一緒に歩くのは初めてではなかった。幼かった頃は、よく彼を誘って祭を楽しんだものだ。もちろん保護者はいたけれど、それでも幼馴染と手を繋いで一緒に祭を見て回れるあの時間が、ファイツは大好きだった。
……だけど、と思う。ファイツも彼も、今はもう高校生なのだ。確かに幼馴染の関係とはいえ、彼には恋人がいるわけで。けれどどういうわけか、ラクツと今歩いているのは確かにファイツだった。美人で綺麗で完璧なプラチナの存在を差し置いて、美人でも綺麗でも完璧でもない自分が。恋人でもない自分が、彼と手を繋いで祭を見て歩いているのだ。やっぱりこれは良くないとファイツは思った。いや、良くないどころか非常にまずい。どう解釈してもまずい。だって、これではまるでデートをしているようではないか。実際はただの幼馴染なわけだけれど、そうとしかファイツには思えなかった。

(あ……)

ある言葉が耳に飛び込んで来て、ファイツは弾かれたように俯いていた顔を上げて辺りを見回した。向こうからやって来た、ファイツの知らない浴衣姿の女の子達と目が合う。明らかにこちらを指差していた女の子達は、そのままきゃあきゃあと騒ぎながら歩いて行ってしまった。

(また、誤解されちゃった……)

ファイツの聞き間違いでなければの話だが、”すごいお似合いだよね、あのカップル!”と見知らぬ女の子達に言われてしまった。誰かにこう言われるのはこれで三度目だった。ラクツと歩いてからまだそれ程経っていないのに、もう3回も”カップル”だなんて言われてしまっている……。

(違うのに……。あたし達は、そんなんじゃないのに……)

ファイツは、”違うんです”と言いたかった。すごい人混みな上に自分の性格上まず無理だと分かっているけれど、それでも否定したかった。自分とラクツは幼馴染でしかなくて、彼にはそれは綺麗な恋人がいるのだと、声を大にして言いたかった。実際は声に出すことすら出来ずに、心の中で否定したわけなのだけれど。

(きっと……。ラクツくんにも聞こえてる、よね……)

自分が聞こえるくらいなのだから、当然彼にも聞こえているはずだろう。ファイツは自分の手を引いて前を歩いている幼馴染に、ごめんねと心の中で謝った。自分達はカップルであると、道行く人にもう3回も誤解されてしまっている。

(ごめんね、ラクツくん……)

こんなところを同じ学園に通っている人に見られていたとしたら、いったいどうすればいいのだろう。もし変な噂が立ったらなんて思うと、ファイツは気が気ではなかった。だからなるべく顔を見られないように俯きがちに歩いているのだけれど、ラクツはまっすぐに前を見据えて歩いていた。例え噂になっても気にもならないと、そういうことだろうか?

(……そう、だよね。それにラクツくんとプラチナさんは、お似合いだもんね……)

”お似合いのカップル”なんて言われてしまったけれど、彼と本当にお似合いなのはプラチナなのだ。あたしじゃない、とファイツは声に出さずに呟いた。ラクツの隣に相応しいのは、自分などではない……。

「……っ」

途端に胸に痛みが奔って、ファイツは思わず息を漏らした。その直後に自分の手を引いて歩いていた幼馴染が振り返った。目と目が合ったと思ったその瞬間、ファイツの心臓はどきんと大きく高鳴った。彼に手を握られてからというもの、心臓は普段より落ち着いていなかったわけなのだけれど、今や痛いくらいに激しく音を立てていた。おまけに、顔も更に熱を帯びてしまっている……。

「……どうした?」
「あ、あの……。えっと……っ」

とてもじゃないけれど、ラクツと目を合わせて喋るなんてことは出来そうもなかった。明らかに視線を逸らして言葉にならない言葉を口にする自分の態度は、誰がどう見てもおかしなものだっただろう。だけどラクツは笑いもせずに、ただこちらを見ていた。

「…………」

やがて彼は小さく溜息をつくと、こちらの手を握ったまま横方向へと歩き出した。彼によってあっという間に人の波から抜け出したファイツは、わけも分からず幼馴染を見つめた。そうは言っても顔はどういうわけか見れなかったから、彼が来ている黒いシャツをひたすら見ていただけだったのだが。

「あ、あの……。ラクツくん……?」
「暑くないか?」
「あ……」

確かに彼の言う通り、ファイツはかなりの暑さを感じていた。慣れない浴衣を着たのと人混みの所為で、気が付けば結構な量の汗をかいてしまっていた。途端にファイツは焦った、もしかして自分の手は汗ばんでいたのだろうか?彼に不快な思いをさせたのではないかと、ファイツは顔をさあっと青ざめさせた。小さく頷いて、やっぱり彼の黒いシャツを視界に入れながらファイツは謝った。

「ご、ごめんねラクツくん!あたしったら、手汗がすごくて……」
「手汗?……ああ、そういう意味じゃない。それは微塵もないから大丈夫だ」
「……え?」
「ただ、キミの顔が普段よりやけに赤いから……な。やはり、その格好だと熱が篭るか?」
「……う、うん……。そうかも……」

自分のことなのに”そうかも”なんて言うのはおかしいのだけれど、ファイツはこくんと頷いた。まさか、”ラクツくんと目が合って顔が赤くなりました”なんてことを口走るわけにもいかないし。事実だけれど、それを口にするのは流石に躊躇われる。そもそも何故顔が赤くなってしまうのかとファイツは思った。本当に、最近の自分はどこかがおかしい……。

「ここで少し待っててくれ、かき氷を買って来るから」
「え……?」
「……それとも、別の物にするか?」
「う、ううん……。かき氷がいい……」
「シロップはキミの好きな桃味にするつもりだが、それでもいいか?」
「う、うん……」

ファイツはまた頷いた。ラクツも「分かった」と言って頷くと、ファイツの手を放してかき氷を売っている屋台の方へ行ってしまった。

(気、遣わせちゃった……)

ぼんやりと往来を眺めながら、ファイツは自由になった左手で胸を押さえた。心臓はどきどきとうるさかった。”サファイアちゃんに連絡を取らなくちゃ”と頭では思うのに、何故かそうする気にはなれなかった。今ファイツの頭の中の9割程を占めているのは、幼馴染の男の子のことだった。彼の存在が頭の中でいっぱいになって、ファイツは思わず彼の名前を呟いた。

「ラクツ、くん……」
「……何だ?」
「きゃあああっ!?」

ファイツは身をびくんと震わせて大声を上げた。あっという間にかき氷を持って戻って来たラクツと目が合って、ファイツの心臓はまたもや大きく跳ねた。独り言のつもりだったのに、彼にしっかりと聞かれてしまった。大声を上げてしまったこともそうだけれど、何よりラクツ本人に聞かれてしまったことが恥ずかしい……。恥ずかしくて堪らなくて、ファイツはぶんぶんと首を横に振った。それはもう、思い切り振った。

「な、何でもないの!」
「何でもないって……。今、ボクの名を呼んだのに?」
「う……。それは……そう、だけど……っ」

確かにその通りだけれど、それでもファイツはそう言った。実際ファイツにもよく分からないのだ。だけど、何となくラクツの名を呼んだと正直に打ち明けるなんてことは、絶対に出来そうもない。そんなことは言ってはいけないと思った。

「あ、あの……。だからね……っ」

そう彼に言っておきながら、何が”だから”なのだろうと自分自身に問いかける。もう自分でも何を言っているのかよく分からなかった。ラクツはしばらくの間黙っていたが、不意にかき氷を差し出した。

「まあ、言いにくいことなら無理には訊かないがな。……ほら、キミの分のかき氷だ」
「あ、ありがとう……」

彼のその言葉はすごくありがたくて、ファイツはそれの意味も込めてお礼を言った。きっと、自分を気遣ってのことだろう。桃のシロップが明らかに多くかけられたかき氷を受け取る前に、慌てて巾着から財布を取り出す。ラクツの宇治金時のかき氷と比べると、シロップの差は一目瞭然だった。

「あの、お金は……?」
「いや、いいよ。キミの体調に気を遣わなかった詫びだと思ってくれ。それでも安過ぎるが、とにかく代金は渡さなくていい」
「……え」

彼に手渡されたかき氷を持ったまま、ファイツは目を見開いた。「奢ってもらうなんて悪いよ」と言おうと彼の顔を見て口を開きかけて、けれどファイツは目を逸らした。やっぱり、どうしてもラクツの顔を見ることが出来ないのだ。結局はかき氷を見つめながら口を開いた自分は、何て小心者なのだろう。

「そんな……。そんなのって、やっぱりラクツくんに悪いよ……」
「ボクは、別に気にしないが」
「でも……。やっぱり……ダメだよ……っ」
「……どうして?」
「だ、だって……」

かき氷を見つめたままで、ファイツは「だって」と言った。何故だか涙が出そうになったけれど、それには構わずに言葉を続けた。

「だって……。……あの、プラチナさんに……悪い、から……」

まただとファイツは思った。また、ずきんと胸に痛みが奔った。ファイツは眉根を寄せながら、震える声でそう呟いた。2人きりで祭を見た上に手まで繋いで、挙句の果てには奢ってもらうなんて、どう考えてもおかしいことだ。自分達は恋人ではないけれど、これはもう明らかにデートだ。

「……?」

ファイツはふと、疑問に思った。ラクツの返答がないのだ。あまり口数がないラクツだけれど、それでもこんな時は必ず返事をするはずだ。どうしても気になったファイツは思い切って彼の顔を見ようとして、そして彼の顔を見たまま固まった。

(ラクツ、くん……?)

目の前にいるのは、確かにラクツだ。ファイツの大切な大切な幼馴染だ。だけど、今自分を見つめている彼はいったい誰なのだろうとファイツは思った。前にもこんなことを思ったけれど、結局は気の所為だろうと結論を出した。それなのに、ファイツはまたもやそう思ってしまっている。目の前にいるラクツを、”あたしの知らない男の人”であると思ってしまっている……。

(何で……。何で、そんなに真剣な顔であたしを見てるの……?)

ラクツは無言のままで、じっとこちらを見つめていた。何だか怖いくらいの真剣な顔だった。目を逸らそうと思ったけれど、それは何故か出来なかった。ファイツは胸をどきんどきんと高鳴らせながら、左手にかき氷を持ちながら、ただただひたすら幼馴染の顔を見つめていた。