school days : 088
キミがそれを望むなら
ラクツは本来、祭がそこまで好きというわけでもなかった。屋台の食べ物なら別に祭でなくとも買えるわけだし、何より人混みが正直言って鬱陶しい。それでも仲がいい人間に誘われれば一考くらいはするものの、生憎友人のヒュウも自分と同じく祭には興味がない人種であることをラクツはよく知っていた。おまけに、ペタシもこの時期は毎年家族旅行で家を空けるらしい。だからラクツは、ここ数年祭に行ったことはなかった。当然今年もそうなるだろうと思っていたのに、何の因果かそうはならなかった。ラクツは1人で待ち合わせ場所に立ち尽くして、自分の連れをただひたすら待っていた。女4人に男が1人という組み合わせは正直どうかと思うが、それを承諾したのは自分自身だ。ワイに夏祭に誘われた時、ラクツはいったい何事かと思った。彼女に秘密を知られてからそれなりに話すようにはなったものの、それでも一緒に祭に出かける程ワイと仲がいいわけではない。それは向こうも知っているはずなのにと思ったが、その疑問は続けて送られて来たメールを読んで氷解した。彼女からのメールには、”ちゃんとファイツも誘ったからね”と書かれていたのだ。幾度も迷ったものの、結局ラクツはワイの誘いを受けた。せっかく誘ってくれたのに悪いからと返信したのだが、実際はファイツの存在に釣られただけだったりする。ファイツも、そして他の皆も了承済みのことだから同行しても構わないだろうと言い聞かせた。2人きりではないにしろ、ファイツと一緒に祭に出かけるなんて数年振りのことだと思った。
(……どうにも落ち着かないな)
取り決めた約束の時間である19時まで、まだ後15分もある。しかし分かっていてもなお、ラクツの心臓は落ち着いてなんてくれなかった。理由が理由だから仕方ないのだけれど、それでもそろそろ落ち着いてくれないと正直困る。何せこれから自分は、好いている女と一緒に祭を見て回るのだ。もちろん2人きりではないからその心配はないだろうが、けれど自分を律しておいて損はないはずだ。祭だからなのか、恋人らしき男女が何組も連れ立って歩いているのがよく見える。先程からその光景を何度も目にしている所為なのだろう、自分の中で固めた決意が少し揺らいでいるのが感じ取れた。しかし、実際にそうなっては困るのだ。万が一にもあの娘に想いの丈をぶつけるわけにはいかない。
祭の前日、つまり昨日の夜のことだ。自分を祭に誘って来た張本人から送られて来たメールには、”明日は頑張って”と書かれていた。たったそれだけの短い文面を目にして、ラクツは深い溜息をついた。彼女がわざわざそんなメールを送って来た真意は分かる、それは即ちファイツに告白しろということだろう。しかし誰に何を言われたところで、ラクツはそれを実行する気は更々なかった。ファイツに好いた男がいる以上、こちらが好きだと言うわけにはいかない。散々あの娘を困らせた自分がこんなことを思うのは今更だけれど、それでも”ファイツを困らせたくない”というのがラクツの本音だった。実の兄に嫉妬する時点でこの気持ちがもうどうにもならないことは重々理解しているものの、なお告白する気はなかった。何故なら、ファイツがそれを望んでいないからだ。
本心では違う存在に見られたいと思っているとはいえ、ファイツが自身に幼馴染としての関係を望んでいる以上は、その役割を全うしようと決めたのだ。ワイに”その気はない”と返信したら、すぐにまた彼女からのメールが送られて来て。一行だけの文面を読んで、ラクツは今度は苦笑した。
(”もったいない”……か)
ワイにはわざわざ尋ねなかったが、彼女が言わんとしていることはある程度は分かる。おそらくは、言うだけ言ってみないと”もったいない”というところだろう。まさか、ファイツと自分が相思相愛なわけではあるまいし。あの娘に好かれている自負はあるが、それは幼馴染か、あるいは兄のような存在としての好きなのだ。こちらがあの娘に抱いている好きとは似て非なるものだ。それを、ラクツはよく知っている。
やっとファイツが自分に笑顔を向けてくれるようになったのだ。元の、仲のいい幼馴染の関係でいいだろうと言い聞かせて、ラクツは往来を眺めた。元々こちらが少し早く来過ぎていただけのことで、そろそろ彼女達が到着してもおかしくない時間になっていたのだ。祭の最中なわけだから当たり前だが、かなりの数の人間が行き交っている。しかし待ち人を見つけるのはそれ程苦労しないだろう、浴衣を着ている女子4人組だけに注視していればいいのだから。
剣道部の合宿があった為にファイツとはあれ以来会っていないけれど、ワイとプラチナからのメールで女子達が浴衣を着て来るという情報は得ていた。もちろんその中にはファイツも含まれている、果たしてあの娘はいったいどんな浴衣を着て来るのだろうか?
「……ん?」
ふとこちらに向かって流れている人混みの中にものすごく見覚えのある人間がいたように思えて、ラクツは軽く石壁に寄りかからせていた背中を浮かせた。見間違いをした可能性も視野に入れたが、自分の直感に従って注意深くその辺りを見つめてみる。
「……っ」
確かに浴衣を着たファイツの姿を視界に捉えて、ラクツの呼吸はものの見事に止まった。普段は左右にまとめて毛先を垂らしている独特の髪型をしているのだが、今は編み込んだ髪を上げていて受ける印象がまるで違う。顔が見えなければ、おそらくはあの娘だと分からなかっただろう。
(……髪型1つで、ここまで変わるものなのか……)
今の今まで、ラクツは浴衣を着たファイツの姿を何度か想像した。さぞや綺麗だろうと思ってはいたが、これは予想以上だ。普段だってファイツのことを可愛いと思っているラクツだけれど、今日は格別可愛いと思った。
脳が痺れるような衝撃を受けながら、ここが外で良かったと頭の片隅でぼんやりと思考する。人目があるところで今のファイツに会えて、本当に良かった。例えばここが自分の部屋だったとしたらなんて思うと、自然と溜息が漏れる。表に出さないだけで、ファイツに自室で勉強を教えている時は人知れず葛藤していたりするのだ。今のところは理性が勝っているわけだが、今の浴衣姿のファイツと部屋で2人きりになったら多分本能の方が勝つだろう。いや、そうなったら色々な意味でまずいわけだし、そもそもそんな状況にはまずならないだろうと思うのだが。しかしそんなことを考えてしまう程に、今のファイツの姿は破壊力があったのだ。
「…………」
性別が男である以上は誰でもするであろう考えを、ラクツは何とか霧散させた。今はそんなことを考えている場合ではないだろうと言い聞かせて、その場に立ってあの娘を待った。それから幾ばくもしないうちに、ファイツが少しよろめきながら人混みから抜け出して来て。辺りをきょろきょろと見回していた彼女は、ようやくこちらの存在に気付いたらしい。ファイツがやや急いだような足取りでこちらに向かって歩いて来る姿を、ラクツは声も出せずにただ見つめていた。
「こ……。こんばんは、ラクツくん」
そう言ってはにかんだファイツは、白地に薄桃色の桜の絵が描かれた浴衣を着ていた。控えめな彼女の性格を表したかのように、小さな桜があちこちに散りばめられている。帯と右手に持った巾着は浴衣に描かれた桜より濃い桃色だ。遠くから見ても可愛いと思ったけれど、間近で見ると殊更可愛い。ファイツの浴衣姿に見惚れていたラクツは、彼女の挨拶に曖昧に頷いた。
「ああ……」
何とかその一言だけを返したラクツの視線は、未だに眼前のファイツに注がれていた。あまりにじろじろ見てしまうのは失礼だろうと頭では分かっているのに、それでも中々目線を逸らすことが出来なかった。流石にファイツもそのことに気付いたようで、視線を彷徨わせながら口を開いた。
「へ、変……かなあ?こういう格好、あたしは全然しないんだけど……。やっぱり、あたしには似合わない?」
こちらの反応を悪い方に解釈したらしい彼女は、そわそわと髪の毛を指で触りながらそう呟いた。ファイツの何とも自信なさげに呟かれたその言葉を耳にして、ラクツは軽く首を横に振った。”似合わない”なんて、とんでもない。
「……いや。キミに、よく似合っている」
「ほ、本当!?」
「……ああ」
「良かった……。……えっと、他の皆はまだ来てない、よね?」
安堵したのか大きく息をついて胸を撫で下ろしたファイツは、小首を傾げながらそう尋ねた。彼女の言葉で、ラクツはようやく待ち合わせ場所にファイツ1人しか来ていないことに気が付いた。ファイツの浴衣姿に釘付けになっていた為に、他の3人のことは頭からすっかり抜け落ちていたのだ。
「ボクは会っていない。他の3人はどうしたんだ?」
「それが、途中で逸れちゃって。とりあえず待ち合わせ場所に行ってみることにしたんだけど、あたしの方が皆より早かったみたいだね……」
「……逸れた?」
「うん……。プラチナさんの家でヘアメイクをしてもらってね、ここに来る途中まで皆と一緒に歩いてたんだけど、あたしだけ逸れちゃったの。一応ワイちゃんとサファイアちゃんには電話してみたんだけど、2人共出なくて……。どうしよう、ラクツくん……っ」
「ボクもプラチナくんに電話をしてみる」
不安そうに佇んでいるファイツにそう告げて、ラクツは携帯をジーンズのポケットから取り出した。肩書きだけとはいえ、自分達は交際していることになっているのだから念の為に連絡先を交換して欲しい。プラチナに以前そう請われたラクツは、それもそうかと連絡先を交換したのだ。携帯を耳に押し当てながら、ラクツは内心でプラチナに感謝した。この状況で自分が”恋人”であるプラチナに連絡しないのは、あまりに不自然だからだ。流石にいくら鈍いファイツといえども、こちらの行動に違和感を抱くに違いない。
「……出ないな」
プラチナがこちらの呼び出しに応じない事実を、溜息混じりにファイツに告げる。相手を呼び出す音は確かに聞こえるのに、いくら待ってもプラチナは電話に出てくれなかった。
「え、プラチナさんもなの!?……み、皆に何かあったのかなあ……」
大きく見開かれたファイツの青い瞳は、ゆらゆらと揺らめいている。巾着から携帯を取り出して、心配そうに眉根を寄せている彼女のその表情をラクツは眺めた。やはり、この娘のそんな表情を見るのはどうにもいい気はしなかった。彼女が感じているであろう不安を取り除くべく、ラクツは口を開いた。
「3人なら大丈夫だろう。その内、履歴に気付いて向こうからかけて来るはずだ。だから、そんなに心配することはない」
「う、うん……。……あ!」
手に握り締めた携帯を開いてワイちゃんからだと呟いたファイツは、忙しない様子で彼女と通話を始めた。
「もしもし、ワイちゃん!?……うん、うん。良かった……っ」
当然ラクツにはワイの声なんて聞こえないのだけれど、ファイツが口にした言葉からだいたいの会話内容を想像してわずかに目を細めた。どうやら3人に何かあったわけではないらしい。良かったと嬉しそうに口にするファイツの笑顔を、ラクツはただ見つめていた。
「えっと、今どこにいるの?あたしはラクツくんと一緒だけど……。……え?ええええっ!?ちょ、ちょっと……。ワイちゃんっ!?」
どういうわけか急に大声を上げたファイツは、しきりに友人の名を呼んだ。何回かワイちゃんと呼んでいたファイツは、やがて諦めたように携帯を耳から離した。そして、おずおずとこちらに顔を向ける。彼女は明らかに困り果てている表情をしていた。
「……どうした?」
「あ、あのね……。その……っ」
そこまで言ったファイツは、しかし言葉に詰まったらしい。口を開いては閉じるという行動を何度も繰り返している。おまけに、先程より遥かに落ち着きがなかった。こういう時は待ってやるのが最善手だとよく知っているラクツは、何も口を挟まなかった。やがて意を決したのか、それとも沈黙に耐え切れなかったのか、ファイツは深呼吸をした後でしっかりと閉じていた唇を開いた。
「お……。落ち合うのが大変だから、ラクツくんと一緒にお祭を見て回って来ればって……。ワイちゃんが……っ」
「……え」
「それで、花火を見終わったら合流しようかって……。でも、話の途中で通話が切れちゃったの……。ワイちゃんの携帯、どこかおかしいのかなあ……?」
弱々しく呟かれたその言葉に、ラクツは大きく目を見開いた。思わず間の抜けた声を発したが、ファイツはそれどころではない様子で「どうしよう」なんて言っている……。
(……そういうことか)
昨晩送られて来た”明日は頑張って”というワイのメールを思い出して、ラクツは内心で盛大に嘆息した。逸れたのが故意か偶然かまでは分からないけれど、どうやら最初から自分とファイツを2人きりにさせるつもりでいたらしい。まず間違いなくプラチナも一枚噛んでいるだろう。サファイアについては不明だが、おそらく2人が上手く言い包めたか何かしたのだろう。もしくは、こちらの気持ちを知られたかもしれない。……いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。本当に、そんなことは些細なことだと思えた。ラクツはゆっくりとした動作でファイツを見て、その娘の名前を呼んだ。
「……ファイツ、くん」
「……は、はい……っ」
「ボクは別に構わないが……。キミは、どうだ?」
「え……。……えっ……?」
「嫌なら正直に言ってくれ。何とかして、ワイくん達と連絡を取ろう。……でも、もしキミが嫌じゃなければ……」
「…………」
「ボクと2人で、一緒に見て回るか?」
そうは言ったものの、果たして3人と連絡が取れるのかどうか疑問だった。ファイツは彼女の携帯の調子がおかしいのかななんて言っていたけれど、ラクツにはとてもそうは思えなかった。おそらく、ワイは意図的にそうしたのだろう。露骨にも程があるが、ファイツは幸いなことに何も気付いていない様子だった。余計な世話だと溜息をつくべきなのか、それともありがとうと礼を言うべきなのか。ワイにこの次会った時に、彼女に何て言うべきなのだろうとラクツは思った。
「あ、あの…………」
黙りこくっていたファイツは蚊の鳴くような声でそう発した。正直言って彼女の言葉の続きが早く知りたかったけれど、何とか自分を抑えてラクツはひたすら待った。向かい合ったまま立ち尽くしている自分達は奇異に映るのか、それともファイツの浴衣姿が気になるのかは知らないが、道行く人間の視線が背中に突き刺さる。しかしラクツは無言のままでファイツを待った。
「ラクツくんは……。あたしと一緒で、い……嫌じゃないの……?」
「嫌じゃない」
先程より更に小さな声で訊かれた問いに、ラクツはそうはっきりと答えた。嫌だなんてあり得ない、むしろ嬉しくて堪らないと思っていた。もちろんそこまでは言わなかったが。
「…………」
ファイツは俯いて、再び黙り込んだ。幼馴染とはいえ男と2人きりで祭を見て回るわけだから、葛藤があって当たり前だ。それも、元々は親友が同伴するはずだったのに。予想だにしなかったに違いないし、ラクツだって実際そこまでは予想していなかった。
(やはり……。断られるのだろうか……)
落胆しないと言えばそれは嘘になるけれど、自分の”嬉しい”という気持ちを無理に押し付けるわけにはいかない。きっと”ごめんなさい”と言われるだろうと、ラクツは予想した。しかしその時、俯いていたファイツの首が微かに縦に振られたのがラクツの目には見えた。極々小さな動きだったけれど、それでも確かにファイツは頷いた。頷いて、くれた。
「……いいのか?」
「うん……」
確認の為にともう一度念を押したものの、ファイツはまたもやこくんと頷いた。恥ずかしいのかそれとも暑いのか、ファイツの頬には薄らと赤みが差している。困惑も入り混じっているだろうけれど、ファイツは今確かに微笑んでいた。彼女のその表情は可愛い、とてつもなく可愛い。
そのファイツの表情を見ていたら、どうしても触れたくなって。頭の片隅で止めろと制する声が聞こえたけれど、ラクツはそれを無視した。この娘に触れたい、触れたくて堪らない。そんな悪魔の囁きに従って、ラクツはそっとファイツの手を握った。
「え……っ」
ファイツは言葉にならない声を漏らした、断りもなしに急に手を握られたのだから当たり前だろう。彼女のその反応に罪悪感を覚えないではなかったが、素知らぬ顔で告げる。
「……また逸れると、困るだろう」
そうもっともらしいことを言っているのだけれど、実際はただ自分が彼女の手を握りたいだけだったりする。我ながらずるいものだと、ラクツは内心で呟いた。それでもファイツが嫌がるのならば話は別だと、ラクツは彼女の顔をしっかりと見つめながら尋ねた。
「……嫌か?」
「…………」
ファイツは何も言わなかった、だけど抵抗する素振りも見せなかった。ただ俯いたまま、その場に立ち尽くしていた。その沈黙を都合がいいように解釈したラクツは、ファイツに「行こう」と告げた。彼女が頷いたのを確認してから、ラクツは人混みの中に足を踏み入れた。好きな娘の手を、しっかりと握ったままで。