school days : 087
うるさい女
「ねえ、海に行かない?」大学の食堂に備え付けられた椅子に座るや否や、唐突にこんなことを言い出した女に、グリーンは息を吐いた。本人に聞こえるように盛大に嘆息してやると、「何よ」と不満顔で睨まれる。
「別にいいじゃない。明日から夏休みなんだし、海に行くくらい!ほら、周りの人も夏休みの計画を立ててるみたいだし」
ブルーの言う通り、確かに友人らしき人間と夏休みの予定を立てている声があちらこちらで聞こえる。このうるさいざわつきの中でよく聞き取れるものだと、グリーンはまた溜息をついた。
「家に引きこもってばかりいると、その内カビが生えちゃうわよ?……ねえ、レッドはもちろん行くでしょう?」
ブルーは身体の向きを変えて、コーラが入ったグラスを持ったレッドにそう尋ねる。ブルーとグリーンより少し遅れてやって来たレッドが、瞳を輝かせて大きく頷いた。
「オレ?もちろん行く!で、いつにするんだ?」
「そうねえ……。8月の最初の方がいいんじゃないかしら。8日なんてどう?」
「お、オレの誕生日じゃん!そうか、オレはようやく20歳になるんだなあ……」
これでやっと酒が飲めると嬉しそうに呟いて、グリーンの隣に座ったレッドは勢いよくコーラを飲んだ。6月1日が誕生日である為一足先に20歳になっていたブルーが、何とも意外そうな声を上げる。
「あらレッド、今までお酒は飲まなかったの?」
「ああ、興味はあったんだけどな。うちのサッカー部って、その辺厳しいからさあ。オレも問題を起こすわけにはいかなかったし」
「ふ~ん……。レッドって変なところで真面目よねえ、講義は寝てることもあるのに。……そんなわけでマサキによろしく伝えておいてね、グリーン!」
カフェオレを飲んだ後に告げられた言葉を耳にして、グリーンはコーヒーを飲みながら顔を顰めた。持っていたコーヒーカップを受け皿に置いて、自分の左隣に座っているブルーに向かってまた溜息をつく。「どんなわけだ」と言うと、何を言っているのかと言わんばかりの表情でにんまりと口角を上げられた。
「え?だってナナミさんにも声をかけるつもりだったし、別にいいでしょう?流石にナナミさんだけ誘うわけにはいかないし」
マサキというのは、グリーンの姉であるナナミの恋人に当たる男だ。自分より歳上なのにブルーが堂々と呼び捨てにしているのは、マサキが気さくな性格をしている為と、何よりつき合いがそれなりに長いからだ。グリーンの知っているマサキは、呼び捨てにされたくらいで怒るような人間ではなかった。
「お、マサキも誘うのか!何だか随分会ってない気がするなあ……」
当時を懐かしむように目を細めて、レッドがぽつりと呟く。レッドも当然、彼のことを呼び捨てにしていた。ここにいる3人の中では、レッドが一番彼とのつき合いが長かった。自分達がまだ小学生だった頃、マサキはレッドの家の近所に住んでいた。お菓子やジュースを持ち寄って、3人でよく彼の家に押しかけたものだ。彼が持っていた最新のパソコンやテレビゲームが物珍しかったという理由もあるが、単純に子供好きであるマサキと遊ぶのは楽しかった。他の2人とは違ってあまり顔には出さなかったものの、グリーンだって楽しいと思っていたのだ。ブルーもまたあの頃の思い出に浸っているのか、柔らかく目を細めた。
「実際久し振りでしょう。だって今、マサキはナナミさんと一緒に住んでるんだもの。あの2人が同棲し始めてから何年が経つんだっけ、グリーン?」
「……もう3年になるな」
「そう……。ねえグリーン。あの2人って、結婚すると思う?」
「さあな。当人達に訊け」
そう言ったものの、グリーンは何となくそうなるだろうという気がしていた。オーキドナナミがソネザキナナミになる日は、そう遠くないような気がする。まったくもって根拠はないが。
「何よ、つまらない回答ね。レッドはどう思う?」
「う~ん……。やっぱり結婚するんじゃないかなあ。でもオレ達が知ってる人間同士が結婚するって、何かすごくないか?」
「アタシはすごいっていうより不思議に思うわね。だってマサキはちょっと頼りないし、アタシ達が色々お膳立てしなきゃ、ナナミさんをデートに誘えなかったわけだし。流石に今は違うだろうけど」
「ああ、そういえばそうだったよなあ!でも、初デートのお膳立てをしたのはブルーだけじゃないか?オレとグリーンは、せいぜいマサキの相談に乗ったくらいだぞ?それだって、ほとんどグリーンがアドバイスしてたし」
「そうね。というか、レッドに恋愛事を相談した時点でまず間違ってるわね」
「何だよその言い方!」
レッドはじろりとブルーを睨んだものの、彼女に口で勝てないことはこれまでの数え切れない経験で嫌と言う程分かり切っているので、それ以上何も言わなかった。しかしその代わりに、グラスに入れられたストローで氷を乱暴に掻き混ぜた。行き場のない憤りをそれで晴らしているのだろう。周りの喧騒に比べればずっと静かな音だったので、グリーンはレッドに対して特に注意することはしなかった。
「ナナミさんって、マサキのどこが気に入ったのかしら。やっぱり性格?お金は違うわよね」
「それを気にするのはお前だけだろう」
「あら、お金は大切でしょう?やっぱりお金がないと何にも出来ないわけだし。まあ、あの2人はちゃんとお互いを好きなんでしょうけど。でも意外だわ、グリーンってロマンチストなのね?」
「…………」
ブルーに面白そうにそう指摘されて、グリーンは押し黙った。別に図星を突かれたわけじゃない、ただこんな時は黙るのが最善手なのだ。
(まったく、うるさい女だ)
こちらのちょっとした発言から上げ足を取るのはこの女の十八番だ。今更こちらが変に取り繕ったところで、更に面倒なことになるだけだ。
「まあ、からかうのはこれくらいにしておくわ。……で、いいでしょう?」
「何がだ」
「だから、海水浴よ!アタシ、まだグリーンの口から”行く”って答を聞いてないんだけど」
この女のあんまりな言い分に、グリーンは鋭い目付きで睨みつけた。先程自分は盛大に溜息をついてやったのだけれど、どうやらそれは答の代わりにはならなかったらしい。しかも”行くって答”とは何だ、それ以外の選択肢はないのか。グリーンは半ば呆れながら、頬を軽く膨らませているブルーを見据えて口を開いた。
「……断る」
「何でよ!8日は予定でもあるわけ?」
「特にない。ただ、気が乗らないだけだ」
「何よ、それ。せっかくの夏休みなのよ、しかもその日はレッドの誕生日なのよ?親友として、レッドを祝ってやろうと思わないわけ?」
「…………」
「いいじゃない、海くらい。別に泳げないわけじゃないんでしょう?来年からは就職活動とかで忙しくなるんだから、今年くらい思い切り遊んじゃいましょうよ!」
「そうだぞグリーン!」
怒りが収まったらしいレッドが、ブルーの言葉にうんうんと頷いている。お前はもう少し勉強した方がいいと言いかけたグリーンは、けれどその言葉を直接声には出さなかった。レッドはレッドなりに頑張っているのだ。今日だって、期末考査を乗り切る為にテストが始まる寸前まで勉強していた。そのスタイルは小学生の頃から変わってはいないのはどうかと思うけれど、レッドは自分なりに努力している。
グリーンは無言のままに、レッドとブルーを見つめた。この2人との出会いがどうだったかなんて正直憶えていない。仲の悪くない者同士が小学生から大学まで一緒だというのは、おそらくはあまりない例なのではないだろうか。しかし、流石に就職先まで一緒であるとは思えない。これから先の人生のどこかで、きっとこの2人とは離れることになるだろう……。
グリーンは深い溜息をついた。夏休みなわけだから、当然海水浴場は人でごった返していることだろう。それを思うとどうにも憂鬱になるけれど、ブルーの言う言葉にも確かに一理あると思ったのだ。
「……分かった。いいだろう」
溜息混じりにそう言ったら、レッドとブルーは弾けるような笑顔を見せた。それはもうにこにこと破顔させながら、2人でハイタッチなんてやっている。
「で、メンバーはこの3人と姉さんとマサキだけか?」
「えっと……。イエローと、一応カスミとエリカにも声をかけるつもり。もしかしたらタケシも行くって言うかもね。後はシルバーも誘ってみるけど……。受験生だからって断られちゃうかしらね」
「受験生かあ……。ゴールドはどうだろうな。あいつは行くって言いそうだけど」
「何か、割と大所帯になりそうよね。でもグリーンが行くって言ってくれて本当に良かったわ!一度約束したんだから、やっぱり行きませんとかは無しだからね!」
「何がそんなに嬉しいんだ?」
それはそれは嬉しそうに笑っているブルーの態度が不可思議で、グリーンはそう尋ねた。たった1人、海水浴に行く人間が増えただけではないか。それだけのことなのに何故こうも喜ぶのかが、まるで理解出来なかった。
「……さあ、ね。自分で考えてみなさいよ」
グリーンはブルーの言葉に何も言わず、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。どうあっても答を教える気がないらしいブルーは、相変わらず嬉しそうに笑っている。そんなブルーを見つめながら、グリーンは「うるさい女だ」と呟いた。