school days : 083
好きだから仕方ない
「えっと……。本当に、家まで送ってもらっちゃっていいの?」「別に構わない。ファイツくんは今相当疲れているだろう?そんなキミを1人で、それも夜道を歩かせるのはどうにも気が引ける。もちろん、迷惑なら無理に送ることはしないが」
「そんな……。迷惑だなんて思ってないよ!あの、それじゃあよろしくお願いします……」
「……ああ」
何とも申し訳なさそうな顔をしているファイツにそう告げて、家の鍵を施錠したラクツはゆっくりと歩き出した。ファイツが自分の後ろを小走りで付いて来ることに気が付いて、更に速度を落とすように意識をする。
「……ありがとう」
そのことに気が付いたのか、はたまた送ってくれることに対してか。どちらに対してファイツが礼を言ったのかは分からないが、ラクツは何も言わずに頷いた。自宅からファイツの家までは、普通の速度で歩いて約30分程かかる距離だ。自分より歩幅が狭いこの娘の場合は、更に時間がかかってしまうことだろう。隣を歩くファイツの足取りがいつもより重くなっているように思えて、ラクツは内心で舌打ちした。一応内側を歩かせてはいるのだが、どうにも危なっかしい。
(少し……長く教え過ぎたか)
"せっかく数学をラクツくんに教えてもらえるんだから、もう少し頑張りたいの"。真剣な面持ちでそう告げたファイツに根負けしたラクツは、当初の予定より30分長く勉強を見ることとなった。別にそれは構わなかった。ファイツには例の如く謝られたけれど、ラクツは微塵も迷惑だなどとは思わなかった。苦手な数学を克服しようと努力するその姿には、好意を抱いていることを抜きにしても純粋に好感が持てるからだ。元々勉強を教えようかと提案したのはこちらの方なのだ、一度引き受けた以上は責任を持ってファイツの勉強を見ようと決めていた。しかし、次回からはもう少し早目に切り上げることにしようとラクツは思った。自宅で勉強を教える度にこれ程ふらふらになられると、色々な意味で心配してしまう……。
「……ねえ、ラクツくん」
「何だ?」
控えめに自分の名を呼ぶファイツの声に、速度を落とすことなく応じる。出来ることなら、なるべく早くこの娘を家に帰してやりたかった。
「今日もラクツくんのお父さんは帰って来なかったね……。あたし、出来れば挨拶したかったんだけど……」
「父さんは忙しいからな。この時間に帰宅することはほとんどない、大抵は深夜近くだ」
「そっか……。ラクツくんのお父さんって、確か警察官だったよね?夜の9時でも帰れないなんて、すごく大変な仕事だよね……っ」
「……まあ、そうだな」
「ラクツくんって、ブラックさんと家事を分担してるんでしょう?やっぱり、今日も何か料理を作って来た方が良かったかな……?」
そう呟いたファイツの顔は暗かった。それは、辺りが暗いこととはまったく関係ないに違いない。わざわざ訊くまでもなく、ファイツが今落ち込んでいることが分かった。
「いや、その気持ちだけで充分過ぎるくらいだ。昨日も告げたが、ファイツくんが作ってくれた料理は本当に美味しかった。ただ、毎回あれだけの量を作るのは労力的にも金銭的にも大変だろう?別に毎回でなくてもいいぞ」
「あ、あの……。それでも作るって言ったら、迷惑かなあ……?」
「まさか。もしそうしてくれるのなら、すごく助かる。ありがとう」
「ううん、お礼を言うのはあたしの方だよ。えっと、量は3人分でいい?」
「いや、ボクとブラックの2人分だけでいい。どの道父さんはあまり家では食事をしないからな」
「そうなの?……家族揃ってご飯を食べられないのって、淋しくない?」
「父さんが誇りを持って仕事に励んでいるのはボクもブラックも重々理解している。それに、もう慣れたことだ」
「そっか……」
ファイツは俯いて、何かを考え込むかのように黙り込んだ。その反応を目の当たりにしたラクツは、もしかしたら突き放したような言い方になったかもしれないと思った。それによってこの娘に余計な気を負わせたのではないかなんて、そんな心配すらしてしまう。何か言うべきだろうかとファイツを見て、そしてラクツは固まった。顔を上げたファイツが微笑んでいたのが実に予想外だったからだ。やはり心臓に悪いと思いながら、この娘が話を切り出すのを待った。
「ラクツくんって、ブラックさんのことは呼び捨てにするんだね。”兄さん”じゃないんだ?」
「ああ……。昔はそう呼んでいたが、今は名を呼び捨てている。いつからそうなったのかは憶えていないが」
「そう、なんだ……。そういえばブラックさんの姿が見えなかったけど、今日はどうしたの?」
「ブラックなら予備校に行っている」
「そっか、受験生だもんね……。……あの、もう1つ訊いてもいい?」
「何だ?」
「あたし……。さっきラクツくんが言ったことが、ずっと気になってて……。えっと、”いい気分じゃない”って、どういう意味?」
「…………」
表情には何とか出さないようにしていたものの、ラクツは内心では大いに気まずさを感じていた。何も言わずにファイツの青い瞳から目を逸らした。そのまま無言で歩きながら、彼女を納得させる言葉を探す。
(ファイツは、ボクの発言をどう思っただろうか)
この娘がブラックのことを庇った時、ラクツはやはりいい気分はしなかった。しかし、正直にブラックに嫉妬しただなんて告げることはとても出来なかった。それを耳にすれば、いくら鈍いファイツでも流石に不信感を抱くだろう。”何でそんなことを訊くの?”とか、”それってどういう意味なの?”とか。もしくは”あたしのことを好きなの?”とか、何とも核心を突いた質問をされるかもしれない。最後の質問は、あるいはこちらの考え過ぎかもしれないが。
そんな事態になるのは避けたい、けれど何でもないとごまかすこともまた出来そうもなかった。こちらの気持ちにまったく気付かないファイツは、どういうわけか表情の変化には気が付いて。そして「何を怒っているの?」なんて、ラクツからすれば少々見当違いなことを口にした。彼女の表情を見たラクツは二重の意味で”しまった”と思った。ファイツを怯えさせてしまった上に、感じている不機嫌さをありありと表情に出してしまった。こうして一度疑念を抱かれた以上は仕方ないと思ったラクツは、いい気分はしないと告げたのだ。嫉妬したとは言えない、しかし嘘を吐くこともしたくなかった。何とも思わせ振りな発言をしたものだと、内心で苦笑した。案の定、ファイツは「ブラックさんと仲が悪いの?」と尋ねて来た。またしても、ラクツからすれば的外れの質問だった。
「ファイツくん」
ラクツは、自分と同じく黙って歩いていたファイツの名を静かに呼んだ。わざわざ立ち止まっておずおずとこちらを見た彼女の顔には、困惑の色が見て取れる。休憩中に彼女の好物である桃がふんだんに使われたゼリーを出した時にも、そして再び自室で数学を教えている時にも、ファイツは時折そんな表情をしていた。おそらくは、ずっと気になっていたのだろう。
「な、何?」
「重ねて言うが、ボクは怒ったわけじゃない。先程いい気分ではなかったと言ったのは、ブラックが昨日キミの家で騒がしくしたからだ」
人の家で騒がしくしていた兄を思い出して、不快感を感じたのは確かだった。そしてそれ以上に嫉妬心を覚えたというのが真実なのだが、それは口にしなかった。
「……そう、なの?」
「……ああ」
嘘は言っていない、しかし完全に本当のことを告げたわけでもない。もしかしたら、この娘はこちらの説明に納得してくれないかもしれない。そう懸念したラクツは内心で身構えたものの、どうやらその心配は杞憂だったらしい。「そっか」と呟いたファイツは、打って変わって笑顔を見せてくれた。花が咲いたような笑顔だった。
(……可愛い)
本当に、何故この娘にはこんなにも可愛いのかとラクツは思った。フィルターでもかかっているのかと感じてしまう程に、彼女の姿はラクツの目に可愛く映っている。そう思うと同時に、そんなファイツの笑顔を奪ったのは紛れもない自分自身なのだという事実が重くのしかかった。今から思うと愚行にも程があるけれど、当時の自分はファイツに冷たく接することがこの娘の為になるのだと本気で信じていたのだ。数ヶ月前はこちらを見る度に怯えるようになっていたファイツは、今はこんなにも可愛い笑顔を見せてくれるようになった。元に戻ったと言えばそれまでなのだが、やはり嬉しい。苦しくもあるけれど、やっぱり嬉しい。しかし、とも思う。
(この笑顔を、好いた男に見せているのだろうか……)
どこの誰とも知らぬ男に、頬を赤く染めながらも笑顔を向けるこの娘の姿を想像してしまうと、心中はどうしても穏やかではいられなくなる。しかしその感情を表には出さないようにして、ラクツは再び歩き始めた。自分より歩幅が小さいファイツに合わせて暗い夜道をゆっくりと歩く。あえてファイツの顔を見ないようにして、ラクツは「すまなかった」と詫びた。幼かった頃はそうでもなかった気がするが、どうも最近の自分はすまないと口にすることが増えたように思う。ファイツがとにかくよく謝るから、だから自分もそれがうつったのだろうか。
「えっと……」
自分のわずか後ろを歩くファイツは、こちらが言った「すまなかった」の言葉の意味が理解出来なかったらしい。基本的にファイツは鈍感なのだけれど、こちらが唐突に謝罪したのも良くなかったのだろう。
「ああ……。もしかしたら、キミを怖がらせたのではないかと思ってな」
「ううん、あたしは大丈夫だよ。……でも、やっぱりブラックさんをあんまり怒らないであげて欲しいな。ラクツくんの気持ちも分かるけど、ブラックさんは悪くないもん」
「……ああ。分かった」
「あ!あの、その……。偉そうなことを言っちゃって、ごめんね?」
相変わらず謝るファイツの言葉を聞いたラクツは、ゆっくりと振り返った。すると、予想通りに眉根を下げたファイツの姿が視界に入る。感情を素直に表す彼女らしい反応に苦笑しつつも、しっかりと念を押す。
「何を謝っている。その必要はないと、何度も言っているだろう」
「……そ、そう?」
「そうだ。だが、別にそれで落ち込む必要もないぞ。キミは間違ったことは言っていないんだ、気にせず堂々としていればいい」
「…………」
ファイツは何も言わなかった。そしてそのまま、歩を進めていた足をぴたりと止めた。少し俯きがちになった彼女の様子が気になって、ラクツもまた足を止める。しばらくの間黙っていたファイツは、やがてゆっくりと顔を上げた。
「ラクツくんって、やっぱり……」
「……どうした?」
何気なくそう口にしたものの、ラクツは内心で焦りを覚えた。まさか、自分の気持ちに今度こそ気付かれたのではないか。この娘のことを幼馴染以上に想っている事実が伝わったのではないかなんて、そんな考えが浮かんでは消えていく。
「あのね……。やっぱりラクツくんはあたしのお兄ちゃんみたいだなあって……。そう思ったの」
「……そう、か」
お兄ちゃんみたいだと言ったファイツは、にこにこと微笑んでいた。予想したよりずっといい結果だ、何しろ泣かれたわけでも自分の気持ちが伝わってしまったわけでもないのだから。ファイツは今笑っている、そしてその笑顔は自分に向けられている。しかしラクツの心に浮上したのは喜びではなく、落胆だった。
ファイツは今しがた、自分のことを兄みたいだと称した。それは即ち、男として見られていないということに他ならないわけで。その考えに至った瞬間、ラクツの心には鈍い痛みが奔った。胸を打つような痛みだった。いくらプラチナに「ファイツくんに気持ちを告げる気はない」と言ったとはいえ、ファイツを好きだという気持ちそのものがなくなるわけではないのだ。むしろこうしてファイツと接する機会が増えることに比例して、好きだという想いも以前よりずっと強くなっている気がする。
(……認めるしかないな)
意地を張ったとしても、何の意味もないのだ。それならば潔く認めてしまった方がいい。それには勇気がいるけれど、やはり苦しいけれど、それでも認めた方がいくらか楽になるというものだ。
「何故、そう思うんだ?」
暗い声にならないように意識をしながら、ラクツは何とか話を合わせた。話を振ってもらえたことに安堵した様子のファイツが、それは嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「だって、ラクツくんってすごくしっかりしてるんだもん。昨日ラクツくん達が帰った後、お姉ちゃんも褒めてたんだよ?”アタシよりずっとしっかりしてて偉い”って!」
「……そうか?」
「そうだよ!」
力いっぱい頷いたファイツは、そのまま道路を踏み締めるように歩き出した。これなら特に意識をしなくても良さそうだと判断したラクツは、普通の速度で歩を進めた。
「それに……。お姉ちゃんだけじゃなくて、あたしもそう思うな。すっごく大人びてるし、何でも出来るし、やっぱりラクツくんはあたしと同い歳とは思えないよ」
今度はファイツの少し後ろを歩いているラクツは、何とも微妙な気持ちになった。「数学も得意だし」とか「家事だってブラックさんと分担してるし」とか、「お箸の持ち方が綺麗」だとか、指折り数えながら色々と上げ連ねているファイツの声は明るい。しかしファイツのその賛辞は、ラクツにとってあまり嬉しいものではなかった。その理由なんて、わざわざ自問しなくてももう分かっている。ラクツは暗い気持ちになりながら、それを隠して穏やかな表情を作った。
「それで、ボクが兄みたいだと……。そう言ったのか」
「うん!同い歳の大切な幼馴染だけど、ラクツくんはあたしのお兄ちゃんなの」
「そうか。ファイツくんが、妹か……」
花が綻ぶように笑ったファイツに釣られるように、ラクツもそう言って微笑んだ。ファイツはまず間違いなく、こちらのことを大切に思ってくれているのだろう。それに「そうか」と答えつつも、しかしラクツは嫌だと思った。本当は、ファイツに兄と思われたくない。嫌われるよりはずっといいけれど、もう”大切な幼馴染”では満足出来ない。
(ボクは、ファイツに男として見られたい)
心の中でしかそう言えない自分は、何て臆病な男なのだろうか。それでも好きだと告げることは出来ない、告げたら確実にこの娘は困ってしまうだろう。だけど同時に男として見られたいという気持ちも確かにあるのだ。それはラクツの偽らざる本心だった。この娘に幼馴染以上に見られたい。そして出来ることなら、他の男なんて見ないで自分だけを見て欲しい……。
「…………」
そう思いながらファイツの背中を見つめていたラクツは、彼女の身体がやけに大きくふらついていることに気が付いた。この娘が倒れる光景を想像して、とっさに腕を伸ばす。
「危ない!」
「きゃあ!」
そんな自分の想像通りに、ファイツは大きく傾いた。彼女が倒れないようにその手を握って、自分の方に引き寄せる。軽く引っ張ったつもりだったのだが、焦ったこともあってファイツを思い切り抱き留めてしまった。
「……きゃあああっ!」
急に後ろに引っ張られたことに悲鳴を上げたファイツは、自分に抱き留められていることに気付いて更に大きな悲鳴を上げた。離れようとしているのか、わたわたと手を動かす。
しかしラクツはそれに気付きつつも、ファイツをすぐに解放しようとはしなかった。この娘を離したくない、このまま抱き締めてしまいたい。そんな強い衝動に襲われたけれど、ラクツは何とかその気持ちを抑え込んだ。後ろ髪を引かれる思いで、ファイツの肩に触れていた手をゆっくりと放す。流石に今の自分の行動を思うと目を合わせることなんて出来なくて、あらぬ方向を見ながら口を開いた。
「今のは不可抗力だが……。……その。すまなかった」
「う、ううん……。大丈夫……」
呟くようにそう答えたファイツもまた、自分の方を見なかった。完全に俯いた彼女は落ち着かない様子でそわそわと両手を触れ合わせながら、小さな声で「ありがとう」と告げて来る。その”ありがとう”に曖昧に言葉を返して、ラクツはファイツの様子が落ち着くのをひたすら待った。本当に不可抗力だったとは言え、ファイツを抱き留めてしまった事実に、そして自分の中に湧き上がった衝動に、ラクツは頭を抱えたくなった。好きだからそう思ってしまうのは仕方がないのだけれど、それでもやはり心の中には罪悪感が渦巻いていた。