school days : 080

黒と白
テーブルの上に並べられた料理の数々を見て、ラクツは目を見開いた。ファイツからの電話で彼女が料理を作ってくれたことはもちろん知っていたのだけれど、どの道行けば分かるからと詳しいメニューは訊かなかったのだ。あの娘はいったい何を作ってくれたのだろうと、ここに来る途中の道すがらでもそればかり気にしていた。実際に見て驚いた、どれもこれも全てが好物だ。自分が住んでいる家だというのに所在なさげに立っているファイツの方を振り返って、尋ねる。

「これを、全て……。全て、ファイツくんが作ったのか?」
「う、うん……。ラクツくんの好きな物を思い出しながら作ったつもりなんだけど、もしかしたら嫌いな物が混じってるかも……。もしそうだったら、ごめんなさい……っ」
「何故謝る。その必要はないだろう?」
「う……。は、はい……っ」
「むしろ、ボクの好物ばかりだ。……そうか、憶えていてくれたんだな」

例の如く謝ってしまったファイツを優しく諌めて、ラクツは目を柔らかく細めた。わざわざ好物を作ってくれたことが、そしてそれを憶えていてくれたことが本当に嬉しい。ファイツに好意を抱いている事実が本人に伝わるのはまずいけれど、感謝の気持ちは伝わってくれなければ困る。だから、ラクツは口を開いた。

「……ありがとう、ファイツくん。本当に、嬉しい」
「え……っ。……あ、うん……」

口元に手を当てて、明らかに目を逸らしたファイツの様子が気にはなったものの、ラクツは特に指摘しないことにした。どうしたなんて訊いたら、彼女を大いに困らせてしまいそうな気がしたのだ。

「あ……。あの、こっちに座ってね」
「ああ。ありがとう」

我に返ったのか、ファイツが椅子を指差してそう口にする。ラクツは彼女の言葉に頷いて、椅子を手前に引いた。

「あの……。ブラックさんもどうぞ」
「…………」
「えっと……。ブラックさん?」

ファイツは返事をしないブラックに話しかけたが、当の本人は言葉を返さなかった。目の前にいるホワイトを見つめたまま、身動きもせずに固まっている。ホワイトもホワイトで、じっとブラックを見つめ返していた。もっともぎこちなく両手の指を触れ合わせているだけ、まったく動かないブラックよりは軽症と言えるかもしれない。

「ラ、ラクツくん……。どうしよう……?」

ブラックとホワイトの2人に視線をやっていたファイツが、縋るような視線をこちらに向けて来る。形はどうあれファイツに見つめられてしまったのだ、当然ラクツの心臓は激しく暴れることとなった。好きな女の自宅に招かれたことで、ただでさえラクツは普段よりずっと浮ついているのだ。今の自分が平常とは程遠いところにいることはきちんと自覚している。このままでは、何かとんでもないことを口走ってしまいそうな気もする。好きだと口にしないまでも、それに等しい言葉を投げかけるなんてことになったら最悪だ。例えば「キミの作った料理を毎日食べたい」、とか。

(まったく……。心臓に悪いな)

困っていることを全身で表しているファイツは、純粋に助けを求めているだけだというのに。それなのに自分はいったい何を考えているのだろうと嘆息して、ラクツは未だに放心している兄に近付いた。

「ブラック。ファイツくんが困っている」
「……あ、ああ……」

リビングに入ったまではいいが、そこでホワイトの顔を見るなりブラックは固まってしまっていた。肩を強めに叩かれたことでようやく覚醒したらしく、気まずそうに頬を掻いて「悪いな」と頭を下げる。ラクツからは見えなかったが、ファイツが慌てた様子でぶんぶんと首を横に振っている光景が簡単に想像出来た。

「ここに来る途中で、ラクツからあんたのことは聞いてたんだけどさあ。まさか、一緒に住んでる従姉が社長のことだとは思わなくて……。……おいラクツ!お前、何で黙ってたんだよ!」
「キミがボクに訊かないのが悪い。だいたい、ボクは既に知っているものと思っていたが」
「分かんねえよ!だって、社長とはそういう話しなかったし……。なあ、社長!」
「あ……。そ、そうね。ラクツくんのお兄さんがまさかブラックくんのことだったなんて、アタシも思いもしなかったわ……」

ブラックからやや遅れて我に返ったホワイトもまた、気まずそうにそう答える。実際に気まずいのだろう、何しろ異性のクラスメートを自宅に招く結果になってしまったのだから。そわそわと落ち着かない様子で「冷めないうちに食べましょう」なんて言ったホワイトのその声は、どう聞いても上擦っている。

「ああ、そうだな社長!……本当に悪かったな、ファイツ」
「い、いいえ……。えっと、あたしに謝ることなんて、ないと思います……」

ラクツは何食わぬ顔で兄とファイツのやり取りを耳にしていたが、その胸中は正直穏やかではなかった。卑屈なところがあるファイツは、その必要がないのに度々ごめんなさいと謝る。しかし、今彼女は「そうすることはないと思う」と口にしたのだ。その考えを、何故自分自身に向けてやらないのかとラクツは思う。やはり、ファイツが自身を卑下する言葉を聞くのはいい気分ではない。だから胸中が穏やかではないのだろうかと思考して、ラクツはすぐにその考えを否定した。兄のブラックは、あの娘をしれっと呼び捨てにした。その呼び方に他意はないと分かってはいるが、それでも何となくいい気持ちはしない。正確に言えば、気に食わないというのが本音だった。その事実を認めたラクツは内心で愕然とした。そこから導き出される答なんて、たった1つしかない。

(まさか……。ボクは、ブラックに妬いたのか?)

別に手と手が触れたわけではないのに、兄はただ呼び捨てにしただけなのに。それも、以前と同じ呼び方をしただけのことなのに。しかし、ラクツの心は穏やかではなかった。どうかしていると思った。他の男があの娘を呼び捨てにした事実に嫉妬したなんて、相当余裕がない証拠だ。それも妬いた対象は実の兄だなんて、本当にどうかしている。ファイツの家にいるから、今の自身はとても平常ではないから、だからそう思うのだろうか?

「……ラクツくん、どうかしたの?」

ファイツの声が間近で聞こえて、ラクツは目を見開いた。気付けばファイツだけでなく、いつのまにか座っていたブラックとホワイトの視線まで突き刺さっている。勧められた椅子に座らずにいつまでも立っているのだ、これではこう訊かれて当たり前だ。自分と同じようにその場に立っているファイツは、それは不思議そうな顔をしている。

「いや……。待たせてすまないな」

自分が座らないからファイツも座らないのだと察したラクツはまず謝罪して、先程彼女が指を差した椅子に腰かけた。小さく首を横に振ったファイツもまた、静かに椅子に腰かける。彼女が座った場所はラクツの正面だ。言うまでもなく心臓は音を立てたけれど、ラクツは素知らぬ顔で目の前のご馳走に視線をやった。いい隠れ蓑というわけではないが、視線をやる対象があって良かったとラクツは思った。
自分を含めた椅子に座ったままの4人の間に、重い沈黙が落ちる。ホワイトはぎこちないながらも笑みを浮かべながら、そろりとファイツに視線をやった。ブラックはそわそわと落ち着かない素振りを見せながら、やはりファイツを見つめている。本音は今すぐにでもご馳走にありつきたいのだろうが、ファイツとホワイトがいる手前何とか自分を抑えているといったところだろう。ブラックとホワイトの2人が見つめているからいいだろうと、ラクツもついにファイツをまっすぐに見つめた。3人の視線を浴びて、ファイツの頬が瞬く間に赤く染まった。

(……可愛い)

恥ずかしそうに口元を手で隠すファイツのその姿を見て、ラクツはそう思った。可愛い、とてつもなく可愛い。ファイツは今困っているのだろうが、それでもやっぱり可愛いと思ってしまった。

「あの……。ど、どうぞ……。えっと、各自で取り分けて下さい……っ」
「おう!いただきます!」

実に控えめに紡がれたファイツのその言葉に、ブラックは元気良く答えた。待ってましたとばかりに、自分の前に置かれた皿に料理を取り分け始める。ホワイトもまた「いただきます」と言って、ブラックとは別の大皿から料理を取り分けていく。ラクツだって空腹は感じていたけれど、箸を持つより先に両手を胸の前で合わせた。眼前のファイツをしっかりと見つめてから、口を開く。

「……いただきます」
「……うん」

ファイツがこくんと頷いたのを確認したラクツは、ようやく箸を持った。まずは一番近くにあるほうれん草のお浸しにしようと手を伸ばしたちょうどその時、「美味い」という大声がリビングに響き渡った。ラクツは伸ばした手を止めて、大声を出した張本人のブラックを冷ややかに見つめた。

「……ブラック。近所迷惑だ」
「わ……悪い。けど、本当に美味いんだって!お前も早く食ってみろよ!……なあファイツ!このかぼちゃの煮物、すっげえ美味いよ!」
「ほ、本当ですか!良かった……!」
「アタシもそう思うわ。ファイツちゃんって料理上手よね!」
「そ、そうかなあ……?」
「そうよ!本当に美味しいんだから、もっと自信を持っていいと思うわよ?」
「うん……」

ラクツは3人の会話を聞きながら、和食の数々を手早く取り分けた。ファイツの前に置かれた皿には何も乗っていない、自分が食べるのを明らかに待っているのだ。とりあえず大方取り分け終えたラクツは、料理を上から見下ろした。ご飯に味噌汁、ほうれん草のお浸しにかぼちゃの煮物、黒豆に肉じゃが……。

(本当に……ボクの好物ばかりだな)

これを食べてしまうのは何となくもったいない気がするが、それでは本末転倒になってしまう。それに、ファイツをこれ以上待たせるのはいくら何でも気の毒だ。ラクツは黒い箸を左手に持って、かぼちゃを1つ掴んだ。間違っても途中で崩さないように気を配りながら、慎重に口の中に入れる。咀嚼した途端にかぼちゃの甘味が口内に広がった。それに、出汁の味も効いている。市販の物よりも大分薄味だが、自分の好みには完璧に合っていた。

(まさか……。ボクの好みに合わせてくれたのだろうか?)

自分の好物である和食料理を作ってくれただけでも嬉しいのに、まさか味まで好みに合わせてくれるだなんて思わなかった。かぼちゃを飲み込んだラクツは、こちらの様子を固唾を飲んで見守っているファイツに視線を合わせた。その瞳は不安そうに揺れている。

「ど、どう……?」
「……すごく美味しい。ボク好みの味だ」

ラクツが自分の心の底からの本音を口にすると、ファイツは花が咲いたように笑った。安堵したように胸に手を当てて、深い溜息をつく。

「良かったあ……。ちゃんと全部の料理の味見はしたんだけど、何となく不安だったの……。良かったら、たくさん食べてね」
「……ああ。そうさせてもらう」

再び箸を持ったラクツは食事を再開した。今度はほうれん草のお浸しを口の中に入れて咀嚼する。やはり美味しい。この娘に惚れているという事実を差し引いても、純粋に美味しいと思えた。他の料理も全てが美味しかった、完全に自分の好みに合っている味付けだ……。

(キミの料理が毎日食べたい……か)

ラクツは、ブラックやホワイトとお喋りしながら食事をしているファイツのことを見つめた。そんな未来は訪れるはずもないと分かってはいるけれど、この娘の作った料理を冗談抜きで毎日食べたいとラクツは思った。