school days : 079
気の所為
「ど、どうしようお姉ちゃん!ラクツくん、家に来るって!」携帯を手に握り締めながら、ファイツは従姉に向かってそう言った。ホワイトは微笑みながら、「良かったね」なんて言っている。
(そ、そりゃあ良かったけど……。でも、心の準備がまだ出来てないよ……っ)
心なしか顔が赤くなっている気がする。それを指摘されたくなくて、デザートを作るからと言ったファイツはキッチンへ引っ込んだ。自分以外に誰もいないキッチンで、そっと胸に手を当てる。やっぱり心臓の鼓動は速い、これは絶対に気の所為じゃない……。
「も、もう……っ。お、お姉ちゃんが……変なこと言うから……っ!」
ファイツは軽く頬を膨らませて、目の前にある自分が作った料理の数々を見つめた。これらを自分の幼馴染は、本当に美味しいと思ってくれるのだろうか。今更ながらそんな不安が生まれて来る。
最初は、ただのお礼のつもりだった。予定があるはずなのに、部活で忙しいはずなのに、それでも彼は自分の為に勉強を教えてくれると言う。Nが担任を受け持つ特進クラスの一員になりたいなんて、完全にファイツ自身のわがままでしかない。それなのに協力してくれると言ってくれた幼馴染に、ファイツはどうしてもお礼がしたかった。何なら彼へのお礼になるかと考え抜いた末に、ファイツは1つの結論を出した。それがラクツの好きな料理を作ることだった。自分が人並みに出来るものと言えば、料理しか思い浮かばなかったのだ。
期末テストの前に勉強を教えてもらった時に、彼が兄と交代で家事をしていることを聞いていたこともあり、ファイツはまさにこれしかないと思った。彼の負担も少しながら減らせるかもしれないし、男の人はたくさん食べそうだし。もちろんファイツは彼のお兄さんの分も作るつもりだった。1人分も2人分も大して変わらないし、ラクツの分だけ作るというのも何となく気が引けてしまう。そんなわけでファイツは、ラクツと彼のお兄さんの2人分の料理を作ることに決めた。明日勉強を教えてもらうのと引き換えに料理を持っていこうとファイツは思った。彼が好きなのはどちらかと言えば洋食より和食で、更に言えば薄味が好みだ。自分の記憶を一生懸命掘り起こして、ファイツは一品、もう一品と料理を作っていった。
気合を入れ過ぎた為か結構な品数と量になったけれど、余った分は自分達で食べてしまえばいいとファイツは特に気にしなかった。それでももしかしたら残るかもしれないけれど、そうなったら明日食べればいい。ホワイトが帰って来たのは、料理をほぼ全て作り終えた頃だった。目を丸くしてキッチンに立ち尽くすホワイトに詳しい事情を話したら、どうせならラクツくんを家に呼んだらと言われてしまったのだ。
出来上がった料理を密閉出来る容器に入れて彼の家に持って行くつもりだったファイツは、ホワイトのその発言に固まった。最初はラクツくんも用事があるかもしれないしと断ったのだけれど、”ファイツちゃんの作った料理、ラクツくんもたくさん食べたいんじゃない?”と言われて、ファイツはホワイトの言葉に「そうかなあ」と返した。確かに容器に入れて持っていくより量はあるけれど、急に家に来て欲しいと言われても彼は困るだけではないだろうか。自分が持って行く方が、彼の負担にならないのではないだろうか……。
大いに躊躇したけれど、結局ファイツは電話をすることにした。断られるならそれでいい、言うだけ言ってみようと思った。そして電話に出た幼馴染に事情を説明したものの、彼はすぐに返事をしなかった。驚いたから言葉を失くしてしまったかもしれないとファイツは思った。いや、驚くだけならまだいいかもしれない。ただの幼馴染の関係でしかない自分に、しかも事前の許可なく料理を作られてしまったのだ。それも良かったら自宅に来て欲しいなんて言われて、彼はどう思っただろうか。もしかしたら、大いに引いてしまったのではないかとファイツは思い直した。
ちなみに、ラクツの彼女であるプラチナにはきちんと許可を取っている。すっかりプラチナと一緒に食べることが当たり前になった昼食の場では言い出せなかった。ワイとサファイアの目があると思うと、どうしてか言い出せなかったのだ。何とか午後の休み時間にプラチナを捕まえたファイツは、特進クラスに入りたいから勉強を教えてもらうことと、彼とは幼馴染の関係であることと、お礼に料理を作るつもりだと言うことを正直に打ち明けた。そうしたら彼女は嫌な顔1つせず、にこにこと微笑みながら「ラクツさんは喜ぶと思います」と言ってくれた。おまけに「応援しています」とまで言ってくれたのだ。同じ女でありながらも、ファイツはその笑顔に見惚れた。笑顔が素敵な人だと思った。頭がぼうっとなったけれど、何とか頑張るねと答えた。
ラクツが言った通り、プラチナは自分のことを応援してくれた。幼馴染の関係でしかない異性に料理を作られるなんて、恋人であるプラチナからすれば決していい気持ちではなかったはずなのに。だけど嫌な表情は微塵も見せずに、彼は喜んでくれると太鼓判を押してくれた。その大人びた対応に、やっぱりミス・パーフェクトは彼女だとファイツは思った。ミスター・パーフェクトに相応しいのは、ラクツの隣に相応しいのは、やっぱりプラチナだ。大人びている者同士、きっと性格も合うことだろう。頭もいいし性格もいいし美人だし、彼女には非の打ちどころがないように思える。同性から見てもこれ程魅力的なのだ。ラクツの目には、彼女はとてつもなく魅力的に映っていることだろう。
ファイツが携帯を持ったままプラチナとのやり取りを思い返している最中も、ラクツはただの一言も言葉を口にしなかった。自分は良かれと思って料理を作ったのだけれど、彼にはありがた迷惑にしかならなかったのではないか。泣きたくなったけれど、ここで涙を流したら更に彼を困らせることになる。手を思い切り握り締めて、ファイツは泣くのを何とか我慢した。困らせてごめんなさいと言おうと、口を開いた。最初の”ご”を言ったところに、ラクツの”ありがとう”がちょうど被さった。ファイツは放心して、ホワイトに提案を受けた時以上に固まった。ごめんなさいを言いそびれてしまったことは、既に頭の中から吹き飛んでいた。ありがとうと言われたということは、彼にとっては迷惑ではないと解釈していいのだろうか。自信がなくて、「あの」とか「えっと」とか、言葉にならない言葉を口にしてしまった。電話越しの彼にそれはおかしな受け答えだと思われたことは分かるのだけれど、彼が本当にそう思ってくれたのかは自信がなかった。そんな自分の葛藤を知ってか知らずかは分からないが、ラクツは重ねて「本当にありがたいと思っている」と言ってくれた。おまけに、すごく嬉しいなんて言われてしまった……。
(すごく嬉しいなんて……。う、嬉しいけど…何だかどきどきしちゃう……)
すごく嬉しいと告げた彼の声の様子からすると、本当にそう思ってくれているのだろう。何だかとても優しい声だったように思えたのは、自分の考え過ぎだろうか?
「…………」
デザートを作るなんて言った癖に、ファイツは何をするでもなくその場に立ち尽くしていた。やっぱりまだ心臓の鼓動は速い、どきどきと痛いくらいに高鳴っている……。
「ラ、ラクツくんのお兄さんも来るんだもん……。どきどきするのは当たり前だよね……」
幼馴染の”ついでに兄もお邪魔してもいいか”との問いに、ホワイトに確認を取ったファイツはいいよと答えた。ラクツに勉強を教えてもらった時は一度も会わなかったので、これが久し振りの対面ということになる。彼に会うのは小学生の時以来で、実に5・6年振りだ。ラクツとは幼馴染だけれど、ファイツはラクツの兄と特別仲が良かったわけではない。これはもう、ほぼ知らない人と言い換えてもいいのではないだろうか。小学生の頃に会ったきりの、ほぼ知らない男の人が家に来るのだ。しかも自分が作った料理を食べに来るわけで、それを思うとファイツの胸はどきどきと高鳴った。何だか、テレビ番組で審査される料理人になった気分だ。
「……だ、だからだよね。あたしがどきどきするのは、別におかしくないよね!」
独り言にしては大きかったけれど、どうせこの場には自分しかいないのだ。ファイツは変じゃないよねと口に出して、ようやくデザート作りに取りかかった。デザートといっても市販のプリンとコーヒーゼリーの素を冷やし固めるだけの簡単な物だけれど、それでもないよりはいいだろう。
「ラクツくんのお兄さんはどっちが好きなんだろう……。ラクツくんはきっとコーヒーゼリーだと思うんだけどなあ……」
デザートの素を温めている鍋を見ながら、ファイツはぼんやりと物思いに耽った。ラクツの誕生日によく焼いていたクッキーではないけれど、今自分は彼の為にお菓子を作っているのだ。あの頃は、彼とまた話せるようになるだなんて思ってもみなかった。ラクツの姿が視界に入る度に怖くて怖くて堪らなかったはずだったのに、今は彼と電話するまでになっている。そうは言っても小学生の頃だって彼とはよく電話していたのだから、だから元の関係に戻ったと言えばそれまでなのだけれど。けれど、何だかそれが嬉しい。小さなことかもしれないけれど、それがものすごく嬉しい……。
「どうしよう……。またどきどきしてきちゃった……」
幼馴染に電話をしてから、幼馴染に”お前”と言われてから、こんな風にどきどきすることが多くなった気がする。お前と呼んだ時の彼が知らない人に思えて、ファイツはついどきどきしてしまった。それが、今日まで尾を引いているということだろうか。
「あたしとラクツくんは、幼馴染だもん。今どきどきしてるのは、別に変な意味じゃないよね」
ファイツはそう彼に尋ねたし、彼だってそうだと言ってくれた。そう、自分と彼は幼馴染の関係なのだ。この関係が変わることはないに違いない。彼が言った通り、自分達はこれから先もずっと幼馴染の関係なのだ。それなのに彼が知らない人に思えたなんて、あたしは何を変なことを考えたのだろうとファイツは思った。
(うん……。あれは、あたしの気の所為だよね)
幼馴染がまったく知らない男の人に思えたなんて、彼に何だか失礼だ。沸騰した鍋の中身をかき混ぜながら、ファイツはそう思った。