school days : 077
お隣さん
テニス部の部活動を終えて帰宅したワイは、「ただいま」と言って靴を脱ぐなり一目散にお風呂場を目指した。母親からの返事はなかったけれど、ワイは別に気にしなかった。そんなことより、今はとにかくシャワーを浴びたいと思った。ただでさえ暑いのに、テニスで思い切り汗を流したので気持ち悪くて仕方がなかったのだ。シャワーを浴びてさっぱりしたワイは、ドライヤーで手早く髪の毛を乾かした。そして脱衣所に置いてある洗濯物が入ったかごから新しい服を引っ張り出して、これまた手早く私服に着替える。鏡で身嗜みをチェックしてから、ワイはすぐさまお隣さんの元へと向かう為に歩いた。ちょうど玄関に着いた時、後ろから声が聞こえた。「どこに行くの?ワイ」
「……エックスのところ」
母親の声に、ワイは振り向かずに答える。無視をしてしまうという手もあるが、さっさと答えてしまった方が話が長引かないだけいいと思ったのだ。
「そう……。あなたもよく飽きないわね。あの子のことを気にかけるのもいいけど、来年は受験生なのよ。帰ったらちゃんと勉強しなさい」
お帰りなさいとか、行ってらっしゃいなどと言うのならば分かる。百歩譲って、「エックスくんに迷惑をかけるんじゃないわよ」と言われるのなら、それもまだ理解出来る。だけど母親の口から飛び出して来たのはそのどちらでもなかった。ワイは返事をせずに先程まで履いていた靴を近くに引き寄せた。どうせ行く先はお隣さんなのだからと、踵を潰して履いた。今はとにかく、一刻も早く家を出たかったのだ。母親の声を聞きたくなかった。何も言わずにワイは玄関のドアをバタンと閉めて、エックスの元を目指した。徒歩10秒程で目的地にたどり着いたワイは、何度もエックスの家のドアを強く叩いた。心には苛立ちが募っていた。
「……何怒ってるの、ワイちゃん」
5回程ドアを叩いたところで、ワイの幼馴染がのそりとドアを開けて顔を出した。呆れが入り混じった仏頂面をしている。
「そりゃあ怒るわよ。だって、お母さんがエックスのことを悪く言うんだもの!」
「ふうん……。まあとりあえず、入れば?」
「……うん」
エックスの家の玄関で靴を脱ぎながら、ワイは感じた苛立ちを幼馴染にまくし立てた。
「ねえエックス、酷いと思わない?アタシがエックスの家に行くのによく飽きないわねなんて言うのよ!?しかも、帰ったら勉強しなさいなんて言うし!」
「そりゃ、言うだろ。だって、オレがおばさんに良く思われてないのは本当のことだし」
「でも……!」
「それに、ワイちゃんの期末テストの結果はあまり良くなかったわけだし。……確か国語が57点、数学は43点だっけ?……まあ、英語だけは割と良かったみたいだけど」
「……う、うるさいわね!赤点じゃなかったからいいの!」
幼い頃から何度も出入りしているエックスの家だ、今更遠慮も何もない。そんなわけで、ワイは家主より先にリビングへと足を踏み入れて、本人より先に椅子に深く腰かけた。
「エックス、お茶出してお茶!アタシ、今日は紅茶が飲みたい」
「……はいはい」
何とも投げやりな返事をして、エックスがのろのろと台所へと向かった。エックスは普段紅茶なんて飲まないのだが、戸棚にはきちんと紅茶のティーバッグが何種類か常備されている。紅茶が好きなワイの為に、エックスが通販で買って来てくれたのだ。
「シャラの紅茶があったらそれがいいわ。なければコウジンで」
シャラとコウジンというのは紅茶のメーカーの名前だ。流石にこの前プラチナの家で飲んだクノエの物には数段劣るけれど、ワイはこの紅茶も充分に美味しいと思っている。数分後、麦茶が入ったコップとワイ専用のマグカップを持って、エックスがリビングに戻って来た。
「はい、ワイちゃん。シャラのやつ」
そう言って、エックスはワイにマグカップを手渡した。返事はなかったものの、自分のリクエストはちゃんと聞こえていたらしい。「ありがとう」と言ったワイは、すぐさま紅茶を飲んだ。この暑さに加えてシャワーを浴びたおかげで、喉がからからに渇いていたのだ。
「この暑い中でよく熱い紅茶なんて飲めるね、ワイちゃん」
「だって、この紅茶は熱い方が美味しいんだもの。エックスも飲んでみればいいのに」
「やだよ。オレは、麦茶の方がいい」
ワイはマグカップを手に持ったまま、あっという間に麦茶を飲み干した幼馴染の顔をじっと見つめた。その視線に人の視線に敏感なエックスが気付かないわけもなく、一息ついた後に「何?」と尋ねられる。
「んー……。ねえ、エックス。アタシ、キミに訊きたいことがあるんだけど」
「まあ、用があるんだろうなとは思ってたけどね。で、何?」
「エックスってさあ……。好きな子はいる?今、恋愛してる?」
「…………」
エックスは空のコップを持って、微動だにせずに固まってしまった。どこか放心したような表情で見つめ返されたので、とりあえずワイもエックスを負けじと見つめてみる。
「…………」
「…………」
「……ワイちゃん」
「何よ」
「……何。好きな男でも出来たの?」
ワイは眉根を寄せて首を傾げた。エックスが言っている言葉の意味が分からなかったのだ。どうして自分に好きな男の人が出来たなんて話になるのか。
「何でそうなるの?」
「あ、じゃあ違うんだ」
「違うに決まってるじゃない。それより質問に答えてよ、エックスこそ好きな子はいないの?」
「別に。いないけど」
「そっか、いないんだ。……残念」
椅子の背もたれに持たれかかって、ワイはまた紅茶を飲んだ。やっぱりこの紅茶は美味しい、それとも人に淹れてもらったからこんなにも美味しいのだろうか?しみじみと紅茶を味わっていたワイは、ふと突き刺さるような視線を感じて顔を上げた。ワイの幼馴染が、相変わらずの仏頂面でこちらを見ている……。
「何?アタシに何かついてる?」
「……いや。ただ、何でオレにそんなことを訊くのかって思っただけ」
「別に何でもないわ。ただ何となく気になっただけよ」
本当のところを言えばそうではなかったのだけれど、それを口にするわけにはいかなかった。手をひらひらと左右に振って、エックスの視線から逃れるように紅茶に視線を落とす。
(ラクツくんの秘密を内緒にするのは、プラチナとの約束だものね)
ワイは偶然にも、プラチナの彼氏であるラクツの秘密を知ってしまった。本当は形だけの恋人なのだということ、そしてラクツが本当に好きなのはファイツであるということ。プラチナはラクツの恋路を応援しているということを知って、ワイはどうしようと思った。ずっとずっとファイツの恋を応援して来たのだ。ファイツがNをどれだけ好きか、ワイはよく知っている。
ファイツがNに想いを告げて幸せになることを、ワイは願っていた。そしてどうやら、ラクツもファイツの幸せを願っているらしいのだ。ファイツに好きな人がいることをちゃんと理解していて、彼女を困らせたくないが為に告白しないのだということを、プラチナの口から聞いてワイは知っていた。だけどそのことを本人に確かめたくなったワイは、プラチナの家にお邪魔した翌日に屋上へと赴いた。心は逸っていたけれど、今度は走らなかった。やっぱり屋上にいたラクツに小声で事実を確かめて、そして彼に溜息をつかれながらも頷かれたことで、迷っていたワイの心は決まった。
(アタシは、2人共応援したい)
ファイツがNを好きなことも、ラクツがファイツを好きなことも、ワイは知っている。恋なんてしたことはないけれど、どちらも想いは本物なのだろうと思う。大いに矛盾しているとも思うけれど、2人共応援したいというのがワイの正直な気持ちなのだ。
”ファイツのことも応援するけど、ラクツくんのことも応援するから”。そうラクツに話したら、溜息混じりに「好きにしてくれ」と言われたから。だからワイは、言われた通りに好きにするつもりでいる。ちなみにプラチナは、どちらかと言えばラクツを応援するつもりのようだ。プラチナの家でメールアドレスを交換したのだけれど、ワイが素直に自分の気持ちを送ったらそう返信されて来たからだ。
(男の人の気持ちを参考までにエックスに聞いてみたかったんだけど、残念だわ)
ワイにとって、身近な男子といえばやはりお隣さんのエックスだった。彼がダメなら、ティエルノかトロバにも訊いてみようかなとワイは思った。
「……何、エックス」
「……別に、何でもない」
今もなおお隣さんの視線をその身に受けているわけだけれど、ワイは特に何も思わなかった。幼い頃からずっと一緒だったのだ、今更じっと見られたところでそれが何だと言うのか。
(それにしても、エックスがクール、ねえ……)
部活が終わって更衣室で着替えている時にまたもやエックスとの関係を聞かれたワイは、ただの幼馴染よと言った。「エックスくんはクールでかっこいい」なんて言われたことがふと甦る。
(ラクツくんがそう言われるのは、まあ何となく理解出来るけど……。エックスがそう言われるのは、ちょっと分からないわね)
ラクツくんはかっこいいとしきりに騒ぐテニス部の仲間達に、彼はもう本命がいるなどとはとても言えず、ワイは適当に話を合わせた。そうしたら「ついにワイもラクツくんのことが気になっちゃったの!?」と詰め寄られて、大いに戸惑ったものだ。確かに気にはなっているのだけれど、彼女達が言う気になるとは意味が違う。ワイは慌てて首を横に振った、実際そんなことはまったくないのだ。ラクツの恋路を勝手に応援しているだけであって、男の人として気になるわけではない。
(ユキは……。やっぱりラクツくんのこと、本気なんだろうなあ……)
前から何となくそうではないかと思っていたけれど、どうも今日の様子からすると、彼女は本気でラクツを好きらしい。けれど、ユキの想いは届かないことをワイは知っている。それを告げられるはずもなく、ワイはユキの「ラクツくんって何でも出来るし、クールだし優しいし、本当にかっこいいよね」という言葉に曖昧に頷いた。ちょっと変な受け答えをしたかと不安になったものの、ユキは特におかしいと思わなかったらしい。頬を赤く染めながら、彼がいかに素敵な男の人かということを語っていた。ユキも、ファイツも、ラクツも、恋をしている。そして誰かの想いが届けば、別の誰かの想いは届かなくなるわけで……。
「はあ……」
「どうしたの?盛大な溜息なんてついて」
「……恋って難しいな、って思って」
「何、さっきから。もしかして、頭でも打ったの?」
その物言いにワイはじろりとエックスを睨んだが、彼は素知らぬ顔で「そんなこと言うなんてワイちゃんらしくない」なんて言った。失礼な、と頬を膨らませる。やっぱりこのお隣さんが”クール”だなんて、どう考えてもおかしい。あまり他人と関わろうとしないのは確かだけれど、それはクールとは程遠い。ただ、面倒事を避けているだけだ。ふと、ワイは思った。このお隣さんだって将来的には恋をするかもしれないし、愛の告白をされるかもしれない。もう高校生なのだ、別にそんなことが起こっても不思議ではない。
(でも…。もしそうなったら……)
エックスに恋人が出来たとしたら、ただの幼馴染でしかない自分が頻繁に家に行くのは良くないことくらいはワイでも分かる。いつも台所に置かれているこの自分専用のマグカップも、知らない誰かの物に取って代わるのだろう。
「…………」
エックスから手に持ったマグカップに視線を移したワイは、中に入っている紅茶を見つめながらそっと溜息をつく。別に、エックスが男の人として好きだというわけではない。けれど自分がここに来れなくなるのは淋しいと、ワイは思った。