school days : 075

熱いのは、きっと
数学のテストが返却される時、数学が大の苦手であるファイツはいつだって緊張してしまう。しかしこの前行った数学の期末テストが今日の4時限目に返却された時、ファイツは普段以上に緊張していた。その心には不安と、そして期待が渦巻いていた。幼馴染に数回も勉強を教えてもらったのだ。普段よりいい点数を取れているとは思うけれど、いったい何点を取ったのだろう?胸をどきどきさせながら自分の席に着いて、そっと答案をひっくり返す。そしてそろりと点数を見て、ファイツは目を見開いた。点数は65点だ。この点数を世の中の人がどう思うかは分からなかったが、少なくともファイツにとってはいい結果だった。大の苦手だった数学で60点台を取れるなんて信じられなかった、多分中学1年生振りなのではないだろうか?
ファイツはそのことを早速2人の親友に話した。サファイアは純粋に良かったと言ってくれた。ワイも良かったねと祝福してくれたけれど、浮かない表情をしていた。ワイの様子がどういうわけか気になったものの、ファイツはどうしたのと尋ねなかった。もしワイが悪い点数を取ってしまったとしたら、彼女の傷を広げることになる。それは嫌だと思ったのだ。
ファイツは、数学のテストの結果を幼馴染に報告しようと思った。ラクツくんのおかげでいい点数を取れたんだよと、どうしてもお礼を言いたかった。メールで簡単に済ませるのではなくて、電話でありがとうと言いたかった。お風呂から上がったファイツは、どきどきと胸を高鳴らせながら自分の部屋に戻った。この時間なら、きっと彼も自宅に戻っているだろうと思ったのだ。しかし、早速幼馴染に電話をしようと携帯に手を伸ばしたものの、ファイツはすぐにボタンを押さなかった。耳に響くくらいに心臓の鼓動がどきどきとうるさくて、どうしても押すのを躊躇ってしまう。これから幼馴染に電話をするのだと思うと、否が応でも緊張してしまう。このままじゃいけないとファイツは思った、早く電話をかけなければと焦った。だけどそう思えば思う程に、胸が苦しくなってしまう。溜息をついてベッドに寝転がったファイツの耳に、ワイの言葉が浮かんだ。数学のテストの答案を見せた後に、自分に対して言ってくれた言葉だ。
この調子なら、ファイツが頑張れば来年はA組に入れるかもねとワイは言ってくれた。ありがとうと返事をしながら、けれどファイツは自分1人では無理かもしれないと思った。1人だけで頑張ったところで、今年の二の舞になるだけのような気がした。誰かに定期的に勉強を見てもらうのが一番いいと、根拠もなくそう思った。だが、誰に見てもらうのがいいのだろう?休み時間に自分の席で頬杖をつきながら、ファイツはぼんやりと考え込んだ。
最初に頭に浮かんだのは、Nの顔だった。だけどそれは多分無理だとファイツは思った。勉強を教えてもらう上に傍にいられるのだ、その結果だけ見れば彼に教えてもらうのはそれは魅力的なことだろう。しかし以前Nに教えてもらった際に、ファイツは見栄を張って分からないところを分かりましたと言ってしまった過去があるのだ。それに、自分の心臓が持たないとも思った。何しろ彼と話すだけで、ファイツはとてつもない緊張感に襲われるのだ。もちろん嬉しいという気持ちの方が強いのだけれど、緊張してしまうのは事実だ。定期的に彼に勉強を見てもらうとなれば間違いなく自分は緊張するわけで、それでは勉強に身が入らなさそうな気がした。そういうわけで、ファイツはNに教えてもらうことを泣く泣く諦めた。他の数学担当の先生に教えてもらうことも考えたけれど、どの先生もピンと来なかった。
N先生に教えてもらうのを諦めたファイツが次に思い浮かべたのは、ワイとサファイアの顔だった。だけど2人が数学が得意ではないことを知っているファイツは、数学を見てもらってもいいと口にするのは止めようと思った。そう口にしたところで断られてしまうに違いない。仮にファイツが言われる立場だったとしても、ごめんねと断っただろう。従姉であるホワイトは自分より数学が得意なのだが、今年は受験生なのだ。流石に自分の都合だけで受験生を巻き込むわけにもいかない。自分の身近にいる人間で数学が得意な人間と言えば、やはり彼しかいないと思った。ファイツの大切な幼馴染である、ラクツだ。ちなみにプラチナに教えてもらうことも考えたのだが、彼女はベルリッツ家の令嬢だ。自主的に勉強をするとなればやっぱり放課後がいい、だけど登下校は車で送迎してもらっていることを思うと、数学を度々教えてもらいたいとプラチナに頼むのは気が引けた。
ラクツくんにお願いしてみようと、ファイツは思った。Aクラスに入りたいから勉強を教えて欲しいと自分が頼める人間は、もう彼しかいないような気がした。けれどラクツのことを考えると、「その人って、ファイツのことが好きなんじゃないの」とワイが言ったことがどうしても頭に浮かんで、何をするにも落ち着かない気分になる。そんな折にワイがラクツに怒鳴ったらしいというニュースを耳にして、ファイツはついにパニックになった。そういえば午前中の休み時間に、ワイは毎回慌ただしく席を外していたような気がする。きっと、どこかの休み時間でラクツのことを怒鳴ったのだろう。ワイがその事実を認めたことで、ファイツの心は罪悪感でいっぱいになった。
この時間ならラクツも帰宅していることだろう。早く彼に電話して謝りたい、そして数学のテストでいい点数が取れたんだよとお礼を言いたい。そうしてから、ラクツに勉強を教えて欲しいと頼んでみよう。ファイツはそう思って、のそのそと起き上がった。ベッドの上に意味もなく正座をして、携帯に手を伸ばしては引っ込める。そんな動作を何回も繰り返した末に、ファイツはようやくラクツに電話をかけることが出来た。彼を困らせてしまったけれど、結局順番は違ってしまったけれど、とにかくラクツに勉強を見て欲しいのだという本題を言うことが出来た。しかも、了承してもらえたのだ。ファイツは嬉しかった、嬉しくて堪らなかった。あまりに嬉しかったから、携帯を持った腕が小刻みに震えた。

『そういえば、数学のテストは返却されたのか?』
「あ、うん。65点だったんだよ!あたしにとってはすっごくいい点数なの!本当にありがとう、ラクツくん!」
『いや、キミが頑張ったからだろう。ボクは少し手伝っただけだ』
「そんなことないよ!本当ならもっと早く言うべきだったんだけど、言うのが遅くなっちゃったね」

ごめんなさいと謝ったファイツの耳に、ラクツの気にするなと言った声が聞こえる。その声色はまったくもって普段通りだ。ファイツはその事実に何故だか酷く安心した。お前じゃなくて、キミと呼ばれたことにも安心した。

(さっきのラクツくん……。どうして”お前”って言ったんだろう……?)

先程の幼馴染の様子は、普段の彼とはまったく違っていた。ラクツと再び話すようになってからそれなりの期間が経つけれど、1回だってお前と呼ばれたことはなかったのに。それなのに先程、ファイツは間違いなく”お前”と呼ばれたのだ。

(あたしが知らないだけで、他の人……。例えばプラチナさんにも言ってるのかな……?それに、プラチナさんのことも呼び捨てにしてるのかな……)

ラクツはプラチナとつき合っているのだから、プラチナが好きなわけなのだから、そう呼んだところで別に不思議はない。それは分かっているのだけれど、ファイツは彼がプラチナのことをそう呼ぶ光景が何故だか上手く想像出来なかった。それだけではなくて、プラチナと呼び捨てにするところも想像出来なかった。

(ラクツくんとプラチナさんが一緒にいるところを、あまり見ないからかなあ……)

ラクツがどちらかといえば1人でいるのが好きであることを、ファイツはよく知っている。だからプラチナがラクツと昼食を一緒に食べない事実に、あまり違和感を抱かなかった。実際にはラクツとプラチナは形だけのカップルなわけなのだけれど、もちろんそんな事実をファイツは知らない。それを知っているのは当人達と、偶然知ってしまったワイだけなのだ。
そんなことより、ファイツにはずっと気にかかることがあった。ラクツに勉強を見て欲しいと頼んだまではいい、それを彼が了承してくれたこともとても嬉しい。だけど、そのラクツはプラチナとつき合っているのだ。勉強を教えてもらうだけとはいえ必然的に2人きりになるわけで、それをプラチナが知ったら彼女はいったいどう思うだろうか?やましいことなんて何もないけれど、どうしてもいい気分はしないのではないだろうか?

「え、えっと……。ラクツくん……」
『何だ?』
「あたしから言い出しておいて、何なんだけど……。プラチナさん、嫌な気分にならないかなあ?」
『プラチナくんが?』

ラクツがつき合っている彼女のことをプラチナ”くん”と呼ぶのを聞いて、ファイツは小さな引っかかりを覚えた。他の人に対する呼称と同じだ。だけど、今は自分と電話をしているからそう呼んだのかもしれない。2人きりの時は、プラチナと呼び捨てにしているのかもしれない。

「だ、だって……。ラクツくんとあたしは幼馴染だけど、2人きりになるわけだし……っ。あ、もちろん変な意味で言ったんじゃないよ?あたしとラクツくんはただの幼馴染なんだから!」

急に恥ずかしくなったファイツは、ごまかすように”ただの幼馴染”という部分を強調して言った。それ以外にも彼女がいるラクツを思っての行動だったのだが、それが逆にラクツの心を抉っている事実にファイツが気付くことはなかった。

『……分かっている。だが、プラチナくんが嫌な気分になることはないだろう』

静かで、それでいて明らかに苦笑が交じっている声だった。何を言っているのかと言外に言われたような気がして、ファイツは更に気恥ずかしくなった。あまり一緒にいないだけのことであって、ラクツとプラチナの間にはしっかりとした信頼関係が築かれていたのだ。

「そ……そうだよね!変なことを言っちゃってごめんね……。でも、プラチナさんにはあたしから言った方がいいかなあ?ラクツくんに勉強を教えてもらうことになったけど、何にもないから安心してねって……。別に隠すこと、ないもんね?」

そう言いながらファイツは、プラチナにラクツと自分が幼馴染の関係であることを打ち明けてしまおうと思った。そう、別に隠すことはないのだ。だって自分とラクツはただの幼馴染でしかないのだから。

『いや……。ボクから言っておく』
「そ、そっか……。うん、ラクツくんから言ってもらった方がいいよね。さっきから、変なことばっか言ってるよね?」

ファイツは声を上擦らせながらそう言った。自分のことなのに、どうして上擦ったのかがよく分からなかった。

「でも、良かった。あたしの所為で万が一プラチナさんと別れるなんてことになったら、大変だもん」
『それは……あり得ないことだ』

即座にそんな答が返って来て、ファイツは目を瞬いた。彼が言った言葉の内容を吟味して、そっと目を細める。小さい頃から、ラクツは女の子達に優しかった。高校生になった今でもそれはきっと変わっていないのだろう。そして、ラクツはポケスペ学園で一番大切な女の子を見つけたのだ。その一番大切な女の子であるプラチナのことを、それは大切にしているに違いないとファイツは思った。

「うん……。そうだよね、プラチナさんが嫌な気分になっちゃうかもだなんて……。あたし、ちょっとお節介なことを言ったよね……」
『気に病むな。ボクがキミに勉強を教えることで、キミと2人きりになることで、プラチナくんが嫌な気分になることはない。むしろ……』

そう言ったきり、ラクツはふと口を噤んだ。そんな幼馴染の様子が気になって、ベッドの縁に腰かけていたファイツは姿勢を正した。

「……むしろ?」
『……プラチナくんは応援してくれるだろうと、ボクは思っている』
「…………」

ファイツはまたもや目を数回瞬いた。先程と同じように彼が言ったことを吟味して、結論を出したファイツは意味もなく頷く。

「そっか……。あたしがもしA組になったら、プラチナさんとは同じクラスになるんだもんね。……あ、ラクツくんとも同じクラスになるね!2人共、本当に頭がいいし。あたしを応援してくれるだなんて、プラチナさんって本当にいい人だね。ね、ラクツくんもそう思わない?」
『……ああ。そうだな』
「……あ!」

ファイツはふと時間が気になって、携帯から耳を離した。現在の時刻は22時、もういい時間だ。

「ご、ごめんねラクツくん!あたし、随分長電話しちゃってた!」
『ファイツくん、ボクは迷惑だなんて思っていない。だから、そんなに謝るな』
「う、うん……。ありがとう、ラクツくん」
『ああ』

おやすみなさいと言って、ファイツは携帯のボタンを押した。もう今日の分の勉強は夕食前に終わっているし、歯磨きも済ませたので後は寝るだけになっている。だからファイツは電気を消して、ベッドに身を横たえた。だけど、どういうわけかファイツは中々眠れなかった。疲れているはずなのに、もう彼との電話は終わったのに、心臓の鼓動が何故かうるさくて。幼馴染の声が、まだ耳に残っているような気がする……。

「顔、熱い……」

頬に手を当てて、そっと呟く。今自分の顔が熱いのは、今の季節が7月だからだ。夏の夜は暑いから、だからきっと顔も熱くなっているだけのことなのだ。

(それ以外に、理由なんてないもん……)

ファイツはそう自分に言い聞かせた。何度も何度も、そう言い聞かせた。