school days : 074
気付かないでいて欲しい
失恋した。ファイツの「ごめんなさい」を聞いた時、ラクツはこう思った。彼女の親友であるワイの名前が出た時に薄々察してはいたけれど、それでも謝られるのは想像以上に辛かった。好きな娘に振り向いてもらえないことが、これ程辛いとは思わなかった。だからラクツは黙っていた。ファイツが電話の向こうで困っているであろうことは簡単に想像出来たけれど、言葉が中々出て来なかったのだ。この想いは最初からあの娘に届かないことはよく分かっていたはずなのに、何故ショックを受けているのだろう。内心で自分をそう嘲りながら、ラクツは謝らないで欲しいと告げた。それから気にすることはないとも言った。普段通りの声色を作るのに、特別意識をしなければならないくらい、今の自分は冷静ではなかった。しかし、そんなことは気になんてしていられなかった。失恋したことで確かに自分の心は酷く痛んでいるものの、それはあの娘も同じだろう。ただでさえ人並み以上に自分を卑下するファイツのことだ。きっと今、あの娘は心を痛めているに違いない。こちらの気持ちを受け入れなかった事実に対して、その必要はないのに「ごめんなさい」を幾度も繰り返す、そんな数秒先の未来が浮かんだ。ファイツが自分自身を必要以上に卑下するのも、謝る必要がないのに謝罪するのも、ラクツにとっては嫌なことだった。
失恋してしまった以上、自分の心はしばらくの間痛むだろう。だが、それをあの娘が気にすることはないのだ。ファイツにはやはり笑っていて欲しいと思うから、だからラクツは「気にすることはない」と告げたのだ。しかし返って来た言葉は「ラクツくんは優し過ぎるよ」などという、予想を裏切るものだった。
少々呆気に取られて、ラクツは電話の向こうの彼女の名を呼んだ。彼女が言った言葉の意図が掴めなくて、名を呼んだ時に語尾が上がった。
”もしかして、自分は大きな誤解をしているのではないか”。そんな考えが、脳裏に浮かんだ。その疑念が確信に変わったのは、ファイツが「あたしの所為でワイちゃんに怒鳴られたから」という言葉を言い終えた瞬間だった。彼女がおそらくは泣いてしまっているであろうこと、そして「どうしてあたしを責めないの」という言葉にも引っかかりを覚えたものの、流石に今回ばかりはそれを言及するより前に自身のことに気を取られた。ワイが言ったこととしてラクツが思い浮かべていたのは、”幼馴染がファイツのことを好きなんじゃないのって言っちゃった”という言葉だった。つまりこちらの気持ちはファイツに知られてしまっているわけで、だからこそ「ごめんなさい」とファイツは言ったのだと思っていた。想いに応えられないこそ彼女は謝ったのだと、そうラクツは思っていた。しかし、どうやらそれは違ったらしい。ファイツは、”自分の所為でワイに怒鳴られた”と思ったから謝ったのだ。大きな思い違いに気付いて、けれどラクツはそれを指摘することはしなかった。そうせずともどの道結果は決まっているのだ。このままファイツに話を合わせようと、ラクツは話を続けた。
しかし、どういうわけかファイツの様子はおかしかった。責めようという気はまったくないのに、何故かファイツは自身を卑下するような発言を繰り返すのだ。彼女の言葉を聞きながら、どうしてそうも自分を卑下するのだろうと思っていた。彼女のそんな言葉なんて聞きたくなかった。そして「あたしなんか」という言葉をファイツが口にした時、ついにラクツの中で何かが爆発した。
あの娘がこれ以上自分を卑下する発言をするのを止めさせようと、ラクツは彼女の名前を呼び捨てで呼んだ。ファイツくんではなくて、”ファイツ”と呼んだ。それから、キミではなく”お前”とも言った。誰かをそう呼ぶのは、ラクツにとっては初めてのことで。やはりファイツという娘は自分にとってどうにも特別な存在なのだという事実を、今更ながらに思い知った。
そう思いながらもそれは口に出さずに、ラクツは別のことを告げた。とにかく自分を卑下するファイツの声をこれ以上聞きたくなくて、そういうことを言うなと口にした。半ば強引に「はい」と言わせた。卑屈なことを言ったのが他の誰かなら、絶対にこんなことを言わせなかった。電話の向こうにいるのは、自分にとって最も大切で。そして誰よりも特別な娘だ。そう再認識したラクツは、ファイツが落ち着くのをただひたすら待った。
『……ラクツ、くん』
ファイツのか細い声が鼓膜を震わせて、ラクツはふと部屋の壁にかかっている時計を見上げた。この娘が「はい」と言ってから、気付けば既に数分が経過していた。暇を潰す為に広げていた数学の問題集は、ファイツからの電話を取ろうと決めた時からずっと机の上に放置していた。彼女の様子が気になって仕方がなくて、この数分間ラクツはずっと椅子に座っていたのだ。
「……何だ?」
『……あの。ほ、本当に……ごめんなさい』
ファイツの”ごめんなさい”を聞いたラクツは思わず眉をひそめた。自分が言ったことが上手く伝わらなかったのかと、内心で息をつく。ラクツがファイツに先程言ったことはどれも本当のことなのに。怒っていないのも、ファイツを嫌いになんてならないのも、自分を卑下するファイツの発言が嫌だということも。そのどれもが紛れもない事実だったのだが、それはどうやら伝わっていなかったらしい。どうすればきちんと伝わるのだろうと口を開いたその時、ファイツの『違うの』という声が耳に届いた。
『あの……。あたしが今言ったのはそういう意味じゃなくてね……。えっと、つまり……!』
「落ち着け、ファイツ。キミにもっと自信を持って欲しいと思ったからああ言っただけで、ボクは別に怒っているわけじゃないんだ。……分かるか?」
『……うん』
「例えどれ程泣いたとしても、ボクはファイツを嫌うことはない。……キミを嫌いになるなんて、絶対にない」
むしろ実際はその真逆なのだが、それをそのまま言うわけにもいかなかった。先程は早合点をしてしまったけれど、こちらの気持ちをファイツが知ってしまっている可能性は否定出来ない。けれどそれでも、決定的な一言を口にするなんてとても出来なかった。
『……ありがとう、ラクツくん』
少しの沈黙の後で聞こえたその声は、やはり震えていた。未だに涙を零しているのかと考えると、ラクツの心臓はどうしても痛んだ。
(やはり、怖がらせたか)
ファイツが自分を卑下するのは、ラクツにとって嫌なことだった。無事に助け出されたとはいえ、ファイツは自分の所為で誘拐されたようなものなのだ。「あたしなんて」とファイツが言った時、ラクツの脳裏には数年前のあの日の出来事が否応なしに蘇った。あの日の自分は「何故そんなに自分を卑下するんだ」と強い口調で幼馴染を責めた。どうしようもなく感じた苛立ちを、こともあろうにファイツ自身にぶつけてしまった。そしてその所為でファイツは1人で帰ることになり、誘拐される羽目になってしまったのだ。もちろん惚れている相手がそんな物言いをするのは単純に聞きたくないというのもあるが、あの日の出来事のことを思い出してしまうから嫌でもあるのだろうと思う。
その嫌なことを聞いてしまった時、ラクツの心は確かに乱された。しかしあの日のような子供ではなくなったラクツは、自身を制御する術をある程度は身に着けていた。あの日とは違って、ファイツに対して声を荒げることはなかった。とはいえ、やはりいい気分ではなかったのは事実だ。「自身を卑下するな」という声は普段より少し低くなってしまったのだが、どうやらファイツを怖がらせてしまったらしい。
「……ファイツくん。ボクが、怖いか?」
静かな声色で、幼馴染に対する呼称も戻して、ラクツはそう尋ねた。当然のことながら姿は見えないのだが、ファイツが困っている様子が目に浮かんだ。この娘を困らせたくないから気持ちを告げないようにしようと決めたのに、これでは本末転倒だ。
『そ、そんなことないよ!……確かに、さっきは怖かったけど……。でも、それはラクツくんが原因じゃないから……!』
携帯越しに、ファイツの声が聞こえる。自分の問いを必死に否定する様が何とも彼女らしくて、ラクツは目を細めた。その声の様子からして、本当にそう思っているのだろう。けれどラクツは、話をそれで終わらせなかった。つい先程礼を述べたファイツの声が震えていたのがどうにも引っかかったのだ。
「だが……。つい先程、キミは泣いていただろう。ボクの物言いに恐怖したのではないのか?」
『う……。……そ、それはね…っ。ラクツくんがあたしを嫌うことは絶対にないって、そう言ってくれたから……。だから、つい嬉しくて……。安心して、気が抜けちゃったのかも』
「……嬉しい?」
『うん。だって……ラクツくんはあたしの大切な大切な、幼馴染……だもん』
「………………」
ラクツは携帯を持ったまま、瞬きもせずに硬直した。今のファイツの言葉は、きっと遠回しな”お断り”だ。直接言われずとも、”あなたの気持ちには応えられません”と告げられたも同然だった。自分が今日失恋するという運命は、どうやら覆せなかったらしい。
(……何を考えているんだ)
今日失恋するも何も、ファイツがこちらの気持ちに振り向くことはないことは分かりきっていたはずなのに。それなのに何を考えているんだと、ラクツは薄く笑った。今のファイツの嬉しいという言葉だって、幼馴染に嫌われなくて良かったという意味以外にあるはずがないのに。
「……そう、だな」
長い沈黙の末に、ラクツは何とかそれだけを返した。どうにか普段通りの声色を保てるようにするのに、相当の神経を使った。
(……幼馴染、か)
少なくとも、自分が彼女に大切な幼馴染と思われていることは確定事項であるらしい。決して恋人にはなり得ないけれど、ただの友人よりは近しい存在だろう。けれどそう理解していても、心臓は酷く痛かった。
『あ、あの……。だからね、これからも幼馴染でいてくれる?』
「……ああ。……分かった」
ラクツはそう返しながら、直接対面していなくて良かったと思った。それに、今が1人で良かったとも思った。今の自分は、それは酷い表情をしていることだろう。ファイツが幼馴染という関係を望むのなら、ラクツとしては頷く他に選択肢はない。けれど幼馴染でいて欲しいと言われても、この気持ちをなかったことにするのは無理だろうと思う。望みがないことは理解しているけれど、それでも自分はこの娘を好きでい続けるのだろうと、そう思う。こうして失恋したことで、思った以上にファイツのことを好きだったことがよく分かった。だけど、それを口にすることは出来なかった。この際告げることを考えなかったわけではないが、これ以上この娘を困らせていったい何の意味があるのかと思うと、どうしても言えなかったのだ。
「キミの言う通り、ボクとキミは幼馴染だ。……これからも、ずっと」
『良かった……』
気付けばすっかり普段の調子を取り戻したらしいファイツが、心底安堵したような声でそう言った。とてもじゃないがラクツの調子は普段通りではなかったけれど、それでも「ああ」と答えた。せっかくファイツが元の調子を取り戻したというのに、余計な心労をかけたくはなかった。
『……あ、あのね。ワイちゃんのことは、本当にごめんね』
「ボクは気にしていない。それに、嫌な思いもしていない。むしろキミにいい友人が出来て、正直安堵している」
ファイツを気遣って言ったのではなくて、これは正真正銘ラクツの本心だった。彼女とはほんの少し会話を交わしただけなのだが、非常に友達想いであることが充分に分かった。ただ、ファイツへの想いを言い当てられたのはまったくの予想外だった。本当に予想だにしなかったから、プラチナだけでなくワイにまで秘密を知られてしまった。おまけに、よりにもよってファイツにまで知られてしまうとは流石に思わなかった。ワイは本当に申し訳なさそうにしていたし、どの道失恋することは最初から分かっていたから別にいいと言ったけれど、怒鳴られたことについては本当に気にしていなかったのだ。
『あ、うん……。でも……あのね、そうじゃなくて……。ワイちゃんが怒鳴ったことじゃ、なくてね……』
「……ファイツくん?」
『あの……。あたし、ワイちゃんに言われちゃったの。その……。ラクツくんが、あたしのことを……す、す、好きなんじゃないかって……っ』
ファイツのその言葉で、ラクツの目は大きく見開かれた。手に持った携帯が滑り落ちて膝に当たったけれど、そんなことはどうでも良かった。思わず額に手を当てて、それは深い溜息をつく。どうやら自分は、またしても思い違いをしていたらしい。先程の「幼馴染でいてくれる?」という言葉には、別に深い意味は込められていなかったのだ。強い脱力感を覚えながら、ラクツは再び携帯を手に取った。
『あ、あの……。ラクツくん?……どうしたの?』
「……いや。驚いただけだ」
溜息混じりにそう言う。またもや早合点をしたのはラクツ自身なのだから、ファイツにとやかく言う資格なんてないと分かってはいる。そうなのだけれど、それにしてもこの展開は流石に予想外だ。「ボクとキミはこれからもずっと幼馴染だ」という言葉を、ラクツはファイツが言ったことを重く受け止めた上で何とか口にしたのに。
『あ!そ、そうだよね……。驚くよね、急にこんなこと言われて……。本当にごめんね……っ』
「いや。ファイツくんが気にすることはない」
『う、うん……。やっぱりワイちゃんの早とちりだよね?ラクツくんがあたしを、なんて……。そんなこと、あるはずないのにね……っ』
「…………」
ラクツは何も答えなかった。釘を刺しに来ているのではなく、心の底からそう思っているような口振りだった。違うと言ってしまえばいい、ファイツのことが好きなのだと、はっきり言ってしまえばいい。頭のどこかで、そんな声がふと聞こえた。幼馴染の関係である男にそれ以上に想われていることに微塵も気付いていない様子で、ファイツは「ワイちゃんにはあたしから言っておくからね」なんて言っている……。
(流石に……これは鈍過ぎだろう)
ラクツは内心でそう呟いた。失恋するどころか、気持ちが文字通りの意味で届いていなかったとは思わなかった。おとなしい割には妙なところで頑固な性格は、高校生になった今でも変わっていないようだ。確かに彼女らしいと言えばそうなのだけれど、これはないとラクツは思った。鈍いにも程がある。ワイに好きだという気持ちが言い当てられた時、自分はそんなにも分かりやすかったのかと思ったけれど、どうやらワイが鋭かっただけのようだ。
『ラクツくん、あのね……』
絶句を否定と解釈したらしいファイツは、おずおずと話しかけて来た。もうすっかり元の調子を取り戻していて、その声には震えは感じられなかった。そう思うと、やはり好きだと告げることは出来なかった。言えば、ファイツは間違いなく困惑するに違いない。
(……それは、嫌だ)
ファイツに気持ちが文字通りの意味で届いていないことを悟った時、確かに脱力感と共に別の気持ちを感じたけれど。だけど、ラクツは言わない方がいいと思った。もしかしたらファイツをまた泣かせることになるかもしれないと思うと、やはり言えなかった。
「……何だ、ファイツくん」
心の葛藤を彼女に勘づかれないようにさらりと口にする。多分、いや絶対に気付かないだろうとは思うけれど、一応念の為だ。
『言うのが遅くなっちゃったけど……。あたし、ラクツくんにお願いがあって電話をしたの』
控えめな、けれどはっきりした声だった。その声の感じで、ラクツはファイツが電話をして来た用件をこれから言うのだと悟った。
『もしかしたら、ラクツくんはすごく嫌な思いをしちゃうかもしれないけど……。それでもどうしても言いたくて、電話したの。もちろん、断ってくれていいんだけど』
「ボクに何の頼みなんだ?」
ファイツの言う”嫌な思い”が何を指すのかは分からなかったけれど、ラクツは話の先を促した。ファイツが深呼吸する音が耳に届く。
『あたし……。来年、どうしてもA組に入りたいの。だから、あたしに勉強を教えて欲しいなって思って……』
「……A組に?」
『あ、あのね……。もちろん、ラクツくんが部活ですごく忙しいことは分かってるよ。だから出来る範囲でいいんだけど……』
ラクツはしばらく、無造作に広げてあった数学の問題集に目をやった。軽く息を吐いてから、訊いていいかと尋ねる。
『う、うん』
「何故、ボクなんだ?」
『え……。あ、あの……っ。それは、この前から教えてもらって、すごく説明が分かりやすいって思ったから……。……そ、それにね……』
「……それに?」
『ラ、ラクツくんの顔がね……。その、浮かんだから……っ』
「…………」
ラクツは、椅子に座ったままの状態で天井を見上げた。無機質な白い色が、何だかやけに眩しいと思った。そして、視線を机の上にゆっくりと戻した。
「分かった。どれだけ力になれるかは分からないが、協力する」
『本当!?ありがとう、ラクツくん!……あたし、頑張るね!』
携帯からそれは嬉しそうなファイツの声が聞こえて来たかは、ラクツは口元を綻ばせた。今、自分の心臓は痛いくらいに激しい鼓動を立てていた。
(ファイツは……。ボクの気持ちには気付かないだろうな)
鈍いにも程があるファイツのことだ。決定的な言葉を口にしない限り、彼女がそれに気付くことはないだろう。どうかそのままでいて欲しい、こちらの気持ちには気付かないでいて欲しい。ラクツはファイツの弾むような声を聞きながら、そう思った。