school days : 073
胸がどきどき
意味もなくベッドの上で正座をしたファイツの心臓は、それはそれは高鳴っていた。握り締めていた手を開いて、携帯を手に取った。そしてボタンを押そうと指を伸ばしては、溜息をついて引っ込める。ファイツはそんな意味もない行動を先程から数回繰り返していた。これではただ時間が無駄に過ぎていくだけだ。既に最初にそうしようと決めた時から数分が経っている……。ファイツは時計を見て、胸の辺りをぎゅうっと押さえた。(どうしてこんなに胸がどきどきするんだろう……?)
そう問いかけてみたけれど、その理由はちゃんと分かっていた。ファイツの幼馴染が自分を好きなのではないかとワイに言われてからというもの、ファイツは何をするにもそわそわと落ち着かない気分で日々を過ごしていたのだ。
(も、もうっ!ワイちゃんがあんなこと言うから……っ!)
何だか顔が熱くなったのを感じて、ファイツは心の中で親友へ文句を言った。ワイが自分のことを大切に思ってくれているのを知っている手前、強くは言えない。だけど、あれはやっぱりワイの勘違いだろうと思う。幼馴染が、自分を。ラクツが自分のことを好き、だなんて。そんなことがあり得るわけがないと、思う。
「ラ、ラクツくんが好きなのは……。プラチナさんなんだから!」
ファイツはそう口に出して何気なく携帯を見て、あることに気が付いた。そこには呼び出し中という画面が表示されていたのだ。どうやら何かの拍子にボタンを押してしまったらしい。
「う、嘘!」
叫んだところで、自分が彼を呼び出したという事実は消えない。ファイツは硬直したまま画面を見つめる他なかった、何しろまだ心の準備は少しも出来ていなかったのだ。通話を切ってしまおうかという考えが頭の中を過ぎったちょうどその時に彼の声が聞こえて、ファイツは携帯を取り落とした。ベッドの上にバウンドした携帯をほんの少しの間だけ見下ろしていたが、やがてそろりと腕を伸ばした。こうなってしまった以上は仕方がないと、覚悟を決めて携帯を耳にそっと押し当てる。
「あ……。えっと、その……。こ、こんばんは……、ラクツくん……っ」
覚悟を決めたのにも拘らず、ファイツは盛大にどもってしまった。いったい何をやっているんだろうと自分自身に心の中で言いつつ、急にごめんねと謝罪する。
「あの……。今、大丈夫?」
『……ああ。構わない』
「……あのね……」
あのねと言ったファイツは、けれど口を閉ざした。さっさと本題に入るのが本当はいいのだろうが、急に呼び出しておいて用件だけ告げるのはどうかと思ったのだ。少しだけ迷った末に、ファイツはまず謝ろうと思った。心に浮かんだのは、親友であるワイの顔だ。
「えっと……。あの、ワイちゃんって分かる?あたしの友達なんだけど……」
彼ならまず間違いなく知っているはずだろうと思うのだけれど、一応念の為に尋ねてみたのだ。案の定返って来た答は肯定の言葉で、ファイツは意味のないことを訊いちゃったと声に出さずに呟いた。
「それで、ワイちゃんが言ったことなんだけどね……」
『…………』
「ラ、ラクツくん……?」
どういうわけか黙ってしまった幼馴染の様子が気になって、ファイツはおそるおそる彼の名前を呼んだ。だけど、彼はそれでも何も言わない。とてつもない不安感に襲われて、ファイツは口を閉ざした。怖いと思った。もう彼が自分を無視をしないことは分かっているのに、何故か怖くて堪らなかった。
(やっぱり……。ラクツくん、怒っちゃった……よね)
自分の親友が自分の幼馴染に怒鳴ったらしいというショッキングなニュースがファイツの耳に飛び込んで来たのは、午後の授業が始まる寸前のことだった。慌ててワイに確かめたら、「ラクツくんを怒鳴ったのは確かよ」とはっきりと言われてしまった。それを聞いたファイツがまず思ったことは、”ごめんなさい”だった。
きっと、ワイは自分の為にラクツに怒鳴ったのだろう。だけどそうだと理解していても、ファイツはワイに対して申し訳ないという気持ちになった。実際に、ファイツは謝った。罪悪感を感じたから、あたしなんかの為にごめんねと頭を下げた。そうしたら「アタシこそごめんね」と返されて、ファイツはわけも分からず目を瞬いた。悩んでいたのは本当だけれど、それでも自分が相談しなければワイがラクツに怒鳴ることはなかったに違いない。それなのに、何故あたしなんかが謝られるのだろうと思った。
その疑問が解けたのは、ファイツが小首を傾げたすぐ後のことだった。決まりが悪そうな表情で、「ファイツとラクツくんとのことがね、他の人にばれるところだったの」とワイが告げて来たからだ。重ねて謝るワイに、ファイツは「いいの」と言った。”ばれるところ”だということは結果的にはばれなかったわけだし、何よりもワイが自分の為に行動してくれたことはちゃんと分かるからだ。
ただ、心に浮かんだ罪悪感は消えてはくれなかった。急に怒鳴られて、幼馴染の彼はきっと嫌な気持ちになったことだろう。それだって、そもそもファイツがラクツ本人にもっと早く確かめれば良かったのだ。1人で悩まずにそうしていたら、きっと回避出来た事態だったに違いない。
「……ごめんなさい、ラクツくん」
電話をしているわけなのだから相手の姿は見えないのだけれど、それでもファイツは頭を下げた。ごめんねじゃなくて、ごめんなさいと言った。そうしなければ、彼に謝罪の気持ちが伝わらないのではないのかと思ったのだ。
(ラクツくん、何も言わない……)
ファイツは目を伏せた、口も噤んだ。相も変わらず、ラクツが何も言って来なかったからだ。ファイツの心は不安で圧し潰されそうになっていた。とにかく謝る以外にどうすればいいのか分からなかった、だけどそう思ってもそれ以上言葉が出て来ない。せっかく、また話せるようになったのに。せっかく、昔みたいに仲のいい幼馴染の関係に戻れると思ったのに。視界がぼやけたけれど、目尻を擦って何とか泣くのを我慢する。
(泣いたって……何にもならない、もん)
そう、泣いたところで事態が好転するわけがないのだ。それよりは、謝る方がずっと建設的に違いない。何とかもう一度謝ってみようとファイツが口を開いたその時、ふと溜息が聞こえた。それは深い溜息だった。思わず、びくりと身を固くする。
『……ファイツくん』
「……はい」
『どうか、謝らないで欲しい。……キミが気にすることはない』
幼馴染の声は静かだった。聞き慣れた、普段通りの声色だった。彼が怒っていないことを察して、けれどファイツは安堵するよりも先に困惑した。二言三言、自分は彼に責められたっておかしくないはずなのに。それなのに、ラクツはまったく非難する言葉を吐かなかった。それどころか、気にすることはないなんて言われてしまった。
「そんな……!ラクツくんは優し過ぎるよ!」
『……ファイツくん?』
「ど……。どうしてあたしを責めないの?だって……ラクツくん、嫌な思いをしたんじゃないの?あたしの所為で、ワイちゃんに怒鳴られたから……っ」
彼に優しい言葉をかけられた所為か、ファイツの瞳からは涙が零れ落ちていた。頭のいい彼のことだ、自分が今泣いてしまっていることも気付かれているだろう。きっと今、ラクツは困っているはずだと思うのだけれど、涙は止まってはくれなかった。ぽたりぽたりと頬を伝って、ベッドに涙の粒が落ちた。
『……嫌な思いなんて、していない』
「ど、どうしてっ……?」
『確かに驚きはしたが、ワイくんが言ったことは正論だからな。ボクがキミを傷付けたことは事実だ。現に今も、キミを泣かせた』
「こ、これは……!えっと、ラクツくんが優し過ぎるからで……っ!」
ファイツは泣き止もうと思った、必死で目を擦った。大切な幼馴染は、すぐ泣く自分に嫌気が差したことだろう。それに今、自分は彼を責めるような発言をしてしまったのではないだろうか?今しがた自分が発した言葉を思い出して、ついにファイツはしゃくりあげた。何でこんなに涙が零れてしまうのか、自分でも分からなかった。
「ち、違うの……っ!ラクツくんを責めてるわけじゃ、なくてねっ……」
『分かっている。落ち着いてくれ、ファイツくん』
ファイツの頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。何が何だか分からなくて、心に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「あたし、あたし……っ。ラクツくんに嫌われたくないよ……っ!」
『ああ。心配するな、ボクはキミを嫌いになんてならないから』
「で、でも!今ので嫌いになったんじゃないの……?こんなすぐ泣く、弱虫の幼馴染のことなんか……っ!」
『……そんなわけがないだろう』
「嘘!あたしなんか、あたしなんか……っ!」
『ファイツ!』
”あたしなんかいなければ良かったのに”と続くはずだった言葉が続くことはなかった。口を中途半端に開けたまま、ファイツは固まった。幼馴染に呼び捨てにされたのはあの本屋での日以来のことだったのだ。
『ファイツ、お前……。また、自分を卑下することを言おうとしただろう』
「え……」
ファイツの呼吸は止まった。自分が考えていることをいとも容易く言い当てられたのもそうだが、何よりも”お前”と呼ばれたことが衝撃だったのだ。自分が憶えている限りはだが、ラクツにそう呼ばれたことは今までに一度たりともなかった。
「あ、あの……」
『自分を卑下する言葉を、口にするな』
普段の彼の声より、少しだけ低い声だった。得も言われぬ雰囲気を感じて、遂にファイツの涙は止まった。
『ボクは、別に怒っているわけじゃない。ただ……お前が自分を卑下する発言をするのが嫌なだけだ』
「…………」
『……返事は?』
「は、はい……」
ファイツは掠れ声でそう答えた。また、彼に”お前”と呼ばれた。ただそれだけのことなのに、ファイツの胸はどくんどくんと高鳴った。電話をしている彼が、幼馴染の彼が、何だか知らない男の人に思えたのだ。ファイツはぎゅうっと心臓を押さえた、どうしようもなく胸がどきどきした。