school days : 071
彼の秘密
授業の終わりを知らせるベルが鳴り終わるや否や、ワイはB組の教室から飛び出した。屋上を目指して一目散に駆け出す。「こら、ワイ!廊下は走らない!」
今自分は廊下を猛ダッシュしているわけなのだから、教師からの叱責が飛んで来るのは至極当たり前のことだった。だけど、ワイは振り返ることはしなかった。振り返るくらいなら、目的地を目指して進んだ方がずっといい。
「ごめんなさい、アロエ先生!」
毎日のHRで嫌と言う程聞いている声だ、誰が注意をして来たのかなんてわざわざ振り返らなくても分かる。アロエは怒ると怖い上にお説教がとても長いのだ。それを身を持って知っているワイは、速度を落として屋上までの道を急いだ。誰が見ても早歩きだと分かる速度だ、これなら他の教師に見られても叱られることはないに違いない。あのセンリにだって怒られることはない……と、思う。とにもかくにもワイは急いだ、何しろ時間があまりないのだ。次のワイ達の授業は家庭科で、担当教員はもちろんアロエだ。万が一遅れでもしたら、どっさりと課題を出されるに違いない。
息を切らしながら、ワイは屋上へ上がる為の階段の前で一度立ち止まった。今しがた注意されたワイはきょろきょろと周りを見回したが、幸いなことに教師の姿は見当たらなかった。流石にここまで来れば教師に見つかることはないだろうと、階段を数段飛ばしで遠慮なく駆け上がる。そしてその勢いのままに、音を立てて扉を押し開いた。
(……いた!)
そこに、ワイが捜していた人物がいた。前の休み時間にプラチナが教えてくれた通り、”彼”が手すりに寄りかかっているのが見える。それは急いでいたワイはここに来て息苦しさを大いに感じながら、しかしそれでもその人物の背中を鋭い目付きで睨みつけた。屋上に勢いよく飛び込んで来るなんていう派手な登場の仕方をした為か、他の何人かの視線をその身に受けていることをぼんやりと感じ取る。だけど、肝心の彼はこちらを振り向きもしなかった。
(……いい度胸じゃない!)
こめかみに青筋を浮かべながら、ワイは心中で叫んだ。頭に血が上っていくのが分かる。彼のすぐ近くまでずんずんと大股で歩いて、大きく息を吸った。
「ラクツくん!」
いくら何でも、名前を呼ばれれば振り向くだろう。ワイの予想通りにゆっくりと振り返ったラクツは、眉間に皺を寄せた表情をしていた。片手に本を持ったまま、無言でこちらを見つめている。彼は自分の姿を認めても何も言わなかったのだが、それも当然のことかもしれないとワイは思った。何しろ、自分は彼と親しくも何ともないのだから。むしろ、まともに話すのはこれが初めてと言ってもいい。
「アタシは、ワイよ。ワイ・ナ・ガーベナって言うの」
ほぼほぼ初対面と言っていい相手だ、流石に自己紹介くらいは必要だろう。ワイは息切れを起こしながらも名を名乗った。
「……そうか。それで、キミはボクに何の用だ?」
ワイは、眉間に皺を寄せたままのラクツの顔を険しい顔で見つめた。今の自分の眉間にも、負けず劣らず皺が寄っていることだろう。見つめるというよりは睨みつけていると言った方が正しいのだろうけれど、ワイは気にもしなかった。大して関わりのない人間にどう思われようとどうだっていい。そんなことより自分が目の前の彼にきちんと言いたいことが言えるかどうかの方が、ワイにとっては余程重要だった。
言いたいことを声に出した後で話の内容を考えるタイプであるワイは、しかし今は息を乱している所為で言葉がいつものようにすぐに出て来なかった。つまりワイは今呼吸を繰り返すだけで黙っているわけなのだが、ラクツは何も言わなかった。こちらの息が整うまで彼がわざわざ待っていてくれているのだということは、流石にワイにも理解出来た。ラクツくんはすごく優しい人なんだよと何度も告げた、ファイツの顔が脳裏に蘇る。
(何よ!アタシは認めないわ、ファイツはこの人に騙されてるのよ!)
だってそうじゃない、とワイは心の中で文句を言った。ファイツのことを傷付けておいて、ファイツのことを苦しめておいて、何が”すごく優しい”のか。同じテニス部の仲間であるユキを始め、この人は女子にかなりの人気があるらしいのだけれど、ワイは彼女達の心理がまったく理解出来なかった。本当に微塵も理解出来なかった。確かにユキ達の言う通りラクツはクールなのだろうが、優しいなんて言葉が彼に似合うとは思えない。未だに眉間に皺を寄せているラクツに張り合うかのように、ぐっと眉間に皺を寄せる。ようやく息が整ったワイは、やっと言えるわと思いながら口を開いた。
「アタシはファイツの友達……。いいえ、親友なの」
”親友”という言葉を強調して言ったワイは、何か反応を見せやしないかとラクツの様子を観察した。普段から冷静であるとは言いがたいワイだが、それでも普通の状態であったとしたら、ラクツが一瞬見せた反応に気付くことが出来たかもしれない。”ファイツ”の名前を聞いたラクツの目付きはほんの一瞬だけ優しくなった。この場にもしプラチナがいたならば、つき合いがそれなりに長い故に彼の変化に気付けただろう。けれど頭に血が上っていたワイは、結局それに気付くことはなかった。
(何なのよ!澄ました顔なんかしちゃって!!)
この人とファイツが幼馴染だなんていう衝撃の事実を知っても、ワイはすんなり受け入れられなかった。だから口を開けたり閉じたりを繰り返しているサファイアに代わって、『ファイツってラクツくんのことが苦手なんじゃなかったの?』と、目を丸くしながら尋ねたのだ。それに対して、あの子はおどおどとつっかえながらも『今はもう大丈夫だから』と返して来た。『本当に気にしてないんだよ』だなんてファイツは何度も言っていたけれど、ワイはどうしても納得がいかなかった。だって、ワイは目の前でファイツが泣き出しそうになる姿を見たのだ。もしかしたら、1人の時に泣いてしまったのかもしれない。幼馴染に無視された事実に苦しんで、さめざめと涙を零したのかもしれない。
ラクツという人は、この先もファイツを苦しめるかもしれない。そう思うと、ワイはいても立ってもいられなくなった。ワイがラクツに直接何かをされたわけではないのだが、それでも彼を赦せなかった。言いたいことがなかなか言えないあの子に代わって、ワイが一言物申してやろうと思ったのだ。
「キミって、あの子の幼馴染なんだって?」
あまりここに長居するわけにもいかないワイは、本題に入るべく単刀直入に言った。元々回りくどい言い方をするのは苦手なのだ。
「…………」
だけどラクツはすぐに答えなかった。頷くことも否定することもせずに、どういうわけか辺りを見回している。その対応に、ワイの心にはますますイライラが募った。何も難しいことを言ったわけではない、答えるにしても一言で済むはずなのに。それなのに辺りを気にするなんて、いったいどんな神経をしているのだろう?
「……ワイくん」
「……何よ」
「その話は誰から聞いたんだ?」
ようやく口を開いたラクツが発したのは、ワイの予想を裏切る言葉だった。文句を言ってやろうとワイはラクツを見て、思わず開きかけた口を閉じた。相変わらず眉間に深い皺を寄せていたものの、ラクツはそれは真剣な表情をしていたのだ。
(な……。何なのよ、もう!)
気圧されてしまったワイは、心の中でぶつくさと文句を言った。思い切りしかめっ面をしてやったが、ラクツが言葉の続きを発することはなかった。どうやらこちらが質問に答えるまで、彼は口を開く気はないらしい。
「……ファイツ本人から聞いたのよ」
別に彼とは争っているわけではないのだが、ワイは何となく敗北感を感じていた。だけどいたずらに時間を消費するわけにもいかない。非常に腹立たしかったが、渋々ラクツの問いに答える。
「そうか。……ファイツくんがそう言ったのか」
淡々とした声色でそれだけを言ったラクツは、再び口を閉じた。まるで、自分とは話をする気がないかのような態度だとワイは思った。思い切り拳を握り締める、ワイの我慢はもう限界だった。
「ちょっと!そこで黙らないでよ、アタシはキミに文句を言いに来たの!」
「……文句?」
「そうよ!キミの所為でファイツはすごく苦しんだんだからね!ファイツがもう気にしてなくても、アタシはキミが赦せないの!」
「…………」
「何よ、反論があるなら言ってみなさいよ!」
「いや……。何もない。ボクがファイツくんを傷付けたのは紛れもない事実だ。それに対して口を挟む権利があるとは思えない」
静かな物言いだった。ラクツの眉間には相変わらず皺が寄っていたけれど、その場凌ぎで言ったようにも思えなかった。
「ファイツくんには、本当にすまないことをしたと思っている」
ワイは何も言わずにラクツを見つめた。今告げられた言葉に嘘はないと、根拠もなくそう思った。彼は、ファイツに対して本当にすまないと思っているのだろう。
「…………」
気が付けば、あれ程血が上っていた頭には冷静さが戻って来ていた。だからだろうか、ワイは不意にファイツのお願いを思い出した。ラクツと幼馴染であることは3人だけの秘密にして欲しいと言われたのに、自分は人目を憚らず思い切り大声を出していたのだ。ワイはさあっと顔を青ざめさせて、慌てて周りを見回した。
(あれ……?誰もいない……)
いつの間にか、この場には自分とラクツの2人だけとなっていた。その事実を知って安堵したワイは、ラクツが先程辺りを見回した理由を悟って口元に手をやった。彼はおそらく、自分達の話が第三者に聞かれてしまうことを気にしていたのだろう。
「……あの……。ラクツくん」
すっかりいつもの調子を取り戻したワイは、彼の名を呼んだ。声のトーンが明らかに変わった自分を訝しげに見るラクツに対して、思い切り頭を下げる。
「ごめんなさい!アタシ、キミのことを誤解してたわ!」
「……ワイくん?」
「アタシ……。さっき辺りを気にしたラクツくんを見て、すごくイライラしたの。人の話を真剣に聞かない人なのかって思って……。つい怒鳴っちゃったけど、本当にごめんなさい!キミは、ファイツのことを気にしてくれてたんでしょう?……違う?」
「ワイくん、頭を上げてくれ」
そう言われて、ワイはそろりと顔を上げた。ラクツと思い切り視線がぶつかる。
「確かに、ワイくんの言う通りだ。……ファイツくんは過去にいじめを受けていてな。その所為か、あの娘は人の目を非常に気にする」
「……あ」
何故ファイツは人の目をあれ程気にするのかと、ワイは前々から不思議に思っていた。もっと堂々とすればいいのにと、本人に面と向かって言ったこともある。そんな思いやりのない自分が、ワイは今更ながらに恥ずかしくなった。
「人の口には戸が立てられないと言うだろう?ファイツくんを散々傷付けたボクが言えた義理ではないことは重々承知しているが、あまり心労をかけたくないんだ。……まあ幸い、その心配は杞憂だったが」
「ご……。ごめんなさい……」
「謝るのなら、ボクではなくファイツくんに言ってくれ。それと……ボクとファイツくんの関係のことは、他言無用で頼む」
「……うん。アタシの他にはサファイアしか知らないわ。サファイアなら大丈夫だとは思うけど、念を押しておくから」
「ああ。そうしてもらえると、助かる」
そう言ったラクツは、目元を柔らかく細めた。その表情を見たワイは、ファイツが何度も告げた”ラクツくんは優しい”という言葉を思い出した。今ならあの子の言葉が納得出来る。彼が女の子に人気がある理由が、ほんの少しだけ分かったような気がした。眉間に皺こそ寄せているけれど、ラクツは優しい人なのだろうとワイは思った。ファイツを無視したことだって、もしかしたら何か深い理由があるのかもしれないと思った。それなのに彼を怒鳴り散らした自分が恥ずかしかった。
「……それじゃあ、アタシはもう行くわ。次は家庭科なのよ」
「そうか。時間を取らせてすまなかったな」
「ううん、アタシこそごめんね。……それじゃあね、ラクツくん!」
ここへ来た時とは真逆の清々しい気持ちになりながら、ワイはラクツに手を振って歩き出した。ラクツとこうして話せて良かったと、強く思った。もしかしたら、彼とはいい友人になれるかもしれない。
「……あ」
ドアノブに手をかけたちょうどその時、ワイはあることを思い出した。時間は気になるけれど、急げばギリギリ間に合うだろう。心の中に浮かんだことがどうしても気になって仕方がなかったワイは、くるりと振り向いた。
「ラクツくん、ちょっといい?」
「何だ?」
「アタシ……。キミにもう1つ謝らなきゃいけないことがあったの。それを今思い出したから言っておきたくて」
こちらを見たラクツに対して、ワイは手を合わせながら言った。ファイツを気遣う姿を見せられたのだ、もう彼を見ても顰め面をしようなんて気は起こらなかった。
「ごめんね、あの子の幼馴染の話は前から聞いてたんだけど……。昨日、その人がファイツのことを好きなんじゃないかって言っちゃったのよ。まさか、ファイツの幼馴染がラクツくんだなんて思いもしなかったから」
ラクツがプラチナとつき合っていることは当然ワイも知っていた。こうして少し話しただけだけれど、ワイはラクツが二股をかけるような男だとはとても思えなかった。つまり、あれはワイの早とちりだったのだ。本当にごめんなさいと重ねて謝ろうとして、ラクツの顔を見たワイは気付いた。ラクツの顔には、確かな赤みが差していたのだ。
「…………」
ラクツの視線は明らかに自分から逸れていることにも気付いて、ワイは「嘘」と呟いてその場に立ち尽くした。ラクツのその反応でワイは、自分が何となく言ったことが早とちりでも何でもなかった事実を知った。