school days : 067

お嬢様の悩み事
「最近のお嬢様は、楽しそうでいらっしゃいますね」
「……はい?」

パカにそう言われて、後部座席に背筋を伸ばして座っていたプラチナは目を瞬いた。運転手とボディガードを兼任しているパカは、そのまま言葉を続ける。

「ウージは”お嬢様は最近楽しそうだ”と話しておりましたが、私もそう思っております」
「……ええと」

プラチナは正面を、つまりはパカの後頭部を見つめながら言い淀んだ。パカとウージは、登下校するプラチナの為に交代で車を運転してくれる。昨日はウージが運転手であったわけなのだが、彼とは普通の話をしただけだった。話の内容も、今日の授業ではこんな問題を解いたなんていう何でもないものだった。それなのに楽しそうだと言われるなんて、思ってもみなかったのだ。いや、実際はまったくその通りなのだけれど。

「……それ程表情に出ていましたか?」
「ええ。ですが、声を聞いただけでもよく分かります」
「そう、ですか……」

パカは今車を運転している為、当然こちらに振り向くことはしなかった。バックミラーからも彼の表情は見えなかったが、プラチナには何となく彼が笑っているように思えた。悪い気はしなかったのだけれど、表情に出ていたことが少しだけ気恥ずかしくて。プラチナは思わずコホンと軽い咳払いをした。

「お嬢様、まもなく到着します。お疲れ様でした」

ありがたいことに今の咳払いに関して何も言わなかったパカは、いつもの言葉を投げかける。ウージもそうだが、目的地に着く度にこちらを労わる言葉をくれるのだ。運転しているのはパカで、プラチナはただ座っているだけなのに。

(私は……本当に恵まれています)

家というよりは最早屋敷と言ってもいい自宅の敷地内に少し入ったところで、車がゆっくりと速度を落とす。完全に止まったことを確認して、プラチナは隣に置いていた鞄をしっかりと掴んだ。地面に足をつける前に、礼を言うのも忘れなかった。
プラチナが素直に礼を言えるようになったのは、ポケスペ学園に通い始めてからだった。お礼を言うなんて今では当たり前のことなのだけれど、以前の自分はその当たり前のことすらきちんと出来なくて、つまらない意地を張ってばかりだった。本当に、以前の自分は傲慢でしかなかったと思う。何かをしてもらったら礼を言う、そんな当然のことが出来ていなかったのだ。あれでは友人が出来なくて当たり前だ。
自分を下ろした車は、しかし今日は動くことはなかった。普段はプラチナが車から充分な距離を取ったのを確認してから動くのだが、その気配すらない。何故でしょうかと考えたプラチナは、頭の中にあるカレンダーと今日の予定を照らし合わせて程なく納得した。今日は母親のヤナセ・ベルリッツが出かける日なのだ。パカとウージはプラチナ専属の運転手ではないので、母親を送る為に待機しているのだろう。
そう結論付けたプラチナがゆっくりと前に歩き出すと、住み込みで働くメイド達が深々と礼をする。10人以上が並んでいるのだが、マナーを叩きこまれているだけあって完璧な礼だった。

「お帰りなさいませ、プラチナお嬢様」

いつものようにずらっと並んだメイド達に帰りましたと告げて、プラチナは家の中へと入った。すると、玄関に立っていた老執事が大袈裟なくらいの礼をする。これも、いつも通りだった。

「お帰りなさいませ、プラチナお嬢様!」
「ただいま帰りました、セバスチャン」
「今日は何になさいますか?」

長い間ベルリッツ家に仕えているセバスチャンは、プラチナが帰宅する時間に合わせてお茶の用意をしてくれるのだ。今日は最高級の緑茶も用意しておりますがと言われて、プラチナは少しだけ迷った。普段は紅茶ばかり飲んでいるのだが、たまには緑茶もいいかもしれない。

「……それでは、今日は緑茶で」
「畏まりました。少々お待ち下さいませ、部屋までお持ちします」

きっちりと礼をした後に去って行ったセバスチャンの後ろ姿を一瞥してから、プラチナは自室へと歩を進める。ベルリッツ家は敷地もそうだが、内部もかなり広いのだ。当然自室までの距離もそれなりにあるわけで、贅沢な悩みとはいえ疲れている時はそれなりに辛いものがある。特に今日は、体育でマラソンを行った為に疲れていた。頭を使うことなら数時間でも問題ないが、肉体労働は短時間でも酷く疲れてしまう。早く部屋で休みたいと思いながら、しかしプラチナは背筋を伸ばして歩いた。例えどんなに急いでいたとしても、ここでは走ることが出来ない。そんなことが許されるはずがないのだ。

「お帰りなさいませ、プラチナお嬢様」

途中ですれ違った使用人達は、その場で立ち止まって深々と礼をする。これも、まったくいつも通りだった。彼らに挨拶を返すのを続けるうちに、プラチナはようやく自室へとたどり着いた。ドアを静かに開けて、音を立てないようにそっと閉める。装飾が施された椅子に向かって一目散に歩いて、そこに音を立てて座った。誰かがいれば絶対に出来ない行動なのだけれど、今は誰の目もないわけで。だからこその行動だった。椅子のすぐ近くに置いてある勉強用のデスクに腕を伸ばして突っ伏して、深い溜息をつく。

「私は、どうすればいいのでしょうか……」

ここ最近、プラチナはワイ・サファイア・ファイツと昼食を共に出来たことが嬉しかった。だけど嬉しいと思うのと同じくらい、あることで頭を悩ませていた。とはいえプラチナ自身はその悩みの当事者ではない。当事者は自分の友人、つまりはラクツのことだった。ラクツが叶わない想いを幼馴染に抱いているらしいことで、プラチナはずっと悩んでいたのだ。
思わずどうすればいいのかと自問したけれど、既にその答は出ている。プラチナは勝手に悩んでいるだけなのだ。一番辛いのはきっと、片想いをしているラクツであるはずなのに。自分が出来ることと言えば1つだけだ。即ち静観する以外に自分に出来ることはない、そんなことは分かっている。だけどどうしても、唇からは深い溜息が出てしまう。大切な友人の為に、他に出来ることはないものかと思ってしまう。目を伏せたプラチナの耳に、規則正しいノックの音が響いた。

「お待たせ致しました、プラチナお嬢様。お茶とお菓子をお持ちしました」

予想通り、セバスチャンの声だった。こちらが何か言わない限りは彼が絶対に中に入ることはない、それは長いつき合いで充分に理解している。だけどプラチナはのろのろと椅子から離れて、今度はソファーに腰を下ろした。すっと背筋を伸ばして、身体をドアの方向に向ける。ティータイムは、いつもこのソファーに座って過ごすのだ。

「……どうぞ」

失礼しますと言ってから、セバスチャンが静かに礼をして自室に入って来た。手に押しているワゴンに乗っているのは緑茶が入っているであろう急須と湯呑み、そして緑茶に合う和菓子だ。

「こちらのお菓子は老舗の和菓子店から取り寄せたものでございます」
「……ありがとう」

眼前に運ばれて来たポットをぼんやりと見つめながら、プラチナはそう口にした。セバスチャンが急須から緑茶を湯呑みに注ぐ様を何も言わずに眺める。

「もしや……。何かありましたので、お嬢様?」
「……え?」
「悩み事があるのでしたら、このセバスチャンめにお話しくだされ!必ずや、お嬢様の力になってみせますぞ!」
「…………」

そう意気込んだセバスチャンの顔を見つめた後で、プラチナはゆっくりと首を横に振った。彼の気持ちはありがたいのだが、悩んでいることの詳細は話せなかった。いくら友人でしかないとはいえ、ラクツは男子生徒なのだ。セバスチャンに彼のことを話したら、当然父親にも話が行くだろう。そうなったら、話が大事になりかねない。

「大丈夫です、大したことではありません。今日の体育でのマラソンで、少し疲れていただけですから」

重ねてそう言うと、セバスチャンは頷いた。何も言わずに頷いてくれたことが、今のプラチナにはありがたかった。

「そうですか。ですが、どうか憶えておいてくだされ。このセバスチャンめは、いつ如何なる場合でもお嬢様の味方であります故」
「ええ。……ありがとう、セバスチャン」

それではごゆっくりお寛ぎ下さいと言い残して、セバスチャンはプラチナの部屋を後にした。広い部屋に1人残されたプラチナは、セバスチャンが用意してくれた和菓子を手に取った。食べるのがもったいないくらい綺麗な和菓子だった。

「そうでした……」

口元に持って行った和菓子をお皿に戻して、プラチナは静かに立った。デスクの側面に備えつけられているフックにかかった鞄から、ラッピングに入った焼き菓子を取り出す。これは、ダイヤモンドからもらったものだ。プラチナは今日の帰り際に会ったダイヤモンドに『何かあったの、お嬢様?』と尋ねられたのだ。今のセバスチャンにも言われたように、表情に出ていたのだろう。きっと、ダイヤモンドもプラチナが悩んでいることを知った上で訊いてくれた。プラチナは詳細を話すことは出来なくて、だけどどうすることも出来ずにただ黙っていた。そうしたら、ダイヤモンドは『良かったら食べて』と言って焼き菓子をくれたのだ。甘い物は疲れた時にいいんだよと言ってくれたダイヤモンドの優しさで、プラチナは申し訳ないと思った。だけど同時に、嬉しいとも思った。

「ありがとうございます、ダイヤモンドさん……」

そう呟いたプラチナの目に、ふと携帯が留まった。メールが届いたことを知らせるランプが光っていたのだ。携帯と焼き菓子を手に持って、再びソファーに腰を落とす。携帯を開いてメールの差出人を確認したプラチナは、まあと声を漏らした。

「ムーンさんからなんて、随分と久し振りです……!」

プラチナの2つ歳下であるムーンは、小さい頃からの知り合いだった。自分と同じ令嬢であるリーリエの友人ということでムーンと知り合ったのだけれど、彼女の夢が変わっていなければ今も薬剤師を目指しているのだろうか。とにかく本文を読まなければとメールの通知を開いて、プラチナはまたも声を上げた。

(ムーンさんがポケスペ学園を受験するなんて……!何て嬉しい報せなのでしょう!)

4月からこのヒオウギ町に引っ越して来ることと、ポケスペ学園を受験する旨がムーンからのメールには書かれていた。最後の方に書かれたプラチナさんは元気にしていますかという文を見つめたまま、プラチナは身動ぎもせずに固まった。

(ムーンさんなら相談出来るでしょうか……?)

ムーンは、このヒオウギ町から遠く離れた地域に住んでいる。当然ラクツのことなど知らないはずだ。彼女なら、先入観に捕らわれずにいいアドバイスをくれるかもしれない……。

「…………」

かいつまんで話すとはいえ、ラクツの悩みを他人に話すことに罪悪感がないわけではなかった。だけど自分ではもうどうしようもないとも思ったプラチナは、意を決して携帯を握った。個人名は出さずに自分の頭を悩ませていることを書き連ねて、送信ボタンを押した。心臓をどきどきさせながら、プラチナはセバスチャンが淹れてくれたお茶を飲んだ。食べようとしていた和菓子を口の中に入れて、お茶をまたひと口飲む。そうしてから、ダイヤモンドが焼いてくれた焼き菓子を咀嚼した。

「どれも、本当に美味しい……」

お茶も、和菓子も、焼き菓子も。そのどれもが、紛れもなく自分の為に用意されたもので。本当に自分は恵まれていると、プラチナは改めて思った。