school days : 065

とけたこおり
受験の為に遅くまで勉強しているであろうホワイトに迷惑はかけられない。そう思ったファイツは、音を立てないように自分の部屋の扉をそっと閉める。そして、ベッドに仰向けに寝転がった。お風呂から出た直後の所為か、身体がポカポカとして温かかった。

(今日は、疲れたな……)

幼馴染の家で数学を教わってから数時間が経ったはずなのに、妙に頭が重かった。だからもう寝てしまおうと早めにベッドに寝転んだのだけれど、どうしてか中々寝つけない。それでもしばらくは目を瞑っていたファイツは、やがてゆっくりと目を開けた。

「うう……。どうしても眠れないよ……」

今すぐに眠ることを諦めたファイツは、そう言葉を漏らして何もない天井を見つめた。すると自然に幼馴染の顔が浮かんで来て、ファイツは微笑んだ。

(ラクツくんの家、少しも変わってなかったな……)

彼の家の内部は、ファイツの記憶とあまり違っていなかったように思う。それが懐かしくて、つい家の中を見回してしまった。けれどそんな自分を、ラクツはまったく責めなかった。それどころか、温かいミルクティーまで淹れてくれた。小学生の頃、彼の家にお邪魔する度に飲んでいた、ファイツが大好きだったあのミルクティーだ。あのミルクティーがまた飲めるなんて思わなくて、ファイツはついついはしゃいでしまった。そうしたらその様子をじっと彼に見られて、彼がわずかに目を細めて。口にこそしなかったけれど、きっと子供っぽいと思われたに違いない。高校生にもなってミルクティーではしゃぐなんて、今思い出しても恥ずかしい。感じた恥ずかしさをごまかすように、ファイツはごろんと寝返りを打った。そして横を向いた体勢のまま、ぽつりと呟く。

「あたし……。ラクツくんの家にお邪魔したんだよね……」

自分だけしかいない所為だろうか、その言葉は耳にやけに大きく聞こえた。彼のことが怖くて仕方なかった頃を思うと、本当に信じられなかった。だけど、それは紛れもない事実なのだ。そしてそれは、ファイツがあの日ラクツに対して”無視をされたくない”という思いをぶつけた故のことでもあるのだ。そう思うと、勇気を出して良かったと思う。数え切れないくらい思ったけれど、やっぱりどうしてもそう思ってしまう。もう1つ、どうしてもそう思ってしまうといえば……。

「やっぱり…。ラクツくんってすごく優しい、よね…」

困っていた自分を見かねてのことだろうか、彼の方から”数学を教えようか”と申し出てくれて。それだけでもありがたいのに、出来ることなら早めがいいと告げた自分の言葉に分かったと頷いてくれて。おまけに彼の家の場所を憶えていないと打ち明けた自分の為に、道案内までしてくれて。そして極めつきが、あのミルクティーだ。砂糖と牛乳が多めに入ったあのミルクティーは、明らかにファイツの好みに合わせてくれたのだろう。自分がラクツの好みのクッキーのレシピを憶えているのと同じで、彼もまた自分の好みをしっかりと記憶していたということだろうか。

(そうだったら、嬉しいな……)

それはとても些細なことだけれど、だけどすごく嬉しかった。何しろ自分達は、少し前までは敬遠だったのだ。ファイツは彼が怖くて仕方がなかったし、彼も自分に対して凍てつくような視線を向けていた。それが、今の彼からは微塵も感じられない。そして同時に、ファイツは彼を見ても怖いと思わなくなっていた。元に戻ったといえばそれまでなのだが、だけどそれがとても嬉しい。何だか小学生の頃に戻ったような気さえ覚えてしまう。あの頃も、ファイツはラクツに苦手な算数をよく教えてもらっていたのだ。

「ラクツくんの説明、すごく分かりやすかったな……」

人に教え慣れているのだろう、今日の彼の説明は要点がまとまっていてとても分かりやすかった。それに加えて幼馴染が相手だということが大きいのか、ファイツも自分が分からないところを遠慮なく訊くことが出来た。そのおかげで1時間程教わっただけなのにも拘らず、大分理解度が増したとファイツは思っていた。それもこれも、全て彼のおかげなのだ。しかも、ラクツは……。

「…………」

ファイツは枕元にある携帯にそろそろと手を伸ばした。アドレス帳の画面を開くと、そこには確かに自分の幼馴染の連絡先が入っていた。分からないところが出来たらまた教えるからと言って、ラクツは帰る間際に自身の連絡先を教えてくれた。しかも、教科は何でもいいとまで言ってくれたのだ。

「……やっぱり、ラクツくんに送ろう」

携帯の画面をぼんやりと見つめていたファイツは、身体を起こしてベッドの上で正座をした。そして、悩みながらもボタンをぽちぽちと押していく。まずは今日のお礼と、説明がすごく分かりやすくて助かったことと、それからまた教えて欲しいということと……。最低2回は打った文面を読み返して、ファイツは送信ボタンを押した。何度もありがとうと口で直接告げたけれど、せっかく連絡先を教えてもらったのだ。どうせなら、メールでもお礼を言いたかった。この時間帯なら遅過ぎるとも思えないし、文面にもおかしいところは見当たらなかった。だから送っても問題ないよねと自分に言い聞かせて、ファイツは携帯を枕元に戻そうとした。

「ひゃあっ!」

まさに置こうとしたその瞬間に手の中の携帯が振動して、驚いたファイツは思わず声を上げる。ホワイトに大声を出してごめんなさいと胸中で謝ってから、閉じたばかりの携帯を再び開いた。思った通り、画面には新着メールが1通あるとの通知が表示されていた。

「ラクツくんからだ……」

多分、驚いた所為なのだろう。胸がどきどきと高鳴っていたけれど、ファイツは構わずにボタンを押した。開かれたメールの文面を読んで、そっと微笑む。ファイツを労う内容と、無理はしないで欲しいという文が添えられていたのだ。無理をして睡眠不足になったことのあるファイツは苦笑した。もう一度彼からのメールを読み返してから、今度こそ携帯を元の場所に戻した。途端に眠くなって来て、ファイツは目を擦った。お風呂上りだったから寝つけなかっただけで、やはり頭は疲れているのだろう。
もう眠ってしまおうと目を瞑ったファイツは知らない。ラクツは、人に勉強を教えることは滅多にしない。どうしても教えて欲しいのだと頼まれても、大抵は理由をつけて断ってしまうのだ。そんな彼の方から「勉強を教えようか」と言った相手は、ファイツ自身しかいない。ファイツだからこそ連絡先も教えたし自室にあげたわけだけれど、それをファイツ本人は知らなかった。
ラクツに特別扱いをされている、それどころか幼馴染以上の感情を抱かれているファイツは、しかしそのことにまるで気付いていなかった。