school days : 064
境界線
良ければ数学を教えようかとファイツに対して口にしたものの、ラクツは正直なところ首を横に振られるかと思っていた。申し訳なさそうな素振りを見せながらも、大丈夫だよと断られるかと思っていたのだ。彼女はあくまで参考書を買いに来ただけなのだ。それなのに、教えようかだなんて言ってしまった。出過ぎた発言をしたかもしれないと、ラクツは内心で舌打ちした。しかし、ファイツは予想に反して首を縦に振ったのだ。いつなら都合がつくかと訊いたら、「なるべくなら早い方がいいな」と遠慮がちに返って来たから。だから今、ラクツは「今からでもいいか」という問いにもこくんと頷いたファイツと2人で自宅までの道を歩いている。彼女との間に会話らしい会話はなかった。ファイツは黙々と歩いているし、ラクツもまた言葉を発することはしなかった。余裕がなかった先日とは違ってこの娘と2人で歩いているのを知り合いに見られはしないかと気を張っていたのもそうだが、何よりも異性として意識してしまっているのが大きい。
「ファイツくん、着いたぞ」
「う、うん……」
返って来たその声は、暗い。低い点数を取ったことを余程気にしているのだろう。もしくは男の家に上がるのが怖いのか。思わずそう邪推してしまい、ラクツは内心で息を吐いた。
(……いったい何を考えているんだ、ボクは)
意識をしているのはこちらだけで、ファイツはそのような感情など欠片も抱いていないはずなのに。それなのに何を考えているのだと、自分でも思う。ファイツはまず間違いなく気付かないだろうし、ラクツは気付いていても言う気はない。いや、言ってはいけないのだ。内心で深く溜息を吐きつつ、ラクツは玄関の扉に鍵を差し込んで回した。
「お、お邪魔します……」
本屋からずっと背後をついて歩いて来たファイツに、先に入るように促す。すると律儀に頭を下げて、ファイツがおそるおそるといった様子で自宅に足を踏み入れた。ラクツも後に続いて、普段通りに鍵を閉める。そんな何でもない動作なのに、心臓はやけに早鐘を打っていた。言うまでもなく、自分今緊張しているのだ。好意を抱いている相手が家に来て、しかも今は2人きりなのだ。やましいことをする気はない、断じてない。ラクツはただ勉強を教える為にファイツを家まで連れて来たのだ。とはいえ、どうしても意識してしまう。その原因である彼女は、もちろんそのことを知らない。きょろきょろと部屋の中を見回しているファイツに、溜息混じりに告げる。
「……散らかっていてすまないな」
「あ……!ご……ごめんね、つい見回しちゃって……。あたし……失礼だったよね?」
申し訳なさそうに謝ったファイツは、びくびくと身を縮こませながらも言葉を続けた。
「散らかってるなんて、そんなことないよ。ただ、すごく懐かしかったから……。ラクツくんの家にお邪魔するのって、小学生の頃以来だよね?」
「……そう、だな」
微笑んだファイツの顔を直視しないようにして、ラクツはそう答えた。直視してしまったら、顔が紅くなるのは避けられないだろう。
「ボクの部屋の場所は憶えているか?」
「えっと……。どこだっけ……?」
「2階に上がって、廊下の突き当たりにある部屋だ。悪いが先に行っていてくれるか?今、飲み物を用意するから」
「え!そんな、いいよ!あたしに構わなくても……」
「遠慮するな。……ボクとキミは、幼馴染だろう」
「うん……。ありがとう……」
頷いたファイツは、それは嬉しそうに笑った。ラクツは目を逸らそうとしたが、今度は間に合わなかった。まともにその表情を見てしまい、まるで金縛りにでも遭ったかのように身体が硬直する。
「…………」
「…………ラクツくん?」
ファイツの笑顔に見惚れたラクツは、息をすることも忘れてただただ彼女の顔を見つめた。流石に不審に思ったのだろう、小首を傾げて”幼馴染”が自分を覗き込んで来る。
「……どうしたの?」
「何でも……ない。それより、飲み物はミルクティーでいいか?」
「う、うん……。ありがとう。それじゃあ先に行ってるね」
「……ああ」
そう返したラクツは、ファイツの姿が見えなくなったのを確認してから胸を強く押さえつけた。心臓の鼓動が耳に響いてうるさかった。
「……反則だろう」
可愛らしい方ですねと告げたプラチナの声が、ふと脳裏に蘇る。今の笑顔は可愛らしいなんてものじゃなかった。可愛い、とてつもなく可愛い。それも、いつかのようなどこか引きつったような笑みではなくて、心からの笑顔を見せてくれた。それが嬉しい、だけど同時に苦しい。
ファイツを抱き締めてしまいそうで、苦しい。
「…………」
ラクツは目を瞑った。そして深く息を吸って、大きく吐き出した。それを数回繰り返して、ゆっくりと目を開ける。それでもまだ心臓の鼓動は速かったけれど、あまりあの娘を待たせるわけにもいかない。台所に向かったラクツは、鍋に水を入れて火にかけた。別の鍋には冷えた牛乳を注いで、それも同時に温め始める。その光景を、何をするわけでもなくその場に立ち尽くしたまま見つめる。牛乳と砂糖が多めに入ったミルクティーを淹れるのは随分と久し振りだった。ラクツは紅茶には何も入れないし、兄と父はそもそも紅茶を飲まない。つまり、これはファイツの為のミルクティーなのだ。あの頃と同じように、今も自分が淹れたミルクティーを美味しいと言って飲んでくれるだろうか……。
「そうであったなら、いいんだがな……」
そう呟いて、ラクツは沸騰した湯をティーパックを入れた2つのカップに注いだ。数分間待ってからティーパックを取り出して、ファイツ用のカップにだけ温めた牛乳を注ぐ。それから砂糖をスプーン2杯分入れて、静かにかき混ぜる。充分にかき混ぜてから2つのカップをそれぞれの手に持って、自室を目指してゆっくりと歩き出した。階段を1段ずつ慎重に上って、扉が閉められた自室の前で立ち止まる。
(……ファイツが、ボクの部屋にいる)
惚れた娘が、自分にとっては幼馴染ではない女が、この扉の向こう側にいる。それを思うとどうしたって緊張してしまうけれど、あの娘に悟られるわけにはいかない。幼馴染という境界線を、決して越えてはならない。息を吐いて、ラクツは左手に2つのカップを持った。そして、右手で静かに扉を開ける。
「ファイツくん、待たせてすまない」
「ううん。ありがとう、ラクツくん!」
そう言って笑ったファイツは、やはり可愛かった。その表情を見たラクツは、ただひたすら愛しいと思った。しかしそれを表情に出さないようにしなければと自分自身に言い聞かせながら、ラクツは「ああ」と言葉を返した。