school days : 063

彼からの提案
(あたしって、どうしてこんなに数学が苦手なんだろう……)

心の中でそう呟きながら、ファイツはとぼとぼと帰り道を歩いていた。つい先日のことだ、大好きなNに数学を教えてもらった時に「分からないところがあるんです」と質問出来たまでは良かった。その訴えに対して、Nはそれは丁寧に教えてくれた。しかしそうしてくれたのにも関わらず、ファイツは彼が言っていることがよく理解出来なかったのだ。しかも、それを正直に言えなかった。こんな問題も出来ないバカな娘だと思われたくなくて、ファイツは「よく分かりました」なんて言ってしまったのだ。そう言ってしまってから、どうして素直に分からないと言えなかったのだろうと後悔した。
それでも、せっかくNに教えてもらったのだ。今日の1時限目に行われた数学の小テストではいい点を取れるかもしれないと密かに期待したわけなのだけれど……。

(31点、かあ……)

結果は31点というそれは散々なもので、ファイツは泣きたい気分だった。31点なんて自己最低の点数だ。前回とは違って寝不足でも何でもなかったはずなのに、それでも前回の小テストより点数が取れなかった。がっくりと落ち込む自分をワイは励ましてくれたけれど、今の時間になっても口からはまだ溜息が漏れてしまう。

(こんなことなら、やっぱりプラチナさんにお願いすれば良かったかなあ……)

プラチナの頭がいいことは有名で、それはファイツだってよく知っていた。彼女なら自分が分からない問題も容易く理解出来るだろう。今日もプラチナと昼食を共にしたのだけれど、ファイツは数学を教えて欲しいと言えなかった。心の中では簡単に言えるのに、それを言葉には出来なかった。ワイやサファイア程に親しくないプラチナに数学を教えて欲しいと頼むのは何だかものすごく厚かましい気がして、どうしても口にすることが出来なかったのだ。

「はあ……」

今日の昼食での楽しそうなプラチナの姿を思い出して、ファイツは大きな溜息をついた。今日の時点でプラチナとワイとサファイアは、まるで昔からの友達のように仲良くお喋りしていた。自分とは違って親友の2人が人見知りではないこともそうだが、プラチナが高飛車ではないことが大きいのだろう。3人共楽しそうだったなと、ファイツはそっと目を伏せた。ファイツだってプラチナと話していて楽しくなかったわけではないのだけれど、彼女の突き刺さるような視線が気になって何となく落ち着かなかったのだ。

(やっぱりあれは気の所為じゃないよね……。何であたしのことをあんなに見てたんだろう……?)

しかし、考えてもさっぱり分からない。サファイアとワイのことも見るのならまだしも、自分だけが見られる理由がまったく思い当たらなかったのだ。あたしに何か言いたいことでもあるのかなと思いながら、目的地である本屋にたどり着いたファイツは真っ先に参考書のコーナーを目指して歩いた。プラチナの視線のことも気になるが、今はこちらの方が重要だった。
ファイツが今から買おうと思っているのは数学の参考書だ。以前に基本レベルの数学の参考書を1冊だけ購入したファイツは、それを活用して自分なりに勉強を頑張って来たつもりだった。しかし、小テストとはいえ31点しか取れなかったのだ。こうなれば、今持っている物より簡単で、詳しい解説が書かれている参考書を買うしかない。そうしなければ2週間後に行われる期末テストで赤点を取りかねない……。それは絶対に嫌だった。そんな一心で歩を進めて、参考書コーナーが見えたところでファイツはぴたりと足を止めた。見知った人間の後ろ姿が視界に入ったのだ。

(ラクツくんだ……)

幼馴染が参考書を手に取ってページを捲っているのが遠くからでもはっきりと見える。その様子をぼんやりと見ていたファイツは、ふと我に返った。

(あたし……。何で立ち止まってるんだろう?)

もうラクツは自分を無視しないのは分かっているし、彼に言われた通りに借りた傘は昇降口の傘立てに置いておいた。それなのに、どうして今あたしは立ち止まっているんだろう。そう自問しながら、ファイツはそっと参考書コーナーに近付いた。ラクツは自分が背後にいることに気付いておらず、パラパラと参考書のページを捲っていた。

(どうしよう……。声をかけたら驚かせちゃうかなあ……?)

出会ったのが他の誰かなら、ファイツはそもそもこんなことを思わなかった。だけどラクツは自分の幼馴染なのだ、ここで声をかけないのは却って不自然なのではないだろうか?しかし、何て声をかければいいのかが分からない。ファイツが頭を悩ませていると、自分のすぐ近くにいた幼馴染が何気なく振り返った。

「あ……っ」

不意を突かれて、彼と目が合ったファイツは思わず声を漏らした。声こそ出さなかったものの、ラクツも目を大きく見開いて硬直していた。しかしラクツは、程なくして口を開いた。

「……ファイツくんか」
「う、うん……。こんばんは、ラクツくん」

無視されなくて良かったと安堵して、ファイツは言葉を返した。「ああ」と答えたラクツは、どうしてかこちらをじっと見つめている。

「ど、どうしたの?」

視線を浴びてそわそわと落ち着かない気持ちになりながら、それでもファイツは浮かんだ疑問を口にする。

「……いや、何でもない。キミも参考書を買いに来たのか?」
「えっと……うん。数学の参考書が欲しくて……。ラクツくんはそれを買うの?」

ファイツは彼が手に持っている参考書を指差した。表紙には数学の問題集と書かれているが、ファイツが求めている物より数段難しそうだ。

「ああ。プラチナくんが以前勧めて来たんだが、それの新しい物が発売されたからな。軽く中身を見てみたが、これは確かに面白そうだ」
「そ……。そう、なんだ……」

彼の言葉を聞いたファイツの心には、もやもやとしたわけの分からない気持ちが浮かんで来た。このもやもやの正体はよく分からないけれど、憂鬱になったファイツははあっと大きな溜息をつく。自分なら、数学の問題が面白そうだなんて絶対に思えそうもなかった。

「ラクツくん、頭いいもんね……」
「……何か、あったのか?」
「あたし……。今日の数学の小テストで、酷い点数取っちゃったの……。それで、数学の参考書を買おうと思って……」
「点数は?」
「え……っ!」

当然とも言える質問を投げかけられて、ファイツはぐっと言葉に詰まった。言い出したのは自分なのだけれど、それでも31点を取りましたなんてことは言い辛い。ちらりと彼を見てみたが、ラクツはそれは真面目な表情をしていた。その顔を見たファイツは、おずおずと口を開いた。

「あの……。聞いても笑わない?」
「ああ」
「その……。さ、31点、なの……」

小声でそう告げると、ラクツは何かを考え込むかのように自分を見つめたまま黙り込んだ。笑われこそしなかったけれど、バカな娘だと思われたのかなとファイツは肩を落として落ち込んだ。実際彼に比べたらバカにも程があるのだけれど、その現実をまざまざと見せつけられるのはやはり辛いものがある。

「…………」

沈黙が、そして自分に向けられるラクツの視線が痛い。この状況をどうにかしたくて、ファイツはごまかすように声を上げた。

「だ……。だから、これから勉強を頑張ろうと思ったの!えっと、どの参考書がいいと思う?やっぱり基本レベルの物の方が……」
「ファイツくん」

ファイツの言葉を遮って、黙っていたラクツがようやく言葉を発した。彼はまっすぐにこちらを見つめている。

「……良ければ、ボクが教えるが」
「……へっ?」

口をポカンと開けて、ファイツは数回瞬きをした。今、彼は何と言ったのだろうか?ひょっとしたら聞き間違いかもしれないと思ったファイツは、おずおずと訊き返した。

「あの……。今、何て……?」
「だから。ボクが数学を教えようか、と。……そう言った」
「…………」

再度そう告げたラクツの表情は真剣そのもので。だからだろうか、気が付いたらファイツはこくんと頷いていた。「ありがとう」だとか「お願いします」だとか、とにかく何か言うべきだと思ったけれど、どういうわけかファイツの口からは何も言葉が出て来なかった。