school days : 061
幸せの定義
教室にいないのだから、彼は屋上にいるはずだ。そんな根拠もない確信を抱いて、プラチナはまっすぐにそこを目指した。今しがた言われたことを、どうしても今彼に報告したかった。そして、あることを提案したかったのだ。音を立てて屋上の扉を開けると、予想通りにラクツが手すりにもたれかかっているのが目に入った。いつかのようにこちらに背を向けて、校庭を見下ろしている。風が強めに吹いている所為か、彼の他には誰もいなかった。「ラ……。ラクツさん!!」
「……プラチナくん?」
この場にいてくれたことに安堵したのも束の間、息せき切って名を呼ぶと、勢いよくこの場に駆け込んで来たにも拘らず振り向かなかったラクツがゆっくりと振り向いた。息を切らしている自分に驚いたのか、ほんの少しだけ目が見開かれる。
「あ、あの。わ……私、先程昼食に誘われたのです。その……ファイツさんの親友の、ワイさんに……」
つい先程のことだ。休み時間になったので読みかけていた本の続きを読もうと文庫本を手に取ったプラチナは、ページを開きかけたところで金髪の女子生徒に呼び出された。いったい何の用だろうと廊下に出たプラチナが用件を尋ねる前に、彼女は自らをワイと名乗って。そして、良かったらお昼を食べないかと告げて来たのだ。訊けば、ワイはファイツの親友だと言う。「ファイツの話を聞いて、キミに興味が湧いたから」と続けて言ったワイの笑顔が、プラチナには輝いて見えた。自分達の他にはサファイアという女子生徒と、もちろんファイツも一緒に食べるのだとか。断る理由もないので承諾したら、それは嬉しそうに「ありがとう」と一層微笑まれた。
ワイの突然の申し出は、しかしプラチナには嬉しかった。学校で誰かと昼食を食べるなんて、いったいいつ以来のことだろうか?……それに、これを機にファイツと仲良くなれるかもしれない。そして自分がファイツと仲良くなれれば、彼女はラクツとも話すようになるかもしれないのだ。どうかそうなって欲しいと、そんな淡い期待を込めて友人の顔を見つめたが、彼は一言「そうか」と言ったきりだった。
顕著な反応が見られないと一瞬落胆したプラチナは、しかし今の発言を振り返ってみてそれもそうだと納得した。友人でしかない自分が「女子生徒に昼食に誘われました」なんて話は、彼にしてみればまったくもってどうでもいいものだと気付いたからだ。それでもはっきりとそう告げないのは、彼の優しさ故にだろう。やはり、この人は優しいとプラチナは思った。
「……あの、ラクツさん」
自分がそんな彼を男性として好きになることは、この先もないだろう。けれど、友人としては好きだ。きっとこの先も、間違いなく好きでいるのだと思う。そして、やはりこの人には幸せになって欲しいとも思うのだ。
「ラクツさんは……」
「何だ?」
お互い、回りくどい言い方は好きではないことは知っている。だからプラチナは、少し躊躇しつつも大きく息を吸って。……そして、静かに尋ねた。
「……ファイツさんが、好きなのでしょう?」
そこで言葉を切って彼の顔を見つめたものの、ラクツは何も言わなかった。黙り込んだまま手すりに身体を預けて、こちらに再び背を向ける。それだけの動作が、プラチナにはやけにゆっくりとしたものに見えた。
(……すみません、ラクツさん)
彼の背中を見つめながら、プラチナは内心で謝罪した。様子から見るに、多分……いや、これは彼にとって明らかに触れられたくない話題なのだろう。ラクツがそれを望むのなら、友人としてはそっとしておくのが正解なのだろうとは思う。けれど、それでもプラチナはそうしなかった。大切な友人の気持ちを、はっきりと確かめておきたかったのだ。
もちろん、彼が打ち明けてくれるとは限らないことは理解している。黙ったままやり過ごされる可能性も、答をはぐらかされる可能性もある。そうなったら、それはもう仕方がないことだと思う。もしラクツに「1人にして欲しい」と頼まれたとしたら、プラチナは素直に従うつもりでいた。だけど、彼は何も言わない。それをいいことに、プラチナはその場に留まっていた。やがて、重苦しい沈黙を破るような大きな溜息が聞こえた。そんな溜息を吐いたのは、紛れもなく彼だった。……そして。
「……ファイツくんは、ボクの幼馴染だ」
プラチナの顔を見ないままに、長い間黙っていたラクツは深い溜息と共にそう呟いた。まるで独り言のような、小さな声だった。
「……幼馴染、ですか?」
「ああ」
思ってもみない答に、プラチナは驚いた。そんな情報は初耳だと、思わず彼の言葉を復唱する。
「幼馴染……」
プラチナにはそんな存在はいないが、それがいわゆる”友達以上恋人未満”という関係を指すことは知っていた。ファイツが幼馴染だというのなら、プラチナが聞いたことのないような優しい声をラクツが先日発した理由も理解出来る。
(ですが……)
しかし、プラチナはそれでもまだ納得出来なかった。何となくだけど、どこかすっきりとしない気持ちだった。本当に幼馴染の関係でしかないのなら、以前自分に尋ねられた時にそう言えば良かったのではないだろうか?しかしそうしなかったということは、やはり………。
「でも……。好きなのですね」
「…………」
「ファイツさんはあなたの幼馴染で。……でも、あなたは彼女が好きなのでしょう?」
相変わらずこちらの顔を見ないラクツの背中に向けて、プラチナは言葉をぶつけた。そう言いながら、そうしてくれていて良かったと思った。きっと今、彼は普段と違う表情をしているに違いない。そんな顔を見てしまったら、おそらく自分は何も言えなくなってしまうだろう。それでは困る、これだけは言っておかなければならないのだ。
「私……。今日の昼食の場で、ファイツさんにそれとなく話してみます」
「……何を?」
「それはもちろん……。私とラクツさんの関係が友人であるということを、です」
ダイヤモンドとパールは自分とラクツが恋人であるという噂を耳にしていたのだ。ファイツもその噂を信じているかもしれない。流石にラクツの気持ちをファイツに勝手に言うわけにもいかないけれど、せめて自分達の関係を明言することくらいはいいだろうと思う。それくらいならいいだろうと、そう思う。まず自分とつき合っているという誤解をきっちりと解いておかなければ、彼も困るのではないだろうか。
(そうしなければ、ラクツさんの立場が危うくなってしまいます……)
ラクツがファイツに想いを告げたとして、けれど肝心のファイツに自分とつき合っているのではないかと思われるようでは彼が気の毒だ。プラチナとラクツは、あくまで友人でしかないのだから。そう思いながらプラチナは、彼の背中を見つめる。すると、ラクツが不意に振り返った。眉間に皺を寄せた、いつもと同じ表情をしていた。
「……プラチナくん」
「はい」
「余計な気遣いは無用だ。別に、ボクはこのままでいい」
「……え?」
呆気に取られたプラチナは、思わず間の抜けた声を出した。ラクツの意図がまったく読めない。真意を読み取ろうと、じっと彼の顔を見つめる。その静かな声からしてもどうやら怒っているわけではなさそうだけれど、それでも彼が何を考えているのかが分からなかった。
「で、ですが……。このままでは、誤解が解けないのでは…?どこまで噂が広まっているかは分かりませんが」
「ボクも知らないが、少なくともクラスメイト達は噂を真に受けているようだ。他のクラスにも、そう信じている生徒がそれなりにいるだろうな。……だがそれでいい、むしろボクには好都合だ」
「な……。何故、ですか……?」
「キミと交際しているという噂のおかげで、女子生徒に告白される回数が明らかに減った。これは事実だ、実にありがたいと思っている」
「…………」
「……だから。キミさえ良ければ、ボク達は交際しているということにしておいてくれないか。別に、それで何が変わるというわけでもない。今までと何も変わらない」
「ラクツさん……」
ラクツは、ファイツが好きだとは言わなかった。だけど、プラチナの言葉を否定することもしなかった。はっきりと口から決定的な言葉が聞けていないのが気になるが、やはりこの人はファイツが好きなのだろうとプラチナは思った。友人としてそう確信出来るくらいのつき合いはして来たのだ。
ラクツは自分にとって大切な友人だ。友人のことを本当に想うのなら、彼の頼みは断るのが正しいのかもしれない。けれどラクツは今まで通りがいいと、そう言ったのだ。だからプラチナは頷くしかなかった。
「分かりました。あなたがそれを望むのなら」
「……ありがとう。そう言ってもらえると、助かる」
そう言って、ラクツは笑った。どこからどう見てもその顔は、笑っている表情だった。しかし、プラチナはとてもそうは思えなかった。
「……言わないのですか?」
そんな彼をこれ以上見ていられなくて、プラチナは目線をラクツからやや外して尋ねた。誰にとも何をとも言わなかったが、彼は言わんとすることをきちんと理解したらしい。眉根をわずかに寄せて、ラクツは困ったように笑った。
「……色々あってな。ファイツくんをもう困らせたくはないんだ。それに何より、彼女には好いている男がいる」
「え……」
「だから、ボクはこのままでいい。……今のままが、いいんだ」
そう彼が言った瞬間、一際強い風が吹いた。それによって靡いた髪を整えることもせずに、プラチナはラクツをただ見つめる。
「それで……ラクツさんは満足なのですか?」
「……ああ」
「本当にそれでいいのですか?私は……あなたには幸せになって欲しいと思っています。でも……」
「そうか……。そう言ってくれる友人を持てたんだ、それだけでも充分幸せだと思うが」
「……私が言いたいのは、そういうことではありません!」
プラチナは思わず声を荒げた。自分が差し出がましいことを言っていることは分かってはいるが、今はそれについて謝罪する余裕などなかった。その人間にとって何が幸せになるかなんて、結局はその人自身にしか分からない。しかしそれでもプラチナは、ラクツが今幸せだとはどうしても思えなかった。
「私が言いたいのは、つまり……!」
再度そう口にして、プラチナはそこで言葉に詰まった。言いたいことはあるのに言葉が上手く出て来なかったのだ。どうすれば彼をこれ以上傷付けずに言いたいことを言えるのか、その答が出なかった。
「…………」
結局そのまま、プラチナはラクツの顔を見つめていた。彼が間違っているとまでは言わない、そんなことはとても言えない。だけど好きな相手に想いを告げることもせずに、その相手の幸せをただ願うだなんて。それでラクツが本当に幸せになれるとは、どうしたって思えなかった。
「……ありがとう、プラチナくん。その気持ちだけはもらっておく」
ラクツはそう言って、また笑った。穏やかな物言いだった。言外に、もうこの話題には触れないで欲しいと。そう言われている気がした。どうして彼がそんなに落ち着いていられるのかがプラチナには分からなかった。だけどそれを問うことも出来ずに、プラチナはただ「はい」とだけ答えた。その声は、情けない程に震えていた。