school days : 060

思わぬ幸運
もう無視をしないと言ってくれた幼馴染の言葉を、疑っていたわけじゃない。ただ、何も言わないラクツを見て、不安になったのは確かだった。知らないうちに彼の気に障ることを何かしてしまったのかという思いに駆られた。しかし、それは単なる思い過ごしだったらしい。ラクツにタオルを返せて良かったとそっと息を吐いて、ファイツは1人廊下を歩いていた。借りたタオルを返しただけなのに何だか酷く疲れたような気がするのは、思い違いではないだろう。
前を歩く幼馴染の姿が教室から辛うじて見えたから、ファイツはHRが終わるとすぐに教室を飛び出したのだ。わざわざ鞄から借りたタオルが入った袋を引っつかんで彼を追いかけたわけなのだけれど、よくよく考えれば鞄ごと持っていけばそれで良かったわけで。その為鞄を取りに教室に戻る羽目になってしまったファイツは、のろのろと歩きながら自分の愚かさに溜息をついた。B組の教室の前で立ち止まって、一息入れてからそろそろとドアを開ける。

(良かった、誰もいない……)

もし誰かが教室に残っていたとなれば、必然的に視線を向けられてしまうわけで。その瞬間が堪らなく怖いファイツは、そうならなかったことに酷く安堵した。自分の机の上に置いてある鞄を手に持って、何気なく時計を見上げる。現在の時刻は16時30分だった。

「どうしようかなあ……」

せっかくここまで戻って来たのだ。どうせなら図書室で勉強でもしてから帰ろうかなと、ファイツは時計を見上げたままのポーズでぼんやりと考えた。思い返せば、ここのところあまり勉強が出来ていなかったような気がする……。

「よし、頑張らなきゃ!ふぁいとふぁいと、ファイツ!!」

拳をぎゅっと握って、結論を出したファイツはそう叫んだ。その直後に忍び笑いが聞こえて、ファイツはおそるおそる振り向いた。

「……え、N先生っ!?」

大好きな人がおかしそうに笑っているのが見えて、ファイツは思わず大声を出した。瞬く間に顔が真っ赤に染まる。しかし、次の瞬間にはさっと青ざめさせた。どう考えても、今の自分の行動を見られたに違いない。

(ど……どうしよう!!絶対絶対、変な子だって思われた!)

誰かに見られていると分かっていたら、絶対に先程のようなことはしなかった。それもまさかNに目撃されていたなんて夢にも思わなくて、がっくりと肩を落とす。大好きな人の姿を見られたのは嬉しいのだが、こんな形で会いたくなどなかった。それはおかしな振舞いをする子だと思われたに決まっている。最悪と内心で呟いて、ファイツは俯いた。

「……で、何を頑張るのかな?」

偶然B組の教室の前を通りかかったのであろうNは、穏やかな口調でそう尋ねた。やはり、先程の行動はしっかり見られていたらしい。

「あ、あの……。勉強を……頑張ろうかと……」

好きな人に話しかけられて嬉しいけれど、今しがたのことを思うととてもじゃないけど顔を見て話すことは出来なくて。それでも俯いたままでいるのはものすごく失礼な気がして、だからファイツはNが首からかけているペンダントを見ながら答えた。何だか、ペンダントに反射したオレンジ色の光がやけに眩しく思えた。

「そうか。前に言ってた通りに、勉強を頑張ってるんだ?」

優しい、穏やかな声だった。その声にファイツは思わず顔を上げる。すると、Nと視線がぶつかった。大好きな人が、その瞳に自分だけを映している。

「A組に入りたいって前に言ってたけど、もう志望校は決めているのかな?」
「あ……。えっと、いいえ……」

頭がくらくらするような感覚を覚えながら、ファイツは正直に首を横に振った。Nが担任だから特進クラスであるA組に入りたい、ファイツはそれだけを思って今まで頑張って来たのだ。しかし、それをそのまま告げられるはずもなかった。言ってしまったら告白したも同然になってしまう。ファイツには、まだそんな度胸はなかったのだ。

「で、でも……。その……。国立の大学に入れればいいな、とは思っています……」

既にこの学園に通いたいというわがままを通させてもらっているのだ。その代わりというわけではないけれど、なるべく学費がかからない大学に進学したいなとは以前から思っていた。好きな人に見つめられてどもりながらそう答えると、Nは柔らかく目を細めた。

「そうか……キミは偉いね。ボクはキミくらいの歳の頃、それ程真面目に勉強しなかったから」
「え……。そうなんですか?」
「うん。だから、今から頑張っているキミはすごく偉いと思うよ。それなのに、笑っちゃって悪かったね」
「い……いいえ!そんなことないです!」

謝られるなんてとんでもないと、ファイツはぶんぶんと首を横に振った。それを受けてか、Nは再び目を細めた。

「……ふふ。……そうだ。もし数学で分からないことがあるなら、ボクが教えようか?」
「え……」

ポカンと口を開けて、ファイツはNの顔を見つめた。勉強を教えようかと聞こえたのだが、それは本当だろうか?夢ではないか、もしかしたら聞き間違えたのかもしれないという思いから、震え声で問いかける。

「い、今……。何て……?」
「ん?……ああ、ボクで良ければ数学を教えようかって」

穏やかに微笑んで、大好きな人はそう告げた。「キミさえ良ければだけど」と付け加えられたその言葉を聞くや否や、ファイツはこくんと頷いた。気が付いたら、首を縦に振っていたのだ。

「は、はい!その……よろしくお願いします、N先生っ!」
「うん。……じゃあ、職員室に行こうか」
「……はい!!」

ふと気が付けば、昼間にあれ程感じていた胸のもやもやはすっかり消え失せていた。これもNと話したからだと思いながら、前を歩く好きな人の後ろをファイツはゆっくりと歩いた。