school days : 059

静まらない鼓動
特別な用事でもない限り、ラクツは帰りのHRを終えるとすぐにAクラスの教室を出ることにしている。それは、単に部活があるからだけではなかった。教室に残っていると、やたらとクラスメイトの女子生徒達に話しかけられるからだ。車で通学をしているプラチナも同様にさっさと教室を出てしまうので、彼女達にしてみればその状況は好機に映るのだろう。そうなる前に手早く帰り支度を済ませたラクツは、あることに気が付いた。プラチナが物言いたげな視線をこちらに向けているのだ。おそらくは、科学の授業が始まった為に中断された会話の続きをしたいのだろう。

(……それは、困る)

終わった話題を、それも自分の決して報われない恋路についての話題を蒸し返されるのはあまり気分がいいとは言えなかった。だからラクツは、プラチナが何か言う前に挨拶を済ませて教室を後にした。剣道部の部室までの道のりを歩きながら、ラクツはプラチナとのやり取りを思い出していた。もしかしたら、彼女はただ単に言いたかっただけなのかもしれない。ファイツという娘と話したのだと、友人である自分に伝えたかっただけなのかもしれない。しかし、あの聡いプラチナのことだ。ファイツという名前をあえて声に出すことで、こちらの様子を窺う意図があったのではないかと。そう、邪推してしまう。
実際、以前彼女が好きなのかと訊かれたことだし、その可能性は充分にある。不意を突かれたこともあり、”ファイツ”の名を聞いたラクツは無反応ではいられなかった。ほんのわずかな間とはいえ、足を止めてしまった。それだけで、幼馴染に好意を抱いているという事実がプラチナに伝わってしまったかもしれない。……だからと言って、何がどうなるというわけでもないのだが。
プラチナとはただの友人でしかないわけだけれど、その実かなり親しいと言って良かった。だけど、そんな相手でも想い人を知られるというのは正直気恥ずかしい。しかしそれでも、知られた可能性があるのがプラチナだったのは不幸中の幸いと言えるだろう。ラクツもプラチナの性格はある程度は把握しているが、それはプラチナにも同じことが言えるからだ。彼女の性格からしても、周囲に言いふらすとはとても思えなかった。
そう、例えプラチナに気持ちを知られたところでラクツには気恥ずかしい以外の何の問題もありはしないのだ。ファイツ本人にさえ伝わらなければそれでいいし、おそらくその可能性もないだろう。ファイツはそういう事柄についてはあまり鋭くない。むしろ、鈍いと言い換えてもいいくらいだった。だからわざわざこちらから明かさない限り、知られることはまずないはずだ。……いや、知られたら非常に困るのだが。

「……ラクツくん!」

背後から聞こえて来た、自分の名前を呼ぶ声。その声だけで誰が話しかけて来たのかがラクツには理解出来た。その途端に、心臓が早鐘を打つ。ファイツを好きだと自覚してから、これが初めての対面になるわけで。

(……落ち着け)

何もこれから告白をするわけでもないのに、背後にあの娘がいると意識しただけでどうしようもなく緊張してしまう。今からこんなことではこれから先が思いやられると内心で嘆息しつつ、ゆっくりと振り返る。すると、どこか不安そうな表情をしている幼馴染の姿が目に映った。ファイツは片手に袋を持って、もう片方の手で胸の辺りを押さえていた。はあはあと肩を上下させて息をしながらも、こちらをまっすぐに見つめて来る。

「…………」

もうこの娘に対して凍てつくような視線を向ける必要はないし、無視をする必要もない。口に出した以上、ラクツは二度とそのような振る舞いをする気はなかった。それにも拘らず彼女を見つめたまま何も言葉を発しないのは、惚れている相手に見つめられて偏に緊張しているからだ。

「あ、あの……っ」

しかし、彼女の方は当然ながらそれを知らない。振り向いたはいいが、何も言わずに黙り込んだこちらの反応を悪い方に解釈したのだろう。「あの」と言ったきり、彼女も口を噤んでしまった。これ以上こうしていると人が通りがかりそうだし、何よりこの娘にあらぬ誤解を与えてしまいそうだ。それは、ラクツにはどちらも避けたい未来だった。けれど落ち着けと何度言い聞かせても、心はどうにも落ち着いてくれない。うるさいくらいに心臓の鼓動は高鳴っていたけれど、平然を装って想い人の名を口にする。

「……ファイツくん」

かつてのように、呼び捨てで呼ぶ気はなかった。内心では呼び捨てにしても、彼女の前ではこの呼び方で通すつもりだ。わざわざ呼び名を元に戻す必要があるとも思えなかった。

「すまないな、少し考え事をしていただけだ」

実際には彼女に見惚れていただけなのだが、それを告げる気は更々なかった。つまりは真っ赤な嘘なわけなのだけれど、素直なファイツは言葉を疑うこともせずに信じ込んだらしい。安堵したようにこくんと頷いてから、手に持っていた袋をおずおずと差し出す。

「……ラクツくん。昨日は、ありがとう」

そうではないかと思ってはいたが、ファイツが持っていた袋には昨日自分が貸したタオルが入っていた。律儀にも昨夜の内に洗濯したらしい。その上先程の様子から察するに、わざわざ走ってまで自分を追いかけて来てくれたようだ。幼かった頃とまるで変わらないファイツの行動に、ラクツはほんの少しだけ目を細めた。

「ああ。体調は大丈夫か?」

ファイツは昨日、随分と雨に濡れてしまっていた。そのことが気になっていたラクツは差し出された袋を受け取ってからそう尋ねた。見る限りは大丈夫そうだが、彼女が風邪を引いていたとしたらそれは自分の責任だ。

「うん。……大丈夫」

その心配は杞憂に終わったものの、ファイツの笑顔を見たことによりラクツの心臓の鼓動は再び高鳴った。当然顔にも赤みが差しているのだが、目の前の彼女がそれに気付くことはなかった。今が夕方で、オレンジ色の夕日が窓から射しているからだろう。その事実に内心でありがたいと思いつつ、ラクツは「そうか」と返した。

「でも……。あのね、傘は持って来てないの。まだ乾いてなかったから……。あの、ごめんなさい……」

笑顔から一転して、ファイツは伏し目がちにそう告げた。まるで怒られた子供のように、びくびくと怯える素振りを見せている。

「気にするな。返すのはいつでもいいと言っただろう?」
「う、うん……」
「傘は昇降口の傘立てに差しておいてくれればそれでいい」
「うん。……分かった」

そうするねと呟いて、ファイツは背中を向けた。ラクツもまた同様に踵を返す。そのまま数歩廊下を歩いたところで、ラクツは再び歩みを止めた。自分の名を呼ぶファイツの声が耳に入ったのだ。何か言い忘れたことでもあるのかと訝しみながらも振り返ると、微笑んだファイツの顔が視界に飛び込んだ。

「あの……。部活……頑張ってね!」

そう言うと、ファイツは今度こそ背中を向けた。遠ざかって行くファイツの背中を、ラクツはただ見つめていた。やはり、心臓は激しく音を立てていた。