school days : 058
心、曇り空
「そっか。……それで、あのお嬢様と話したんだ?」「うん!」
ワイに笑顔でそう答えて、ファイツは卵焼きを口の中に放り込んだ。咀嚼した途端に出汁の味が広がる。普段は甘い味付けにしているのだが、今日の卵焼きは少し塩辛いものにしてみたのだ。これはこれで美味しいと思いながらお手製のお弁当に手をつけていたファイツは、ふと視線を感じて顔を上げた。見ると、サファイアとワイがまじまじとこちらを見つめている。2人の視線にたじろぎながら、ファイツは水筒から注いだお茶を飲んだ。それでもなおじっと見つめられて、視線をあらぬ方向へと彷徨わせる。例え悪意がないと分かってはいても、人にこうして凝視されるのはどうにも苦手なのだ。
「ど、どうしたの?」
「んー?……ああ、ファイツにしては珍しい反応だなって思って。……ね、サファイア?」
「そうったいね!」
「……そ、そう?」
うんうんと力強く頷いたサファイアに対して、ファイツはそうかなあと呟きながら再びお茶を飲んだ。
「だって……。ファイツはすごく人見知りをするでしょう?それなのにあのお嬢様と話したんだって、楽しそうにアタシ達に話すんだもの。それって、やっぱりかなり珍しいわよ」
「あ……」
ワイの言う通り、ファイツはものすごく人見知りをするのだ。今でこそこの2人とは普通に話せているものの、こうなるまでにはそれなりの時間を費やしたわけで。そのことを思い出したファイツは、素直に頷いた。
「そっか……。……うん、そうかも」
「でしょう?……でも良かったね、ファイツ!これで例の幼馴染に借りた物を返せたんでしょう?」
「え、えっと……」
にこにこと微笑みながらワイにそう言われて、ファイツは言葉に詰まった。助けを求めるようにサファイアを見たが、彼女にもまた微笑みを返されるだけだった。ワイから既に聞いていたのだろう、サファイアはお弁当を食べ始める前に「幼馴染と仲直りば出来て良かったやけんね」と言ってくれた。確かにラクツとまた話せるようになったことは嬉しい。だけど結局、ラクツには未だに借りたタオルを返せていない。もうこれは剣道部の部室に行くのが確実だろうと思ったファイツは、休み時間にAクラスの教室を訪ねることを諦めていた。
「あのね、ワイちゃん。実は……まだ、なの……」
ラクツくんを呼び出して欲しいと言えば済むことなのに、その一言がどうしてか言えなかった。そのことを知られてしまう恥ずかしさで、声を潜めてそう告げる。
「ええ!?ファイツったらまだ返せてないの!?」
「う、うん……」
目を見開いて驚いたワイの反応に、ファイツも負けず劣らず驚いてびくびくと身を縮こませた。
「あ……。ごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど」
「だ、大丈夫……」
「…………」
顔を顰めて溜息をついたワイは、しばらくの間沈黙した後に口を開いた。
「……良かったら、アタシがついていこうか?」
「そげんこつ言って、ファイツの幼馴染ば確かめるつもりったいね、ワイ!」
「ち、違うわよ!アタシは本当にファイツが心配なの!それにそんなことを言うサファイアだって、実際は気になってるでしょう?」
「当然ったい!……やけどファイツが言いたくないこつ、無理に訊けんとよ」
「う……」
ワイもサファイアも、自分にとって大事な友人だ。そんな大切な彼女達に隠し事をしているという罪悪感から、ファイツは先程より更に言葉に詰まった。ワイに言っていないことをサファイアだけに明かすわけにもいかず、ファイツは依然として幼馴染が誰であるかを打ち明けていないのだ。
「ご……。ごめんね、2人共……」
「ん?別にファイツば責めとるわけじゃなか、気にすることなかとよ」
「そうそう!元はと言えば、アタシの所為だし。……それにしても、ちょっと意外だったわ。アタシ、あのお嬢様はてっきり高飛車な子かと思ってたんだけど……。ファイツの話を聞いてると、案外そうでもないのかしら?」
「うん……。思ったより、ずっと話しやすい人だったよ」
そう答えながら、あの見事な黒髪を思い出してファイツはそっと目を伏せた。本当に、あれは見事な髪の毛だった。
(どうやってお手入れしてるんだろう……。今度話せたら、それとなく訊いてみようかなあ……)
そんなことを思いながら、ファイツはミニトマトを口の中に放り込んだ。ジュースを飲み干したワイが、一息ついた後に怪訝そうな顔でぽつりと呟いた。
「でも、どうしてファイツのことが気になったのかな。何か心当たりはないの?」
「……ううん。あたしにも分からない」
ふるふると首を横に振って、ふうと溜息をつく。本当に、プラチナが何故自分なんかのことを気にしたのかが分からなかった。だけど、彼女本人がああ言っていたのだ。きっと、本当にただ何となく気になっただけなのだろう。
「……ねえ。今度、あの娘もお昼に誘ってみない?」
「え?」
「ファイツの話を聞いたら、アタシも興味が湧いて来ちゃった。思った以上に話しやすかったんでしょう?」
「う、うん……」
「あ。もちろん、ファイツとサファイアが良ければだけど。……どう?」
「あたしは構わないとよ!」
話を振られたサファイアが、手を元気良く挙げて賛同する。だけどファイツは、サファイアのようには即答出来なかった。ワイの話はきちんと耳に入っていたのにも拘らず、言葉を何も発することも出来ずにただ固まっていた。
「えっと、ファイツ?……ファイツはどう思う?」
再び驚かせてはいけないと思ったのか、ワイが珍しくもおずおずとした様子で尋ねて来た。改めてそう問われて、ファイツは少しだけ考え込んだ。
「…………」
確かにプラチナと話していて嫌な思いはしなかったし、彼女もまた話しかけてもいいかとまで言ってくれたのだ。まさか、プラチナに嫌われていることはないだろう。お昼ご飯を一緒に食べようと誘ったら、喜んで頷いてくれるかもしれない。
(……うん。別に断る理由なんか、ないよね……?)
共に昼食を食べるとなれば、話の流れで髪の手入れについても訊きやすいだろう。何より、Nの話が聞けるかもしれない。ファイツにとってはいいこと尽くめだった。結論を出したファイツがゆっくりと頷いて肯定の意を示すと、ワイはホッとしたように笑顔を見せる。固唾を呑んで見守っていたサファイアも、大きな溜息を漏らした。
「良かった!まあ断られるかもしれないけど、とりあえずは明日訊いてみるわ!」
「…………」
「どぎゃんしたと、ファイツ?何かぼーっとしてるったい」
サファイアにそう指摘されて、ファイツは目を瞬いた。”ぼーっとしている”というよりは何となく落ち着かない気持ちになっていたのだけれど、それは口に出さずに曖昧に頷くだけに留めた。
「そう?……ちょっと、考え事をしてたから……」
「あ、もしかしてN先生のことを考えてたの?そういえばあの娘はA組だもんね。先生のこと、色々聞いちゃいなよ!」
「そうったい、これはチャンスったい!」
「う、うん……」
器用にN先生の部分だけ声を潜めて、楽しそうにワイがそう口にする。サファイアも頷いて、拳を力強く握った。そんな親友達に「うん」と頷き返したファイツの心は、しかし何故か晴れなかった。大好きな人の話が聞けるかもしれないというのに、先程からどこかもやもやとした気持ちになっているのは何故なのだろう?
(どうしてなんだろう……)
喉の渇きを覚えたファイツは、水筒からお茶を注ぎながらそう自分自身に問いかけてみた。しかし当然答が返って来るはずも、すぐに気持ちが晴れるはずもなくて。ファイツは勢いよくお茶を飲んだのだけれど、突如として生まれたもやもやは消えてはくれなかった。