school days : 054
それでいい、それがいい
おそらくは、表情に出ていたのだろう。顔を合わせるや否や、何かあったのかと尋ねて来た兄の言葉に何でもないと適当に返して。ついでにこの時間に珍しく帰宅していた父の、たまには外食にしようという誘いも一考することなく断った。食欲があまりないと告げたらそれは大袈裟に心配されたけれど、今はとにかく1人になりたかったラクツは早めに寝るから大丈夫だと言い張った。半ば無理やりに父と兄を食事に行かせて、シャワーを浴びたラクツは髪を完全に乾かさないまますぐに自室へと向かった。そして、ベッドに無造作に寝転がる。(……もう、いいのか)
数年前の決意の通り、ラクツは幼馴染に対して冷たい態度で接して来た。しかし、もうそうする必要はないのだ。そして同時に、心を殺す必要もなくなった。これからはまた前のように話しかけてもいいのだと、何度も自分に言い聞かせる。周囲に人がいなければ、あの娘もおそらくは話しかけて来るだろう。おずおずと、けれど見るからに嬉しそうに話しかけて来る彼女の姿が容易に想像出来て、ラクツは笑った。その顔に浮かべるのは、自分自身を嘲る笑みだ。
「……ボクは、間違っていたのか」
ファイツと別れてからずっと、ラクツは幼馴染のことを考えていた。考えざるを得なかった。自分が傍にいない方があの娘の為になるのだと、そう思ったから。だからラクツはこの1年間、彼女に対して冷徹に接し続けて来たのに。しかしファイツはそれを望まなかった、彼女は自分に無視されることを望んでなどいなかったのだ。ファイツの為になると固く信じたとはいえ、結局は彼女の心を傷付けたのは紛れもなくラクツ自身だった。数年前の決意は、そしてこの1年間ラクツがして来たことは、いったい何だったのだろう。
「すまない、ファイツ……」
いくら謝罪したところで過ちが清算されるはずもないのだが、それでもラクツはそう口にした。謝る以外にどうすればいいのかが分からなかった。そしてそうする理由は、ファイツを酷く傷付けたからだけではなかった。
無視されるのは嫌だと告げて涙を零したあの娘を見て、自分は何を思っただろうか。確かにすまないと思った、申し訳ないと思った。泣かせてしまったことに対して、大いに罪悪感を抱いた。それは紛れもない事実だった。
「…………」
ラクツは溜息をついて、真っ暗な自室の天井を見つめた。だけど、そうしたところでやはり気が紛れることなんてなくて。
「ファイツ……」
彼女の名が口から自然と漏れて、自分しかいない部屋に響き渡る。そうだ、あの娘は大切な幼馴染なのだ。もう選択を間違えるわけにはいかない、あの娘を傷付けたくはない。
ラクツとしては欠片も望んでなどいないわけなのだが、どうも自分は女子に人気があるらしい。プラチナとの噂があるにも関わらず、未だに告白される始末なのだ。そんな状態でファイツに親しげに話しかけたら、あの娘は再びいじめに遭うかもしれない。苦い過去を忘れられない身として、それは絶対に避けたい未来だった。
だから周囲に人がいる時は、自分からは彼女に話しかけない方がいいだろう。けれど今まで通りの冷たい目線を向けることは止めようと、そう思った。あの娘のことだ、近いうちに貸りた物を返そうとして来るだろう。その時にでもきちんと説明をすれば、彼女もきっと分かってくれるはずだ。今まで散々傷付けたのは他でもないラクツ自身なのだけれど、それでもあの娘をもう傷付けたくないと強く思う。何故なら、ファイツは自分にとって大切な大切な幼馴染なのだから。
(だが、ボクは……)
ファイツを泣かせてしまったことは申し訳ないと思ったが、同時にそれ以外の感情を抱かなかったか。自分に無視をされたことが泣いてしまう程嫌だったのかと、衝撃を受けなかったか。それを申し訳ないと思う傍らで、幼馴染にそれだけ想われているという事実に心のどこかでは確かな喜びを覚えなかったか。そしてそのことを自覚した次の瞬間には、絶望感に襲われなかったか。
ただの”幼馴染”にそんな感情を抱くものなのだろうかと思考して、すぐに首をゆっくりと横に振った。前例がないから断言出来ないが、おそらくは幼馴染の域を越えているだろう。
(ああ、そうか……)
彼女が好きなのですかと尋ねて来た友人の声が、先程から消えない。頭の中で響いて、どうしても消えてはくれない。あの時は自分がファイツをどう思っているのかが分からなかった。もしかしたら、気付かない振りをしていただけかもしれない。だけどラクツは、はっきりと気付いてしまったのだ。
「ボクは……。そういう意味でファイツが好き、なのか……」
今更ながら、それも泣かせてしまった後で自覚するなんて……本当に愚かだと思うけれど。しかし自分の気持ちを素直に声に出してみたところ、その言葉は驚く程すんなりと心の中に染み渡った。幼馴染としてではなく、異性として好意を抱いている。そのことに気付いたところで、けれどラクツはどうするつもりもなかった。例えば想いの丈を打ち明けるとか、そういう行動に出ようとは思わなかった。……思えるはずも、なかった。
冷たい目線を向ける傍らで、その実ラクツはずっと幼馴染のことを気にかけて来たのだ。だから、あの娘が自分ではない誰かを想っているらしいことはとうの昔に気付いていた。仮に告白したところで、返って来るのは断りの言葉に決まっている。自分だけが傷付くならまだしも、ファイツだって大いに困ってしまうだろう。敬遠だったとはいえ、自分はファイツの幼馴染なのだ。あの娘の性格はよく知っている。
もうあの娘を泣かせるわけにはいかないし、困らせるわけにもいかない。何よりも、ラクツがそうさせたくないのだ。ファイツにはいつだって笑っていて欲しいと、そう思うから。
(……幼馴染で、いいだろう?)
この気持ちを告げる気はない、告げてはいけない。あの娘に対して冷たい態度をとらねばならなかった今までの苦しみに比べれば、想いを打ち明けられないことくらい何でもないはずだ。
それでいい、自分はあの娘の”幼馴染”のままでいい。あの娘だって、それを望んでいるに違いない。そうラクツは自分自身に言い聞かせた、何度も何度も言い聞かせた。