school days : 052

ありがとう
しとしとと降り続く雨の中を、ファイツは幼馴染と2人で歩いていた。結局ラクツの申し出は断れなかった。タオルを差し出してくれた上に傘まで貸してくれて、更には家まで送ってくれるなんて何だか申し訳ない。しかし、今言うべき言葉はそれではないことは分かっている。

「タオルを貸してくれてありがとう。ちゃんと洗って、早めに返すね。それから、この傘も」
「返すのはいつでも構わない。それより具合は悪くないか?」
「ちょっとだけ寒気は感じるかな。でも、帰ったらすぐお風呂に入るから」
「そうか……。風邪を引かなければいいんだが……」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。平気平気!」

そう言ってはみたものの、それでもラクツは心配そうな表情を変えなかった。ファイツはまったく憶えていないのだけれど、彼によれば自分は誘拐された過去があるのだ。事情が事情だから仕方のないことかもしれないが、何となくいたたまれない気持ちになってしまう。

(でも……。心配してくれるのは、あたしを嫌ってないからだよね……)

キミを嫌うなんてあり得ないと彼は言ってくれた。それが、ファイツには嬉しかった。幼馴染を嫌いになれないのはファイツだって同じだけれど、面と向かって言われるとやっぱり嬉しいものだ。

(思ってることを言葉にするのって、すごく大事なことなんだなあ……)

ファイツの気持ちをぶつけてみなよと言ってくれた親友の顔が浮かんだ。もう1人の親友も自分を力強く励ましてくれた。彼女達に相談したおかげで、こうしてファイツは幼馴染と歩いているのだ。ワイとサファイアがいなければ、今もうじうじと1人で思い悩んでいるだけだったかもしれない。

(ありがとうって2人に言わなきゃ……。それから……)

ファイツは隣を歩く男の子をそっと見つめた。自分の願いを彼は聞き入れてくれたのだ。話している途中で、彼の表情が苦しそうなものに変わっていったことにファイツは気付いていた。きっと、彼にとってはあまり話したくないことだったのだろう。だけど、それでもラクツは話してくれた。

「ラクツくん、あたしに話してくれてありがとう。そのお礼をまだ言ってなかったよね」
「誘拐された原因を生み出した本人に……キミ自らが礼を言うのか?」
「そんな……。ラクツくんの所為じゃないよ!」

ファイツは思い切り首を横に振った。気を遣って言ったわけではなく、心の底からそう思っているのだ。どうすればその気持ちがちゃんと彼に伝わるのだろう?ファイツが出来ることといえば、気持ちを言葉にすることだけだ。

「もしラクツくんがそう思ってるんだったら、それは違うと思う。あたしのママは”ラクツくんのおかげであの子は助かった”って言ってたんでしょう?あたしだってそう思う。ラクツくんが警察に早く知らせてくれたから、きっとあたしは助かったんだよ」
「…………」
「だから……。だから、ラクツくんが気にすることはないよ。それにあたしが泣いちゃったのも気にしなくていいからね、あたしが勝手に泣いただけだから。……子供みたいで、みっともないとこ見せちゃったけど」
「……いや。ボクが言えた義理ではないが、泣きたい時は泣いた方がいいと聞く。無理に我慢をするのは、キミの精神衛生上良くない」
「えっと……。そうなの?」
「そうらしい」
「……そうなんだ」

もしかして、あたしに気を遣ってそう言ってくれたのかな。ファイツはふとそんなことを思った。昔から物事をよく知っている彼のことだ、本当にそうである可能性はある。それでもファイツは、そう感じてしまった。

(ラクツくん、やっぱり優しいなあ……)

眉間に皺を寄せていることが多いラクツだが、その表情とは裏腹に彼が優しいことはよく知っている。その上彼は大人びているのだ、同い歳なのにあたしとは大違いだとそっと溜息をついた。子供っぽいなと自嘲したものの、それでもファイツは尋ねた。どうしても今確認しておきたかったのだ。

「あのね、ラクツくん。訊いてもいい?」
「何だ?」
「……もう、あたしに冷たくしない?あたしのこと、無視したりもしない?」
「ああ。もう、しない」

すぐに答が返って来たことにファイツはホッと息を吐いた。彼の言葉の内容には、もっと安心した。

「良かったあ……。……あ、この角を曲がって少し歩けば家に着くよ。ほら、あのマンションが見えるでしょう?今はあそこに住んでるの」

住宅街に建つ白いマンションを指差しながら、ラクツにそう告げた。彼は家まで送るなんて言ってくれたけれど、ここまでで充分だとファイツは思った。

「もうすぐで着くから、送るのはここまでで大丈夫だよ。ほら、見たところ怪しい車も停まってないし!」
「……そうだな」
「ラクツくん、今日は色々ありがとう。それに、わざわざ家まで送ってくれたし」
「ボクが自分から言い出したことだ。気にすることはない」
「うん。……でも、ありがとう」
「……ああ」

ほんの少しの間だけラクツの顔を見つめて、目を逸らしたファイツはそのまま前に歩き出そうとした。だけど背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、ファイツは足を止めて振り返った。それは、よく知っている人物の声だった。

「ファイツちゃんっ!」
「……あ。お姉ちゃん」
「どうしたの!?制服がずぶ濡れじゃない!それに、髪の毛も!」

スーパーの袋を片手に持ったホワイトは、ファイツの姿を一目見るなり声を上げる。ホワイトの剣幕に押されたファイツは、おずおずと答えた。

「あのね……。あたし、今日は傘を忘れちゃったの。でも、ラクツくんが傘を貸してくれたから」
「……ラクツくん?」

ファイツに言われてようやく気付いたのか、ホワイトはくるりと振り返った。立ち尽くしているラクツの顔をまじまじと見つめたかと思うと、ああと手を叩いた。

「キミのことは聞いてるわよ。確か剣道部だったわよね?すっごく強い2年生がいるんだって、うちの学年でも有名なのよ」
「いえ、ボクなどまだ未熟ですよ。……ファイツくん、ホワイトさんがキミの従姉だったんだな。少し驚いた」
「お姉ちゃんのこと、知ってるの?」
「ああ。だが、キミの従姉がまさか同じ高校に在学しているとは思わなかった。世間は狭いものだな」
「ファイツちゃん……。あなたがそんなことまで男の子に話すなんて珍しいわね。同じクラスなの?」
「いいえ」
「あ……。あのね、お姉ちゃん!」

しげしげと自分達の様子を眺めているホワイトに向かって、ファイツは話しかけた。

「ラクツくんはね、あたしの幼馴染なの!」
「え。……幼馴染?」
「うん。ねえラクツくん、あたし達って幼馴染……だよね?」
「ああ。ファイツくんの言う通りですよ、ホワイトさん」

ファイツはぱちぱちと瞬きをするホワイトに何度も頷いてみせた。ラクツくんに否定されなくて良かったと、そう思いながら。