school days : 051

雨のち晴れ
「そんなことがあったんだ……」

幼馴染の話を聞き終えたファイツは、そっと息を吐いた。何故ラクツが自分に対して冷たく接するのかをどうしても知りたくて、ファイツはラクツに教えて欲しいと頼み込んだのだ。雨で身体が濡れていたけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。ファイツの勢いに押されたのか、ラクツは重々しく頷いた。「長くなるがそれでもいいか」との問いに、ファイツは黙って頷き返した。
とりあえず雨宿りも兼ねて東屋に避難したファイツ達は、設置されているベンチに並んで腰かけた。自分の髪の毛から雫が滴り落ちているのに気付いて、ファイツはハンドタオルで髪を拭いた。「あたしのことは気にしないで」と言ったファイツの目の前に、真っ白な少し大きめのタオルが差し出される。「未使用だから安心して使っていい」とまで言ってくれた彼の好意を断るのは却って悪い気がして、ファイツは少々気が引けながらもそのタオルを受け取った。運動部である彼は日頃からタオルを多めに持って来ているらしく、鞄から取り出したもう1枚のタオルで自身の髪を拭き始めた。そしてファイツがある程度髪の毛の水分を取ってから、ラクツは静かに話し始めたのだ。
ラクツの話が終わってからしばらくの間、ファイツは何も言えなかった。ようやく口に出した言葉は「そんなことがあったんだ」などという、他人事のようなものだった。自分が女の子達に嫌がらせを受けたことは何となく憶えている、だけど誘拐されたなんてまったくの初耳だ。その日の記憶がないらしいのだから当たり前かもしれないが、こうして聞いても実感がなかった。自分のことながら、まるで知らない誰かの話を聞いているかのようだった。

「……聞かなければ良かったと……。そう思うか?」

東屋に設置されているベンチに並んで腰かけていたラクツが、静かに問いかけて来る。ファイツは彼の顔をじっと見つめて、ううんと首を振った。

「あたしが話して欲しいってお願いしたんだから、いいの。それに、聞いて納得したこともあったし……」
「納得?」
「うん。あたし、今はお姉ちゃんと2人で暮らしてるんだけどね。もしかしたらあたしが誘拐されたことを知ってるのかなって思ったの。昔から、お姉ちゃんにはやけに心配されてたから」

高校2年生になってからすぐの日のことをファイツは思い出した。ワイやサファイアと話し込んでいて連絡するのをすっかり忘れていたわけだけれど、帰宅した途端にホワイトにぎゅうっと抱き締められたのだ。コンビニ強盗に巻き込まれたのかもしれないって思ったのなんて笑いながら言っていたけれど、もしかしたら誘拐された過去があるからホワイトはそんな反応をしたのかもしれない。

「姉……?ファイツくんには姉がいたか?」
「あ。お姉ちゃんって呼んでるんだけどね、本当は従姉なの。ラクツくんには話したことなかった?」
「……いや。知らないな。ボクが忘れているだけかもしれないが」
「そっか……。あたしもね、ラクツくんの家の場所が分からないんだ。あんなにお邪魔したはずなのに、全然憶えてないの」
「ボクが意図的にキミを避けていたからな。互いの家にも行かなくなったんだ、忘れるのも無理もない」
「うん……。こうして話すのも、随分久し振りだね」
「……ああ」

ラクツはそれだけ言って、口を閉ざした。彼が寡黙な方だとわかっているファイツも、何も言わなかった。挨拶をするので精一杯だったはずのファイツは今、昔のように幼馴染と話せていた。ラクツは黙り込んでいるが、その瞳にも声にも冷たさは微塵も感じられない。それがないからこそ、ファイツはラクツとこんなに滑らかに話せているのだろう。自分が誘拐されたなんて事実を聞いてしまうとやっぱり怖いと感じてしまうのだけれど、それでも聞いて良かったとファイツは思う。

(勇気を出して良かった……)

先日ワイにアドバイスをもらって、ファイツは自分が告げた言葉通りによく考えた。何度も何度も考えたけれど、出た答は”やっぱりラクツくんには無視をされたくない”というものだった。彼に無視されたくないと思うし、やっぱり嫌われたくないとも思う。それでもそれを決めるのはラクツなわけで、いくら願ってもどうにもならないことはファイツにだって分かっていた。悲しいけれど、彼が自分を嫌いだったとしたらそれはもう仕方のないことだ。だけど、何も訊かないでいるのは嫌だと思った。自分が何故彼に無視されるのか、自分が何故彼に冷たくされるのか、その理由を知りたかった。
”ラクツくんに直接尋ねてみよう”。そう決めたものの、今度はどうやって彼を捕まえるかについて頭を悩ませることとなった。隣の教室に行ってラクツを呼び出すのが一番手っ取り早いのだが、情けないことにそれは出来そうもない。かといって、剣道部の部室で練習が終わるのを待つのもそれはそれで気が引けた。お金を返さなければならなかった前回とは違って、今回はファイツの勝手な都合なのだ。剣道部の部室まで押しかけるのはやっぱり悪い気がする。こうなれば、ラクツが校外で1人でいるところを狙う他ない。学校でそんな話を切り出すなんてことは、人より周りの目を気にする自分には無理そうだと悟ったからだ。けれどそう都合良く彼に出くわすわけもなく、日が経つにつれてファイツはどうしようと途方に暮れるようになった。偶然ラクツに出くわしたことは前に何回かあったものの、いざ用があるとなる時に限って彼には会わなくなった。何だか理不尽だ、とファイツは天を恨んだ。
それでもそんな天はファイツを見捨てなかったらしい。帰り道、何となく公園に立ち寄ったファイツはブランコに座りながらぼんやりと考え込んでいた。今日も会えなかった落胆から深い溜息をつく。やっぱり無視されるかもしれないけれど、手紙で彼をどこかに呼び出した方がいいのかもしれない。ラクツが自分の前を通りがかったのは、ファイツがそんなことを考え始めた矢先だった。
頭の中に思い浮かべていた人物が突然目の前を通り過ぎたことに驚いて、ファイツは思わず彼の名前を呼んだ。その声に気付いたラクツはこちらを見たものの、何も言わずにそのまま歩き始めてしまった。待ってとお願いしても、ラクツはその願いを聞き入れることはなかった。やっぱりあたしは無視されてるんだ。ファイツはそう思いながらも必死でラクツを追いかけた、この機会を逃すわけにはいかないのだ。いつの間にか本降りになっていた雨で身体が濡れるのも構わず、ファイツはただ走った。あまりに焦ったのと雨で地面がぬかるんでいた為に盛大に転んだけれど、それにも構わなかった。前を歩いているラクツはほんの少しだけ立ち止まった。もしかしたら、思わず上げてしまった悲鳴を気にしたのかもしれない。手に付着した泥を払ってから、ファイツは再び歩き出そうとしたラクツの制服の裾を掴んだ。すぐに制服を前に引っ張られたけれど、その度に掴み直した。例えその所為で今よりもっと嫌われる結果になったとしても、それでもファイツはどうしても訊きたかったのだ。

(それに、ラクツくんに嫌われてなくて良かった……)

本当はもっと落ち着いて話をするはずだったのに、結局は情けないことに大泣きしてしまう結果となってしまった。子供のようにしゃくり上げながら、それでも「無視されるのはやだ」とファイツは告げた。驚いた様子のラクツに、「無視する理由を教えて欲しい」と頼んだのだ。その結果がこれである。確かに自分が誘拐されたという事実はぞっとするものだ。だけどファイツは、恐怖を感じるのと引き換えにもっと大きな何かを手に入れたのだ。

「……ファイツくん」
「何?」
「…………色々と、すまなかった」

長い間黙っていた幼馴染は、まっすぐにファイツの顔を見つめてそう告げた。あれ程怖かったはずの彼の瞳には、もう冷たさの欠片もない。その声にも、氷のような冷たさは微塵もなかった。

「キミに冷たく接したのも、キミを無視したのも……。両方ともボクの意思だ。いっそのこと、ボクがキミに嫌われてしまえばいいと……。そう、思ったんだ」
「……そんなこと、ないのに。あたしがラクツくんを嫌うなんて、絶対ないのに」
「……そうか」
「あたしこそ、ラクツくんに嫌われたかと思った」
「それは、あり得ない。ボクがキミを嫌うわけがない」
「……そっか……」

ファイツは微笑んだ。何だか、ものすごい遠回りをしたような気分だ。

「こんなことなら、もっと早く言えば良かったなあ……。何であたしだけ冷たくされるんだろうってずっと思ってたけどね、それでも何も言わない方が楽だったの。……あたしこそ、あなたからずっと逃げててごめんなさい」
「ファイツくんが謝る必要はない」
「それじゃあ、ラクツくんもあたしに謝ることないよ。だって、あたしの為を思ってくれてたんでしょう?」

この1年間、ファイツはラクツにどうしようもない程の苦手意識を抱いていた。何故自分だけが冷たい目で見られるのかが分からなくて、どうしようもなく怖かった。だけど今のファイツは、ちゃんとその理由を知っているのだ。

「だが、ボクは結果的にキミを傷付けた。それに、キミを泣かせた」
「あ……!あれはね、その……くしゅんっ!」

気にすることないからと続けるはずだったファイツは、自身のくしゃみによって会話を中断させられる羽目になった。男の子の前で、それも数回くしゃみをするなんて恥ずかしいと顔を赤くする。ラクツが心配そうな表情で自分を見つめているのがファイツには分かった。

「長居し過ぎたな。……大丈夫か?」
「うん、大丈夫。……くしゅんっ!」

ファイツは笑って言ったが、その直後に盛大なくしゃみをしてしまった。これでは説得力も何もない、と自嘲する。

「……キミの家まで、送る」
「ええ!?そんな、いいよ!ラクツくんに悪いよ!ラクツくんこそ早く帰らないと。ほらあの、部活もあるんだし!」
「いや。ボクのことよりキミが心配だ」
「う……」
「それに、こんな天気でキミを1人で帰らせるのは……やはり嫌なんだ」
「あ……。雨……」

ラクツの目付きが鋭くなったことに気付いて、ファイツは声を上げた。雨は弱まったとはいえ、未だに降り続いていた。きっと、ラクツはあの日のことを思い出しているのだろう。雨の中で幼馴染を1人で帰らせるという状況が、あの日と重なるのだろう。

「……あたし、誘拐されたりしないよ?」
「何故そう断言出来る。キミは女だ、万が一にも狙われたら逃げ切れる保証はない」
「で、でも……。あたし、傘を忘れちゃったし……!」
「傘ならもう1本ある」
「え?」

言葉通り、ラクツは鞄から折り畳みの傘を出した。シンプルな、真っ黒い傘だった。

「無理強いするつもりはないが……。キミさえ良ければ、ボクに送らせてくれないか」

数秒の沈黙の後で、ファイツはこくんと頷いた。キミは大きい方を使うといいと傘を差し出してくれたラクツにお礼を言って、ゆっくりと立ち上がる。そして、ファイツは幼馴染と並んで歩き始めた。