school days : 050

unforgettable memory
ラクツくんと名前を呼んで、自分の姿に気付くと嬉しそうに駆け寄って。そして、おずおずと手を握って来る幼馴染。自分の姿を見かけても彼女がそんな反応をしなくなったのはいったいいつ頃だっただろうか。はっきりとは思い出せないけれど、多分小学校3年生になる頃には彼女の方から手を握って来ることはなくなっていたように思う。だけど、すれ違えば話す程度にはまだ仲が良かった。手こそ繋がなくなったけれど、駆け寄っても来なくなったけれど、それでも嬉しそうに話しかけて来るのは変わらなかった。
ちょうどその頃からだっただろうか、ラクツは女の子に呼び出されるようになった。指定された場所に行ってみれば、決まってそこには顔を赤くした女の子が緊張した面持ちで立っていて。そして、決まって『好きです』と言われるのだ。勇気を振り絞ったであろう女の子の告白を、ラクツは丁重に断った。『その気持ちはすどく嬉しいけど、ボクはまだ子供だから』と言えば、泣きそうになりながらも頷いてくれた。誠意には誠意を持って返すべきだと思うし、その気がないのに期待を持たせるのは正直残酷だ。慎重に言葉を選びながら、それでもはっきりと告白を断ったラクツだけれど、自分のその態度が却って女の子達に好意を持たれる要因になるとは予想外だった。クラスメイトのみならず、時には上級生の女子にまで『大人びていてかっこいい』とラクツは騒がれるようになった。ついでに告白される回数も増えたし、バレンタインデーには数多くのチョコレートをもらうようになった。しかし、そんなことはラクツにはどうでも良かった。碌に話したこともない大多数の女子より、たった1人の女の子の方が、ラクツにはずっと大切だったのだ。
自分にとって大切な存在であるファイツの様子がおかしいことに気付いたのは、ラクツが月日が経つにつれて増える女の子達の告白に少々辟易していた時だった。元々ファイツはおとなしくて、どこかおどおどした性格だった。しかし、それにしても彼女の様子はおかしかった。話しかければきちんと答えるものの、過剰に周囲を気にする素振りを見せていた。まるで何かに怯えているかのように、びくびくとしていた。もちろんラクツはファイツに尋ねた、どうしたのかと訊いた。だけどファイツは『何でもない』と繰り返すばかりで、その理由を話してはくれなかった。何度訊いてもそう繰り返すので、ファイツから直に訊きだすことは諦めた。その代わり、ラクツは彼女の様子を注意深く観察した。
ファイツが何人かの女の子から嫌がらせを受けているのだと分かったのは、それからすぐのことだった。嫌がらせの内容は無視をされるとか悪口を言われるとか、主に精神的なものだった。その嫌がらせの首謀者は、かなり気が強い性格をしていた。気が弱くて自己主張をあまりしないファイツは、彼女にとって格好の標的だったのだろうか。その女の子達と連れ立って教室から出て行ったファイツが心配で、ラクツは少し間を置いてから彼女達の後を追った。ファイツが嫌がらせを受けるようなら、偶然を装ってその場に介入しようと考えたのだ。案の定、体育館の裏でファイツは複数人の女の子達に何かを言われていた。どのタイミングで介入しようかと機を窺っていたラクツは、彼女達が告げた言葉の内容を聞いて目を見開いた。首謀者の女の子は、『ラクツくんといつも一緒なあんたが気に食わない』とファイツに向かって吐き捨てるように言ったのだ。
ファイツが嫌がらせを受けている原因が自分にあるということに気付いたラクツは、その翌日にあの場にいた女の子達全員を呼び出した。何かを期待している女の子達に向けて、『人に嫌がらせをする人間は嫌い』だとはっきり言ってやった。事実、まったくもってその通りだった。火に油を注ぐ結果になるのは予測出来たのでファイツの名前を出すわけにはいかなかったが、それでも思い当たることがあるのか彼女は項垂れていた。首謀者の彼女は、ファイツに嫌がらせをする以前にも複数の女の子をいじめていたのだ。冷ややかな物言いに耐え切れなかったのだろう、彼女はついには涙を零して『ごめんなさい』と謝った。謝る相手が違うだろうと言ったら彼女は更に泣いたけれど、それには構わなかった。
自分が吐き捨てたことでファイツへのいじめがエスカレートするのではないかと危惧したが、ラクツの心配は杞憂に終わった。ファイツは何も言わなかったが、日に日に明るくなっていくのがラクツにははっきりと分かったからだ。それには安堵したけれど、ラクツは気にかかることがあった。ファイツは自分と仲がいいという理由だけで嫌がらせを受けたのだ。自分はファイツの傍にいるべきではないのかもしれないという考えが何度も頭を過ぎった。だけど、すぐに決断は下せなかった。ラクツもファイツも、互い以外に特別仲のいい友人がいるわけではなかった。ファイツから離れるということは、互いが1人になってしまうということになる。孤独が苦ではなかったラクツは別にそれでも構わなかったのだが、ファイツはそうではないのだ。自分から人に話しかけるのが苦手な彼女のことだ、おそらく本当に独りになってしまうだろう。
その考えに至ってしまうと、どうしても彼女から離れるということが出来なかった。いじめの一件があってから更に控えめになったファイツは、それでもまだ自分に笑いかけてくれる。ラクツはその笑顔を見る度に、彼女を護ってやりたいと子供ながらに思ったものだ。自分が上手く立ち回れば、きっと彼女を護れるのだとラクツは思っていた。本当に、本気でそう信じていたのだ。……あの日までは、ずっと。
その日は、雨が降っていた。梅雨入り前だというのに大雨で、じめじめとしていて鬱陶しい日だった。いつも通り授業を受けて、そしていつも通りの時間に帰ろうとした時、昇降口で立ち尽くしているファイツが目に留まった。『傘を忘れちゃったの』と困った様子で言うファイツの手を引いて、有無を言わせず自分の傘に入れた。俗に言う相合傘だ。ラクツとファイツの家はそれ程離れていないこともあり、ファイツを家まで送り届けてから帰宅しようと思っていた。1つの傘に2人の男女が入っている光景を通りがかった何人かの子供にからかわれたものだが、ラクツは平然としていた。ただ、ファイツは別だった。ラブラブだと冷やかされる度に、困った様子で自分の顔を見ていた。顔を赤くして、恥ずかしそうな素振りを見せていた。いつも一緒にいた幼稚園時代はラブラブだとからかわれても嬉しそうに頷いていたファイツは、成長するにつれて恥ずかしがるようになっていたのだ。
ラクツもファイツも、しばらくの間何も言わずに歩いた。相合傘をしたまま、奇妙な沈黙が2人の間に流れた。その沈黙を破ったのはファイツだった、『ごめんね』と申し訳なさそうに告げたのだ。傘を指しているのではなく、冷やかしを受けることに対して謝ったのだとラクツは察した。『ファイツが謝ることはない』と言ってみたものの、返って来たのは『でも、あたしなんか』などという自身を否定する言葉だった。いじめられたことでそんな考えを持ったのか、ファイツは随分と自分を卑下するようになった。謙遜などではなく卑下だった。一番傷付いたのは紛れもなくファイツなわけで、だから優しい言葉をかけてやれば良かったのに、ラクツはそれをしなかった。どういうわけか無性に腹が立ったし、どうしようもなく苛立った。それを自分の中だけに留めておくこともせず、あろうことかファイツにぶつけたのだ。『何でそう自分を必要以上に卑下するんだ』なんて、声を荒げてファイツに言ってしまったのだ。目を瞬いたファイツは泣きこそしなかったものの、今にも涙が零れそうな声で『ごめんなさい』と謝った。ファイツに声を荒げたことなんてなかったラクツは、謝りもせずに口を閉ざした。2人の間に再び重苦しい沈黙が流れたが、またもファイツによってその沈黙は破られた。『ここまでで大丈夫』と小さく言って、ファイツはラクツの傘から出てそのまま走って行ったのだ。その彼女を追えなかったラクツは、自分の家へと向かった。明日になったらちゃんと謝ろうと思いながら。
『お宅の家にうちの子がお邪魔していませんか』との電話がかかって来たのは、その日の夜になってからだった。その電話を受けたのはラクツで、電話をかけてきたのはファイツの母親だった。『仕事から帰って来たばかりなんだけど、まだあの子が帰ってないのよ』と焦ったように話す相手の言葉を聞いたラクツも焦った。ファイツはどこかに行く時は、必ず行き先を書き置きしてから出かけるのだ。そのメモがないと聞いて、ラクツはもっと焦った。まさかあれから家に帰っていないのではないだろうか。もしかしたら事故に遭ったか、もしくは事件に巻き込まれたのかもしれない。何故ファイツを追わなかったのかと後悔しながら、ラクツは『父に話してみます』とだけ言って電話をいったん切った。当時から刑事として忙しく事件に追われていた父親のハンサムは幸いなことにちょうど手が空いていたらしく、すぐに動いてくれた。どうかメモを書き忘れただけであって欲しい、無事でいて欲しいと願いながら、ラクツはひたすら報せが届くのを待った。1分が、何時間にも感じられた。
ファイツの母親から電話がかかって来たのは、その日の夜中近くだった。憔悴しきった声で『あの子が帰って来たわ』と告げられて、ラクツは受話器を持ったままその場に座り込んだ。しかし安堵したのも束の間で、続けて告げられた『あの子は誘拐されたの』という言葉にラクツの心臓は鷲掴みにされた。誘拐されたファイツは疲労の為か高熱を出して、警察に助け出されてすぐに救急車で病院に搬送された。次の日、学校が終わるとすぐにラクツはファイツを見舞いに行った。授業の内容も、入院したファイツの様子を訊いて来るクラスメイトも何もかもどうでも良かった。息を切らしながらファイツがいる病室に入ると、眠っている幼馴染の姿が目に入った。見たところ、どこも怪我をしているようには見えなかった。『ラクツくんがお父さんにすぐに知らせてくれたから助かったのね、ありがとう』と既にいたファイツの母親に涙ながらに言われたけれど、とてもじゃないが素直には喜べなかった。静かに眠り続けている幼馴染の姿を見つめながら、ラクツは『いいえ』とだけ答えた。ファイツは無事に帰って来たけれど、自分の所為で誘拐事件に巻き込まれたのだ。そう思うと、それしか言えなかった。
ファイツが目覚めたのは、助け出されてから3日が経った頃だった。高熱は続いていたので未だに入院しているのだが、それでも目覚めたことは確かだ。彼女を見舞う為に学校帰りに毎日病院に行っていたラクツは、ファイツが好きな桃を持参して病室の扉をノックした。『はい』と聞こえた声は、確かに幼馴染の声で。扉を開けると、横になっているファイツの姿が目に入った。桃に気付いて『わざわざありがとう』と笑ったファイツに、ラクツは深く頭を下げた。『すまない』と謝ったラクツに、わけが分からないと言った様子で『何のこと?』と尋ねた彼女は、やはりわけが分からないという顔をしていた。恐怖の所為か高熱の所為か、ファイツは誘拐された日の記憶を綺麗さっぱり失くしてしまったらしい。助け出されたファイツは両手両足を縛られたまま、1人で車の中に残されていたのだと父親が苦々しい顔で教えてくれた。誘拐犯は逮捕されたものの、記憶がないファイツからは事件に関することは何も訊けるはずもなかった。『あの日の記憶は忘れてしまった方がいい』と父親もファイツの母親もラクツに言ったし、ラクツ自身もそう思った。しかしラクツがその日を忘れることは永遠にないだろう。ファイツが忘れても、ラクツは忘れられるはずもなかった。
退院してから少し日を置いて登校したファイツに、誘拐事件について尋ねるクラスメイトは誰もいなかった。無理に尋ねるなと担任が言ったからなのだが、そう言われずともラクツは事件の日を蒸し返すことは決してしなかった。だけど、ラクツはファイツに対して今まで通りに接するのは止めようと思った。幼馴染と、少し距離を置こうと思った。自分がファイツの傍にいたら、きっとまた彼女を傷付けるのではないだろうか。そんな考えが頭から消えなかった。自分は彼女の傍にいるべきではないとも思った。ラクツにとっては都合がいいことに、それまで男女混合で遊んでいたいくつかのグループもそれぞれが皆同性同士で固まって行動するようになった。思春期に差しかかった所為だろう、男女で行動する者がいると、決まって彼らは今まで以上に冷やかされた。
小学5年生になった時に行われたクラス替えで、ラクツはファイツとは別のクラスになった。それも利用して、ラクツは少しずつファイツから距離を置いて行った。気がかりなのは登下校時に再びファイツが巻き込まれるかもしれないということだけだったが、教師や父母がパトロールをしてくれたおかげでその心配もなくなった。おまけに高学年になったファイツには、新しい友達が出来たらしい。女の子の友達だ。男の自分がいつまでも彼女の傍にいるわけにもいかないし、ちょうどいい機会だと思った。ラクツは極力ファイツに話しかけないようにしていたし、ファイツもファイツで周りの目を気にしているのかすれ違っても話しかけて来ることはなかった。自然と2人の距離は離れていったが、それでも念を入れたかったラクツはファイツとは違う中学に行こうと決めた。自分の所為で彼女が傷付くのはもう嫌だった。それから月日が流れて、自分とファイツは卒業式の日を迎えた。けれど、その日でさえ碌に会話もなかった。きっとラクツがファイツと以前のように話すことはもうないだろう。
だけどもし再び彼女に会うことがあって、そして彼女が話しかけて来たならば。その時は彼女に冷たく接しようと、ラクツは自分自身に固く誓った。そしてその決意が実行に移されるのは、それから数年後のことだった。