school days : 042

どうして……?
ポケスペ学園には、遠方から通う生徒の為の寮が併設されている。門限は21時と割と遅く、寮に通っている生徒がありがたいと話しているのをファイツは耳にしたことが何回かある。そしてそれは、自宅通学をしているファイツにとっても同じだった。流石に21時までとはいかないけれど、寮に入っている生徒の為を思ってか図書室が閉まるのが遅いのだ。20時に図書室が閉まるというのは、高校ではかなり遅いのではないだろうか。時々図書室で勉強しているファイツにとって、これはかなりありがたいことだった。

「今日はこのくらいにしようかな……」

机の上に広げていた教科書と参考書、おまけにノートをパタンと閉じたファイツはうんと大きく背伸びをした。現在の時刻は19時半、つまりファイツはもう3時間半もここにいたことになる。今日は人が少なかったおかげでかなり集中出来た。帰りが遅くなりそうだとホワイトから言われていたファイツは、今日は図書室で勉強しようと決めていたのだ。別に家でも出来るけれど、あの家で1人だと何となく淋しい気持ちになる。その点学校はまったくの無人にはならないところがいい。外で部活をしている生徒達の声が図書室まで聞こえるけれど、それだって窓を閉めてしまえば然程気にならなくなる。むしろちょうどいい環境音になると言っても過言ではない。今日は調子が良かったと一息ついて、ファイツは立ち上がった。カーテンを閉めるついでに大きな窓から校庭を見下ろしてみる。つい30分程前までは部活でグラウンドを使っていた生徒達の声が聞こえていたが、今はもう誰もいない。

(そうだよね……。もう夜の7時半だもんね)

今は5月の半ばだけれど、流石にこんな時間になると外は暗くなる。何だか少し怖くなったファイツは、机の上に置いていた私物を慌てて片付け始めた。思えばこんな時間になるまでここで勉強したことはない。もう少し早く帰れば良かったかもなんて少しだけ後悔しながら、ファイツは鞄を持って図書室を出た。廊下に反響したのか、ドアを閉めた音がやけに大きく聞こえた。

「うう……。夜の学校って、やっぱりちょっと不気味……」

電気はしっかり点いているけれど、窓の向こう側はもう真っ暗になっていた。それが逆に怖くて、ファイツは思わず早歩きになった。

(こんな時、ワイちゃんとサファイアちゃんがいてくれたらなあ……)

あの2人がいてくれたら夜の学校なんて少しも怖くないのにと思う、情けないけどやっぱり思う。だけどファイツは今1人きりなわけで、はあっと大きく溜息をついた。なるべく廊下を通り抜けてしまいたいと思いながら、ファイツは夜の学校を歩いた。

「……あれ?」

廊下の端の教室に明かりが灯ったのに気が付いて、思わず立ち止まる。あれは多分2年A組の教室だ、見間違いでなければの話だけれど。
 
(……Aクラスってことは、N先生がいるのかも!)

心の中に希望が湧いて来て、思わずぐっと拳を握った。もし彼だったらどうしようなんて逸る気持ちを何とか抑えて、ファイツは更に急いだ。この時間まで残っているのは担任である可能性は充分にある、もしかしたら少し話が出来るかもしれない。期待と緊張で胸をどきどきさせながら、A組の教室が見えるところまでやって来たファイツはそろりと中の様子を窺った。残念ながら、そこにいたのはファイツが心に思い浮かべた人物ではなかった。

「ラクツくんだ……」

ファイツは思わず彼の名前を呟く。その声は小声だった上にラクツは背中を向けていたので、彼がこちらに気付くことはなかった。いつの間にか、彼の名前を口にすることに抵抗がなくなっていた。ファイツはその事実に少しだけ微笑んだ。幼い頃のような、とても仲がいい幼馴染という関係に戻ったわけではないけれど、それでも挨拶は返してくれる。それを、ファイツは知っているのだ。あの人ではなかったことはやっぱりちょっと残念だけれど、それでも彼は自分の幼馴染なのだ。他の生徒だったら、絶対にそのまま通り過ぎていたと言い切れる。だけどA組にいるのはラクツで、そして自分はそれに気付いているわけで……。

(……お疲れ様って、言ってもいいよね?)

ファイツは中学時代は文化部だったし、高校では部活に入っていない。だけどワイとサファイアは運動部所属で、2人の様子から運動部はハードだということはファイツにも分かる。特にサファイアが所属している陸上部は剣道部、空手部と並んで練習が厳しいことで有名なのだ。A組にいる彼がこの時間に学校に残っているのだって、きっと部活をしていたからだろう。もしかしたら忘れ物でも取りに来ただけで、これからまた部活に戻るのかもしれない。そんな彼にお疲れ様と言うのはおかしくないはずだ。これだって立派な挨拶じゃない、と自分に言い聞かせたファイツはぎゅっと拳を握った。ラクツに挨拶をするのはおはようと言った日以来だ。緊張しながらも、大丈夫だと自分に言い聞かせた。……だって、彼は自分を無視しない。

「あの……!ラクツくん!!」

思ったより大きな声が出て、ファイツは手でぱっと口を覆った。ノートを片手に持ったラクツがゆっくりと振り返る。こちらに向かって来るラクツの目が近付くにつれて途端に鋭く、そして冷たくなっていくのがはっきりと分かったけれど、それでもファイツは大きく息を吸った。

「ラクツくん、こんな時間まで……お、お疲れ様……っ!」

ラクツの顔を真正面から見つめて、ファイツはそう言った。やっぱりものすごく緊張した所為でどもってしまったけれど、それでもラクツにはちゃんと聞こえたはずだ。

(……良かった、言えた……!)

まだ高鳴っている胸を手で押さえながら、ファイツは安堵の溜息をついた。大丈夫、ラクツくんはあたしを無視しない。心の中で呪文のようにそう唱える自分のすぐ横までラクツは近付いて来て、そしてそのまま横を通り過ぎて行った。

「……え」

目の前で起こったことが信じられなくて、ファイツは弱々しく呟いた。確かに目が合ったのに、自分の声はちゃんと届いていたはずなのに、ラクツはそのまま横を通り過ぎて行ったのだ。その事実が意味することなんて、たった1つしかない。

(あたし……。ラクツくんに、無視……されたの……?)

遠くなる幼馴染の背中を為す術もなくただ見つめながら、呆然とその場に立ち竦んだ。眼前が真っ暗になった気がして、ファイツは彼の姿が見えなくなるまで一歩も動けなかった。