school days : 041
マイペース
「あー!チェレンー!!」大きく手を振ってこちらに駆け寄って来る幼馴染に気付いたチェレンは、少しだけ眉根を寄せた。自分達が今いる場所は廊下なのだ、掲示板にはご丁寧にも廊下を走るなという内容の貼り紙がしてある。まあ小学生ならいざ知らず、高校生にもなってそんな貼り紙を気に留める者なんていないだろう。それでもクラス委員を務めるチェレンにしてみれば、やっぱり見過ごせないことだった。それでなくても昔からそそっかしかった彼女はよく転んでいて、そしてその度にチェレンが絆創膏を貼るのがお決まりだった。そんなわけで、チェレンは今でもベルがこうして走って来ると心配してしまうのだ。
「こら、ベル。廊下は走っちゃダメだよ」
「えへへ……。ごめんねチェレン」
ベルは一応謝ったけれど、その顔はとても反省しているようには見えなかった。にこにこと笑いながら謝罪を口にする彼女に、彼女は昔から変わらないなとチェレンは思った。先程大きく手を振ったのも名前を叫ぶ言動も、本当に昔のままだ。もっともそのベルをこうやって心配する自分も、やっぱり変わっていないのだけれど。
「今から部活?」
「うん」
「そっかあ。新学期になって1ヶ月が経ったけど、どう?剣道部の主将は!」
「主将ならもう半年くらいやってるじゃないか。まあ、新学年になってからも色々と大変だけどね」
「相変わらず見学に来る女子が多いんだよね。しかもマネージャーになりたいんじゃなくて、みーんなラクツくん目当てで来るんでしょう?」
「……まあね。ラクツも迷惑をかけますって謝って来たよ、苦労してるのは彼だって同じなのにね」
「ラクツくんってやっぱり大人びてるよねえ。……あ。でも、大人びてるのはチェレンも同じだと思うよ?」
そう力説したベルは、手を合わせて笑った。のほほんとそんなことを言い切った彼女に、チェレンは苦笑した。ブラックとベル、お騒がせな2人の面倒をまとめて見て来たチェレンは幼い頃から周りを注意深く観察するようになったのだ。その癖は、高校生になった今でも変わっていない。
「すごいよね、ラクツくんの人気って。もしかしたら、チェレンが前に言ってたOBと同じくらいの人気かもしれないんだっけ。えっと……確かレッド先輩、だっけ?」
「グリーン先輩だよ」
「あ、そうだったね。そのグリーン先輩もすごかったんでしょう?女子にモテモテで」
「……うん、すごかったよ」
「ねえ、チェレンも女子にモテたいって思う?」
「そりゃあ好かれれば嬉しいけど……。やっぱりラクツの様子を見てると、程々がいいって思うな」
「そっか……。でも、あたしはチェレンのことが好きだよ」
ベルの突然の爆弾発言に、チェレンの思考はいったん停止した。だけどそれもほんの少しの間だけで、すぐに我に返る。ベルはいつもこうだ、自分でなければ勘違いしてしまいそうなことを平気で口にするのだ。今の”好き”にだって、きっと深い意味はないに違いない。その証拠に、ベルはまったく照れもせずににこにこと笑っている。一瞬どきりとした自分がバカみたいじゃないか、とチェレンはこっそり悪態をついた。
(それにしても……。この場にベルのお父さんがいなくて良かった)
幼馴染なのはブラックも一緒なのに、何故だかベルの父親に睨まれることが多いチェレンはホッと安堵した。彼が今のベルの問題発言を聞いたらと考えると、何だか冷や汗が出る思いだった。それでも彼女の言葉は素直に嬉しかったから、「ありがとう」と告げる。ベルも「どういたしまして」なんて言いながら、やっぱり笑っている。
「……それじゃあ、ボクはそろそろ行くよ」
「あれ?もう行くの?」
「うん。ボクは主将だから、皆よりなるべく早めに行っておきたいし」
「やっぱりチェレンって真面目だよねえ~。あたしなんて、そんなの気にしたことなんか一度もないよ?」
「キミはもう少し気にするべきだと思うよ。今日も習い事なんだろう?遅れるとまずいんじゃないのかい?」
「……うん。今日はね、バイオリンなの。それで明日はピアノなんだ」
そう口にしたベルは相変わらず笑っていたけれど、その声には先程までの明るさはなかった。少しだけ沈んだ表情で「来週はギターとフルートなの」と告げる。
「大丈夫かい、ベル。キミのお父さんに頼んで、習い事の数を少し減らしてもらった方がいいんじゃないのか?」
「あ、それは大丈夫!……ほら、あたしはやりたいことが決まってないから。将来の夢もまだ全然決めてないし、別に習い事が嫌なわけじゃないし!」
いいのいいの。そう言いながら手をひらひらと振って、ベルは続けた。
「パパがあたしの為を思って習わせてるのは、ちゃんと分かってるから。だから大丈夫だよ」
「……ベルのお父さんは、本当にキミを大切に思ってるからね」
チェレンとベル、そしてブラックは幼馴染だ。3人が3人共を、性格はおろか家の事情に至るまでよく知っている。特にベルの父親の過保護っぷりは近所でも有名で、それは今でもまったく変わっていないのだ。当事者であるベル本人も、父親の愛情は痛い程よく理解しているのだろう。彼女にしては珍しいことに、こくんと控えめに頷いた。
「それは分かるんだけどね、やっぱりたまに思うんだ。あたしだけこんなんでいいのかなって。……だって、ほら!ブラックはサッカー選手で、チェレンは先生でしょう?おまけにホワイトちゃんは芸能事務所の社長さんだし……。あたしだけ、やりたいこととか将来の夢とか、そういうのが何もないから……」
「ベル……」
「えへへ。ごめんね、こうして愚痴を言ってもしょうがないよね?」
「……そんなことはないと思うよ。そうすることで客観的に自分自身を見つめられるし、誰かに話を聞いてもらうのだって必要だよ」
「ありがとう。やっぱりチェレンって、先生に向いてると思うな。人の話をちゃんと聞いてくれるし、きっといい先生になると思うよ」
「……そう、かな」
チェレンは頭を掻いた。こうやって面と向かって言われると、どこか照れ臭いものがある。
「うん。話を聞いてもらったら、確かにちょっとすっきりしたかも」
「そう?それなら良かったよ」
「……ねえ、チェレン。あたしに何か出来ることがあったらいつでも言ってね!」
「な……。何だよ、急に」
「急に、じゃないよ。あたし、ずっと思ってたんだ。チェレンはいつだって、あたしとブラックのことをよく見てくれてたよね。だからかな、あたしはついついチェレンに頼っちゃうけど……。チェレンにだって悩みとかあったりするよね?」
「……まあ、それはね」
「だよね……。だからあたしに出来ることがあったら言ってね。あたしだって、チェレンの力になりたいもの!」
そう意気込んだベルに、チェレンは目を細めた。
「……うん。その時は、遠慮なく頼らせてもらおうかな」
「おっけー!それじゃあ、あたしもそろそろ行くね。引き留めてごめんね、部活頑張ってね!」
「ああ!」
そしてベルはこちらに向かって来た時と同様に、大きく手を振って去って行った。チェレンは彼女の姿が見えなくなるまで、手を上げてその場に留まっていた。
(……ボクだって、同じなのにな)
自分ばかりが頼っていると彼女は言うけれど、チェレン自身もそんな彼女に幾度となく助けられている。彼女と接した後は、どうしてか力が抜けるのだ。いい意味で力が抜けるとでも言えばいいのだろうか、余計な力みが取れて緊張が和らぐとでも言えばいいのだろうか。部活に行く前はいつも気が張っているのに、気付けば肩の力がいい具合に取れていた。
(今日の部活は、いつも以上に心にゆとりを持ってやれそうだ)
のほほんとしたベルは、とにかくマイペースだ。そんな彼女に振り回されることも多いけれど、それでもベルの存在は確かに自分の力になっている。それに気付かないベルはやっぱりマイペースだななんて思いながら、チェレンは部室へと向かった。