school days : 037

おはよう
優しい黄緑色の髪を持つ人物が校門前に立っているのが見えて、角を曲がったファイツの心臓はどきどきと早鐘を打った。見間違えるはずがなかった、あれはファイツの大好きな人だ。

(N先生だ……!)

ポケスペ学園では時々教師が校門前に立つことがある。チャイムが鳴り終わるまでに校門に入らないと、日によっては遅刻確定となってしまうわけだ。幸いファイツは余裕を持って登校するように心がけているので、未だに遅刻をしたことはないのだけれど。

(ああ、緊張する……)

胸を押さえて深呼吸してみたけれど、やっぱり鼓動は落ち着いてはくれなかった。それでも何とか校門の近くまで歩を進めたファイツは、ぎゅっと拳を握った。

「……あ。おはよう」

柔らかく目を細めて、自分に気付いたNが笑いかけた。彼は相変わらず優しい、それは穏やかな声をしている。

「あ、あの……!お……おはようございます、N先生っ!」

やっぱりどもりながらも挨拶を返して、そして顔を上げたファイツは固まった。何しろ見上げた視線のすぐ先には大好きな人の顔があるのだ、どうしたってこうなってしまう。おまけに顔が真っ赤になったのが自分でも分かった。けれど、それだって仕方ないとも思う。

「……どうかしたのかい?」
「えっと……!な、何でもないです……っ!」

挙動不審になったファイツのすぐ横を、何人かの生徒達がすり抜けるようにして通り過ぎて行くのが分かった。これ以上ここにいるわけにもいかないので、後ろ髪を引かれるような思いで頭を下げた後にその場から離れた。ゆっくりと教室に向かうファイツの背後から、女子生徒がNに挨拶をする声が聞こえて来た。Nがその挨拶に同じように返して、その生徒と何か言葉を交わしているのが聞こえて来る……。

(……いいなあ)

ファイツははあ、と溜息をついた。元々緊張しやすい性格というのもあるが、ファイツはあんな風にNと滑らかに会話したことなんてなかった。どもらないようにしようと思えば思う程、却ってつっかえてしまうのだ。だけどこれでも最初の頃に比べたら随分と成長した方だ、何しろ始めは彼の顔すらまともに見ることが出来なかったのだから。

(ワイちゃんとサファイアちゃんなら、こんなことで悩んだりしないんだろうなあ……)

親友達はファイツのようにどもったりつっかえたりしないし、恥ずかしがることもないのだ。そこが可愛いなんてワイもサファイアも言ってくれるけれど、本当にこのままの自分でいいのかなとファイツは思う。『恋愛は押して押して押しまくらないと!』と言ってくれたワイの言葉が脳裏に浮かんだ、確かにこのままでは彼とろくに会話も出来ないまま卒業してしまいかねない。せっかくポケスペ学園に入学出来たのに、それではあまりにもったいない気がする。朝っぱらからNと話せたことは嬉しいのだけれど、今度はもっともっと話したいと思ってしまう。彼の姿を視界に入れるだけでも幸せだった少し前を思うと、かなり欲張りになった気がする。

(でも、どうやったらN先生と上手く話せるようになるんだろう……。やっぱり数を重ねればいいのかなあ……)

靴を履き替えて廊下を歩きながら、ファイツは思案した。例えば問題を反復して解く時のように、Nに何度も話しかけてみればいいのだろうか?学校がある日はNに毎日会うようにすれば、先程の女子みたいに滑らかに話せるのだろうか。だけどファイツのクラスはB組で、そして彼はAクラスの担任なのだ。担任でもないのに毎日職員室に押しかけるというのも何だか気が引けてしまう。質問を口実にして彼に会う手もあるのだけれど、やっぱり悪い気がする。

(……うん、まずは挨拶をちゃんと言えるようにしよう)

兎にも角にも、どもらずに挨拶が言えるようにならなければNと会話なんて夢のまた夢だ。まずは挨拶から始めて、少しずつでもいいからNと会話することに慣れよう。そう決意したファイツは頑張らなくちゃと気合を入れて、階段の手すりをぐっと握った。

「あっ……!」

俯き加減で階段を上っていたからか、それともNのことで頭がいっぱいになっていた所為だろうか。ぶつかりこそしなかったけれど、危うく前を歩いている生徒にぶつかりそうになったファイツは思わず声を上げた。ちゃんと前を見ていなかったのだ。

「ご、ごめんなさ……」

ファイツはちゃんと謝ろうとした。だけど自分が誰にぶつかりそうになったのかに気付いて、続くはずだった言葉は途中で消えた。1段上にいる幼馴染が、振り向いた格好のままファイツを見下ろしている。ラクツは無言のままで一瞬だけ目を閉じた。こちらを見つめるその瞳が、瞬く間に冷たくなっていく。

(……やっぱり)

ああ、やっぱりそうだったとファイツは思った。ラクツはやはり、自分にだけ冷たい視線を浴びせて来たのだ。

(ど、どうしよう……)

底冷えするような視線をまともに浴びたファイツは震えた。どうしようと思った、やっぱり怖いとも思った。だけど同時に、淋しいとも強く思った。あんなに仲が良かった幼い日々のことを、つい先日に追憶した所為だろうか。あの頃の彼は自分に微笑みかけてくれたのに、今はその兆しすらない……。唯一の例外は、本屋で会ったあの時だけだ。あの日の彼は、ファイツがよく知っている彼だった。
怖かったけれど、戸惑いもしたけれど、それでもファイツは嬉しかった。ファイツがようやくありがとうと言えたあの日、彼が応じてくれたのも嬉しかった。そして現在進行形で彼に冷たい目で見つめられているという事実が、どうしようもないくらい淋しかった。

(やっぱり……。今のままじゃ、嫌だな)

ファイツは理由を知りたかった。何故彼が自分にだけ冷たいのか、そうなったきっかけを知りたかった。だけど”どうしてあたしにだけ冷たくするの”とは、今はまだ訊けそうもなかった。その代わりにというわけではないけれど、ファイツは自分を見据える幼馴染の顔を真正面から見つめ返した。

「ぶつかりそうになって、ごめんなさい」
「……いや。構わない」

やっぱり自分を無視しなかったラクツは言葉少なにそう言うと、踵を返した。そのまま階段を上がろうとする彼を、ファイツは慌てて呼び止めた。

「ラ、ラクツくん……!」

彼は何も言わなかったけれど、それでもわずかに振り向いた。そんなラクツにちゃんと届くようにと、ファイツは深く息を吸った。

「お……。おはよう……っ!」

たった4文字の言葉を口にしただけなのに、それだけでどっと疲れた気がする。実際すごく緊張した、幼馴染に挨拶するくらいでこんなに緊張していてはダメだと思った。幼い頃は簡単に言えていたのに、今はそれがとても難しいことのように感じられてしまう。

(でも……。ラクツくんにおはようってちゃんと言えるようになったら、N先生にだってまともに言えるようになるかも……!)

それに、彼はファイツの幼馴染なのだ。どもらずにNに挨拶が出来るようになる目的を達成する為のついでなんかではなくて、やっぱりきちんと挨拶がしたいと思った。心のどこかではそう思いながらも今日まで逃げていた自分はどうしようもないくらい臆病だとも思うが、今はおはようと言うだけで精一杯だ。

(……うん、これからはラクツくんにもちゃんと挨拶しよう)

きっと……。きっと、彼も返事をしてくれるはずだ。挨拶がすんなり出来るようになれば、前みたいに彼に話しかけることが出来るかもしれない。そう考えたファイツは足を前に出した。挨拶をしてから今まで無言だったラクツとすれ違う瞬間、彼の「おはよう」の言葉がファイツの耳に確かに届いた。