school days : 035

遠い記憶
テレビから聞こえて来た”幼馴染”の単語に、ホワイトと一緒にソファーに並んでドラマを見ていたファイツは思わずびくりと反応した。今テレビ画面に映っている男女は幼馴染の関係で、先週の放送では雨に打たれながら別れるシーンで終わっていた。幼馴染と聞くと、現実にいる自分の幼馴染の姿をどうしても連想してしまう。

「ファイツちゃん、どうしたの?」
「な、何でもないの!」

ファイツがそう言うと、ホワイトは再び画面に目線を戻した。深く追及されなくて良かったと胸を撫で下ろしたファイツもまた、一緒にドラマを眺める。普段なら勉強をしている時間だけれど、このドラマをやる日だけは見終わってから勉強しようと決めている。この2人は最後にはどうなってしまうのだろう?だけど幼馴染の言葉が出て来た途端、そんな気持ちはどこかへ飛んで行ってしまったらしい。もうお決まりになっているナレーションをぼんやりと聞き流しながら、ファイツは幼馴染を思った。やっとのことでありがとうと言うことは出来た、彼も「ああ」と言ってくれた。あれから彼と話したことはない、廊下ですれ違ってすらもいない。だからラクツが自分にどう接して来るかがファイツには分からないのだ。

(やっぱりあたしにだけ、また冷たい目をするのかな……)

未だ心にしっかりと刻まれている、あの本屋での出来事。あの日だけは、ラクツは自分に冷たくなかった。だからファイツも彼と話せたし、仲のいい幼馴染に戻った気すらしたのに。しかし次に学校で会った時はまた元の冷たい彼に戻っていたのだ。しかも、一緒にいた男子2人にはそんな素振りなんて見せなかった。どうしてだろうか、ラクツはファイツに対してのみあのような瞳を向けて来るのだ。

(ラクツくんって、分かんない……)

ラクツは意味のない行動は決してしない人間だと、ファイツは知っている。自分にだけ冷たく接するのにだって、きっと理由があるはずなのだ。やっぱりファイツが忘れてしまっただけで、ラクツと過去に何かあったのかもしれない。そう思ったファイツは何とか心当たりはないかと思い出そうとして、だけど上手く出来なかった。例えばラクツと喧嘩したとか、そんなことすらも思い出せない……。

(……どうして思い出せないんだろう)

ソファーに座っているホワイトに気付かれないように、ファイツは心の中でそっと息を吐いた。ワイやサファイアだけでなく、ホワイトにすらもラクツとのことを話していなかった。訊かれていないのをいいことに、ファイツはずっと黙ったままなのだ。話してしまったら最後、3人はきっと自分を心配してしまうだろうから。特にホワイトはこの前の一件があった所為なのか、これまで以上にファイツを気にかけるようになった。その心配性なホワイトが、弾んだ声で話しかける。

「ああ、やっぱりこのドラマって面白いわ!ね、ファイツちゃん!!」
「……う、うん。そうだね」

正直ドラマの内容はまったくと言っていい程頭に入っていなかったのだが、ファイツは慌てて相槌を打った。見ると、テレビ画面にはCMが映し出されていた。ぼんやりと考え事をしているうちに、もう15分も経ってしまっていたらしい。明日、学校でワイにでも内容を聞こうとファイツは思った。自分だけでなくワイもこのドラマに夢中なのだ、ただテレビがあまり好きでないサファイアはまったく眼中にないらしいのだけれど。

「……あ、そうだ。すっかり忘れてたわ、今がCM中で良かった」

ポンと手を叩いたホワイトが、そう呟いてソファーから立ち上がる。早歩きでキッチンから戻ると、ミルクティーが入った缶を笑顔で差し出した。冷蔵庫に数時間入れられていたおかげでかなり冷たかった。

「はい、ファイツちゃん。これ、今日スーパーで買って来たの」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「それからこれも、ね。最近あんまり買ってなかったし。ファイツちゃんも甘いの好きでしょう?」
「……う、うん。ありがとう……」

一緒に食べよ?と笑うホワイトに、ファイツは曖昧に頷いた。ホワイトがソファーにかけた途端にタイミング良くCMが終わって、再びドラマが始まる。今度こそ集中して見たいと思ったのに、けれどファイツはまたもや集中出来なかった。ホワイトが持って来たクッキーが引き金になったのだろう、ワイの話をふと思い出したのだ。
昼休みのことだ、3人で仲良くお弁当を食べていたワイがそういえばと話を切り出したのだ。『彼女がいるのに誕生日プレゼントをもらうなんて、やっぱりラクツくんの人気はすごいわよね。それも手作りクッキーだなんて』と感心したように呟かれたその言葉に、ファイツは危うく箸を取り落としそうになった。そうだった、5月4日は彼の誕生日だった。ラクツに苦手意識を抱いたのが原因なのかは分からないけれど、少しは関係があるかもしれない。ラクツの態度に戸惑っていた去年の今頃はまだ憶えていたのに、今年はすっかり忘れていた。ワイに言われなければ、カレンダーを見ても気付かなかったに違いないと思った。彼とまだ仲が良かった頃は、絶対に忘れたりしなかったのに。
ファイツが彼に渡すプレゼントは、手作りのクッキーと決まっていた。ラクツのリクエストを忠実に守っていたファイツは、5月4日になるとクッキーを大事に持って彼の家まで行ったものだ。『休みが明けたら渡してくれたらいい』と毎年言う彼に、笑顔で『当日に渡したいから』と言い返したことを憶えている。『ありがとう』と彼が微笑んで、そしてファイツは彼の家で遊ぶのだ。そして夜になると、ラクツのお父さんとお兄さんと一緒に誕生日パーティをするのがお決まりだった。ファイツの中で、5月4日は自分の誕生日と同じくらいのとても大切な日だったのに。今はもう彼の家族の顔も、そして彼の家の場所すらも憶えていないのだ。ラクツもまた、自分が中学の時に引っ越したことを知らない様子だった。

(どうしてこうなっちゃったんだろう、あたし達……)

そう心の中で呟いて、ファイツはホワイトが買って来てくれたクッキーに手を伸ばした。1枚だけ取って口に放り込むと、すぐに甘さが広がった。ファイツにはちょうどいい甘さだ。

(ラクツくん、もらったクッキー全部食べたのかな……。甘い物は苦手だったはずなんだけど……)

ファイツはぼんやりとテレビ画面を見ながらそう思った。自分が彼の幼馴染であることは疑いようのない事実だ。少なくとも他のクラスメートよりは、彼のことを知っているとは思う。あまり食べ物の好き嫌いはない彼だけれど、実は甘い物が苦手なのだということもちゃんと知っている。あくまで苦手なだけであって嫌いなわけではないからちゃんと食べはすることも知っている。だからきっと、もらったクッキーが甘かったとしても彼は残さず食べたのだと思う。
ファイツが初めてクッキーを焼いた時だってそうだった。クッキーをラクツに渡したところ、それを口にした彼がほんのわずかに顔を顰めたことをファイツは憶えている。自分自身が甘い味が好きだから、と良かれと思って甘い味付けにしてみたのだが、彼の口には合わなかったらしい。それでもラクツは『美味しい』と言ってくれた、だけどファイツは無理して言ったのだと何となく理解した。それから試行錯誤を重ねた結果、甘さがかなり抑えられたラクツ好みのクッキーを作ることにファイツはようやく成功した。そのレシピは今もしっかり憶えている、だけど焼いたことはここ数年ない。
でも、それもそのはずだとファイツは思った。だって、今の自分達はあの頃のように仲良くなんてないし、何よりラクツには彼女がいるのだ。それでもプレゼントを渡すような女子がテニス部にはいるらしいけれど、ファイツにはそんな勇気はなかった。

(……きっと、ラクツくんにクッキーを焼くことはもうないんだろうな)

ファイツはクッキーをもう1枚口に入れる。チョコレートが使われたそのクッキーの味は、何だかやけに苦かった。