school days : 030

大切だから遠ざける
夕食もそこそこに、ラクツは2階の自室へ向かった。電気も点けずにベッドまで歩いて、勢いよく倒れ込む。スプリングがぎしりと軋んで大きめの音を立てた。その音でさえ、今も脳裏で聞こえるファイツの「ありがとう」を消してくれなかった。

「ありがとう、か……」

ありがとうと、確かにファイツはそう告げた。しかも笑顔のおまけつきだ。あの娘が柔らかな笑みを自分に見せるなんてまったくの予想外で、ラクツは優に10秒は放心していた。ファイツのありがとうに「ああ」と辛うじて返すので精一杯だった。彼女は気付かなかったようだけれど、絶対に自分の顔は赤くなっていた。部室に行った時に、ヒュウが何も訊かないでいてくれたのは地味にありがたかった。ペタシも珍しくファイツのことを訊かなかった。それも実にありがたかった。

(あんな風に笑うなんて、思わなかった)

彼女のあんな顔を見るのは数年振りだろうか。幼い頃はよく笑いかけてくれる娘だったのに、ここ最近はまったく見なくなっていた。それはもちろん、自分がそうなるように仕向けたからだ。冷たい目をファイツに向ける度に彼女は怯え、ついには自分の姿に気付くと青ざめた顔をするようになっていった。そんな彼女の反応を見る度にラクツの心は痛んだものだが、それには構わなかった。怯えさせることになってしまったファイツには悪いが、これでいいんだと思った。この痛みは、彼女をあの日傷付けた自分への罰なのだ。もうファイツが自分に対して笑いかけることはないだろうと思っていたし、それでいいとも思っていた。……そう、思っていたのに。

(……まったくの予想外だ)

一昨日、ファイツの身体が自分の眼前で傾くのを見た時、ラクツはとても冷静ではいられなかった。彼女に冷たくしようと誓ったことも忘れて、つい普通に接してしまった。あんな彼女をどうしても放っておけなくて、だから「家まで送る」なんて言ってしまった。ファイツの家はこの本屋のすぐ近くだ、わざわざタクシーを呼ばずともいいだろうと彼女を横抱きしたまま歩くつもりでいた。けれど下ろしてと懇願したファイツが「中学の時に引っ越したの」と告げた時、ラクツは納得すると同時に驚いた。ファイツが引っ越したなんて事実はまったくの初耳だ。今どの辺りにファイツの家があるのかを聞いたラクツは、すぐに横抱きでファイツを家に送ることを諦めた。不可能ではないが、現実的ではなかった。今はとにかく、早く彼女を休ませてやりたい。結局タクシーを呼んでもらうことに決めたラクツは店員に事情を話した。ついでに椅子も用意してもらった、ファイツは目に見えて具合が悪そうだったから。
ファイツは「先に帰って」と言わなかったので、2人分の鞄を持ったままラクツはその場に立っていた。渡された3000円を掴んだまま無言で座るファイツを一瞥して、ラクツは気付かれないように溜息をついた。ファイツを放っておけなかったのは確かにそうなのだけれど、同時に心のどこかでは後悔していた。彼女の為を思えば、冷酷に接するのが正しかったような気がしてならない。けれどそれでもラクツがその場を立ち去ることはなかった。だってファイツは具合が悪いのだ、そんな状態の彼女を放っておくのは人道に反する。そう何度も自分に言い聞かせて、ファイツがタクシーに乗り込むまでラクツは彼女の傍を離れなかった。数学の問題集を手に取る気にはもうなれなかったので、1人になったラクツは帰宅しようと出口に向かった。先程の店員に会釈をした時に「さっきの女の子は彼女か」なんて訊かれたけれど、その問いには答えなかった。
ファイツはラクツの彼女などではない、ただの幼馴染だ。いや、今はもう幼馴染ですらないかもしれない。何しろファイツは自分を見たら青ざめるのだ。ラクツだって、冷たい態度で彼女に接している。だけどその一方で、ファイツのことは大切だと思う自分がいることもラクツはちゃんと気付いている。日頃彼女を避けはするけれど、それでもファイツが何か言えばきちんと返事をしている。ラクツは彼女を無視することが出来ないのだ。そのことに、ファイツは気付いたのだろうか?だから今日、これまで以上に冷たい声を浴びせた自分の顔を真正面から見つめ返したのだろうか。それはラクツには分からない。ただ1つ分かるのはこのままではいけない、ということだけだ。

「ボクは、ああすべきではなかった」

あの日本屋に行かなければ、ファイツとあの場で会うことはなかった。あの日ファイツを無視していれば、ファイツが今日自分に会いに来ることもなかった。そして、自分に笑顔を見せることはなかったはずだ。ファイツのあの顔を見てしまうと、どうしても幼い頃の思い出が、”あの日”のことが蘇ってしまう。あの日のことは今でもよく憶えている。決して忘れられない、忘れてはいけない出来事だ。もう二度ととあのような思いはしたくない。もう二度と、あのような目には遭わせない。
”自分はあの娘の傍にいるべきではない”。あの日そう思ったから、今でもそう思っているから、だからラクツはファイツから離れようと決めたのに。ポケスペ学園で再会してしまったのは予想外だったけれど、それでも冷たく接しようと決めて、事実そうして来たのに。それなのにファイツは、確かに笑いかけたのだ。

(ファイツのことは、大切だ)

大切だから遠ざける、ラクツはそう決めた。だからこれからも、ラクツはファイツに冷たく接するつもりでいる。しかしファイツの方はどうなのだろう、自分に笑いかけたのは偶然で、明日からはこれまで通り自分を見ると怯えるのだろうか。それならばいいと思うし、そうであるべきだとも思う。けれどもし、違う反応を見せたとしたら?例えば今日のように、自分に笑顔を見せたとしたら。万が一そうなってしまったら、果たして自分は今まで通りファイツに冷たく出来るだろうかとラクツは思った。