school days : 029

逃げない!
ファイツは今日1日、そわそわとして落ち着かなかった。封筒にラクツが出してくれたタクシー代の3000円がちゃんと入っているか、何度も何度も確かめた。ラクツにちゃんとお礼を言うこと、それが今日のファイツの目標だ。休み時間に隣のクラスに行けばすぐに彼を捕まえられるのだけれど、ファイツはそうしようとは思えなかった。知らない人に彼を呼び出してもらうなんて、自分にはハードルが高過ぎる。だから部活が終わる時間を狙ってファイツは剣道部の部室に行こうと決めた。出来ることならワイかサファイアに着いて来てもらいたいとも思ったけれど、そんな甘えたい気持ちを何とか抑えた。これは、ファイツが1人でやらなければならないことなのだ。
そうは言っても、剣道部の部室に行くまではまだかなりの時間がある。せっかくだからと、ファイツは鞄を持って図書室へと向かうことにした。体調はすっかり良くなった、こんな時こそ勉強しなくてはと思ったのだ。図書室の机に教科書を開いたまではいいものの、しかしファイツは集中して勉強出来なかった。問題を解く度に手が止まる、得意な国語ですらそんな有様だった。迷ったものの、ファイツは予定していた時間より少し早めに剣道部の部室へ向かうことにした。このままこうしていても、どうしたって集中出来そうになかったからだ。
誰もいない剣道部の部室の傍で、ファイツはただ1人佇んでいた。練習が終わることを知らせるチャイムが鳴っても誰も来ない。何度も時計を見ながら、ファイツは溜息をついた。

(……どうしよう)

もし剣道部がこのまま遅くまで練習を続けるんだとしたら、あたしはどうすればいいんだろう。そんな考えが頭に浮かんだ。剣道部の道場には何となく行きたくないと思った、顧問のシジマは厳しくて有名な先生なのだ。それに何より、練習を邪魔したくない。結局もう少し待とうと決めて、ファイツはぽつんと立ちつくした。こちらに向かって歩いて来る剣道部らしき男子生徒達にファイツが気が付いたのは、それから少し経った頃だった。「ラクツくんはどこですか」と尋ねる間もなく、開口一番に睨んで来た男子の態度にファイツの心は早くも挫けそうになった。だけど、それでも逃げるわけにはいかない。勇気を振り絞ってラクツの居所を尋ねてみたら、不機嫌そうにしながらもちゃんと答が返って来たのでファイツはホッとした。待っている間に、もし彼が学校を欠席していたらどうしようなんて思ってしまったのだ。
ファイツは、やっぱり剣道場に行く気にはなれなかった。それも女子に囲まれていると聞いてしまったら尚更だ。女子に人気があるとは知っていたけれど、まさか囲まれる程人気があるとは思わなかった。このままここで待たせてもらうと告げたら、目付きが悪い男子は「代わりに伝言してやろうか」と言ってくれた。ぶっきらぼうな物言いだけれど、そこには確かに優しさが感じられる。
何ともありがたい申し出を、しかしファイツは丁重に断った。逃げたくなる気持ちを抑えて、ありがとうございますと頭を下げた。自分が30分くらいここでこうしていると告げたら、もう片方の男子生徒は止める間もなく駆け出してしまった。先程礼を言った相手に、今度はすみませんと謝った。

(……どうしよう)

どうしようと、またファイツは思った。男子と2人きりだというのもあるが、ラクツにまたあの目で見られたらと思うと不安で仕方がなかったのだ。あの冷たい視線を思い出して、ファイツは思わず身震いした。

「あいつ、足は速いんだ。だからすぐにラクツを連れて来る」

頭の後ろで手を組みながら声をかけてくれた男子は、相変わらず仏頂面だった。ぶっきらぼうな彼の優しさに気が付いて、ファイツは会釈をした。自分を放っておいても良かったのに、彼が部室に入る様子は見られなかった。

(何だかこの人、一昨日のラクツくんみたい……)

彼の様子が何だか一昨日の幼馴染に重なって見えて、そして。ファイツはふと気付いた。

(そういえば……)

ラクツはあの日、具合が悪い自分に声をかけてくれた。タクシーが来るまで、自分の傍にいてくれた。タクシーはすぐ来ると分かっているのだから、ファイツを置いて帰っても良かったのに。だけど、ラクツは何も言わずにファイツの傍にいてくれた。タクシーに乗り込むまでにファイツは何度も謝ったけれど、ラクツはその度に『気にするな』と言ってくれた。ファイツを無視しなかった。

(そういえば、あたし……。ラクツくんに無視されたこと、一度もない……)

あの時は具合が悪かったからとも思ったけれど、すぐにその考えを否定した。始業式の日を思い出したのだ。今でもちゃんと憶えている、確かにラクツはぶつかったファイツを助けようと手を差し出してくれた。

(そうだよ……。そういえば、あの日だって……)

ファイツが幼馴染に苦手意識を抱く理由は、去年勇気を振り絞って話しかけた時に、彼にそれは冷たい声で返事をされたからだ。だけど始業式の日に会ったラクツは、素っ気ないながらもきちんと返事をしたのだ。ファイツを無視したって良かったのに、彼はちゃんと返事をしてくれた。

(なのに、あたしは………)

ファイツはぎゅっと手を握り締めた。思い返してみると、自分は何とも逃げてばかりだ。一昨日だけじゃない、始業式の日だってラクツは自分を心配してくれたのに。それなのにファイツは、一度だってお礼を言わなかった。ラクツの冷たい瞳を見ないように、逃げることしか考えられなかった……。

「……あ」

ファイツは小さく声を出した。先程の男子が大きく手を振りながら走って来るのが見えたのだ。そしてそのすぐ後ろから、ファイツの幼馴染がゆっくりと歩いて来る。

「……じゃあ、オレは着替えるから」

目付きの悪い男子が言ったその声に、ファイツは何も返さなかった。とてもじゃないけれど、言葉を返す余裕なんてなかったのだ。じっとこちらを見る幼馴染は、恐ろしく冷たい目をしている。あの眼差しは、間違いなくファイツに向けられたものだ。その冷たさに、身体はかたかたと音を立てて震える。

「……ヒュウ、ペタシ。すまないが、先に着替えていてくれないか」
「……あ、ああ」
「分かっただす……」

ラクツにそう言われた2人は、怪訝そうな顔をしながらも部室に入って行った。その途中で2人の視線が自分達に向けられたことをファイツは何となく感じ取った。普段ならば絶対に気になるはずなのに、だけど今は気にならなかった。
2人が部室の扉を閉めたことを確認して、ラクツがこちらに向き直る。その目はやっぱり凍えるような冷たい目だ。蛇に睨まれた蛙のようで、ファイツは一歩も動けなかった。

(怖い……)

一昨日、ラクツは確かにファイツを心配そうな目で見たのに。あの彼には冷たさなんてなかったのに。それが今はどうだろう、暖かい春なのにファイツはかたかたと震えていた。

「……それで?」

しばらくこちらを見つめていたラクツが口を開く。その声も瞳同様に刺すような冷たさを持っていた。先程2人に話しかけた時とはまるで違っていた。

「……え?」

ファイツの口から出て来たのは、酷くか細い声だった。ここにいる理由を言わなくちゃと思うのに、言葉が上手く出て来ない。

「……ボクに、何の用だ」
「えっと、あの……」

言葉にならない言葉を口にしたファイツは手を強く握り締めて、大きく深呼吸をした。その自分の様子を、ラクツは黙って見つめている。

「ラ……。ラクツくんに、お金を返そうと思って……」

3000円が入った封筒を鞄から何とか引っぱり出して、かたかたと震える情けない手でラクツの前に差し出した。

「確かに受け取った。それで、用はそれだけか?ファイツくん」
「……え」

”ファイツくん”と呼ばれたファイツは、手を引っ込めようとした途中で固まった。今自分はくん付けで呼ばれた、確かにそう呼ばれた。一昨日は、そして幼い頃は、呼び捨てで呼ばれていたのに。

「…………」

まだ自分はここに来た目的の半分しか果たしていない。早くお礼を言わなくちゃと思うのに、やっぱり言葉が出て来なかった。

「…………」
「…………」
「……何もないようだな」

自分が何も言えないでいるうちに、ラクツはあっという間にファイツの横を通り過ぎてしまった。

(ラクツくんが行っちゃう……!)

今言わないとダメだとファイツは思った。何故だか分からないけれど、今行動に移さないといけない気がする。今彼を引き止めないと、ずっと自分達はこのままのような気がする。それは淋しいとファイツは思った。彼のことは苦手なのだけれど、でも淋しいと思った。

「ま……」

部室に入ろうと、ラクツがドアノブに手をかけたのが気配で分かった。その彼の背中に向かって、ファイツは大声を出した。

「待って!」

ファイツのその声から少し間が開いて、ラクツがゆっくりと振り返る。その瞳は依然として冷たいままだ。

「お願い、ラクツくん。待って……!」

突き刺さる冷たい視線を真正面から受け止めて、ファイツは息を吐いた。やっぱり怖いと思う、だけど同時にもう逃げたくないと思った。

(ラクツくんは、あたしを無視しない……!)

そう考えたファイツの予想通り、ラクツはドアノブにかけていた手を離してこちらに身体を向けた。ちゃんと、自分を見てくれた。

「まだ……。まだ、話があるの」
「……何だ?」

ああ、やっぱり彼は自分を無視しなかった。冷たい目線を自分に向けながらも、やっぱり彼は優しいラクツのままなのだ。だけどファイツは、今までずっと逃げていた。それに心の中で謝ってから、ファイツは幼馴染の顔をしっかりと見つめた。

「一昨日は、お礼も言わずに帰っちゃってごめんね。……ううん、一昨日だけじゃないね」

足をしっかりと地面につけて、ファイツは言葉を続けた。

「始業式の日、あなたはあたしに手を差し出してくれたのに……。あたし、お礼を言わなかったよね。……それも、本当にごめんね」

彼をまっすぐに見つめて、足を地面にしっかりとつけたままで。そしてファイツは、大きく息を吸った。

「すっごく今更だけど……。色々ありがとう、ラクツくん」

そう言ったファイツは、確かに微笑んでいた。けれどファイツはそのことにも、「ああ」と答えたラクツの顔がわずかに赤くなっていることにも、まるで気付かなかった。