school days : 025

忘れ事
コンコンというノックの音で、ファイツは目を覚ました。返事をすると、自室のドアを静かに開けたホワイトの姿が見えた。心配そうな顔をして、こちらにゆっくり歩いて来る。

「ファイツちゃん、本当に大丈夫?気分はどう?」

これで本日3回目だろうか、ベッドに横になったファイツにホワイトがそう問いかける。その手にはスポーツ飲料が入ったペットボトルが、そしてもう片方の手には体温計がしっかりと握られていた。

「うん、大丈夫だよ」

ファイツがこう答えるのもこれで3回目だ。何とか帰宅したファイツは顔色が目に見えて悪かったらしく、出迎えたホワイトにこれでもかと言う程心配されたのだ。どうしたのと訊かれて「勉強で最近あまり寝てないの」と言ったら、今にも泣きそうな顔をされた。そして強い口調で少し寝なさいと言われたファイツは、おとなしくそれに従ったのだ。確かに寝たくて堪らなかった。やはり疲れが溜まっていたのだろう、窓の外はもう真っ暗になっていた。帰って来た時はまだ明るかったのに。

「あたし、随分と寝てたみたいだね……」
「何回か様子を見に来たけど、よく寝てたから起こさなかったの。一応ご飯は作ってあるけど、何か食べる?」
「ううん、今日はいい。何か食欲ないから……」

その返事に心配そうに眉根を寄せて、ホワイトは体温計を差し出した。そのついでに常温のペットボトルをサイドテーブルに置く。

「熱はないし、わざわざ計らなくてもいいよ」
「ダメよ、念の為に計っておかないと!」
「……計らないとダメ?」
「ダメ!」

人差し指を立てて言ったホワイトに心の中で苦笑して、ファイツは体温計を受け取った。素直に身体を起こして体温を計り始めたことに安心したのか、先程より随分とやわらいだ表情のホワイトと目が合う。そのホワイトが口を開いた。

「ごめんねファイツちゃん。アタシ、一緒に暮らしてるのに全然気付かなかったわ……」

沈んだ声で謝るホワイトに、ファイツは慌てた。そもそも睡眠時間を削ってまで勉強しようと思い立ったのはファイツ自身なのだ。

「そんな!あたしの方こそ、迷惑かけてごめんなさい……っ」
「ううん、アタシこそ!ファイツちゃんがそんなに思いつめてたなんて、思いもしなかったから……。本当にごめんね……っ」
「お姉ちゃんが謝ることないよ!」
「ファイツちゃんこそ謝ることないわ!」
「…………」
「…………」

お互いに謝る2人は同時に沈黙して、そしてまったく同じタイミングで苦笑した。

「えっと……。この話題はここまでにしましょう?このままだと、永遠に終わらなそうだし。おあいこってことで」
「……うん」

頷いたファイツの耳に体温計の電子音が聞こえた。脇に挟んでいた体温計をホワイトにはいと渡して、熱を計る為に外していたパジャマのボタンを一番上までかけ直す。やっぱり熱はなかった、ただ少しだけだるいのだけれど。

「36.4℃……。確かに熱はないみたい」
「……ね。ほら、言った通りでしょう?」
「ええ。でも、明日は学校休まなきゃダメよ。アタシが連絡しておいてあげるから」
「えっと……。休まなきゃダメ?」
「ダメ!!」

先程と同じようなやり取りを繰り返していることに気付いて、2人はまたどちらともなく笑った。こうしていると本当の姉妹のように思える。もしかしたら、下手な姉妹より仲がいいかもしれない。

「……うん、分かった。ちゃんと休むね」
「素直でよろしい!」

大きく頷き返したホワイトは「そうだ」と続けた。

「ファイツちゃんの担任って誰だっけ?」
「アロエ先生だよ。ほら、家庭科の先生の」
「……ああ、あの先生ね!いいなあ、優しそうで」
「うん……。あ、でも怒ると怖いんだけどね……。何か、先生っていうよりお母さんって感じがする人だよ」
「いいなあ……。ヤーコン先生なんて、毎日怒ってばっかりなのよ」

ファイツはヤーコンの顔を思い浮かべた。廊下でたまにすれ違うのだけれど、確かにあの人は怒ると怖そうだ。その姿が簡単に想像出来てしまい、ファイツははあっと溜息をついた。

「ファイツちゃん、N先生が良かった?」
「え?」
「ほら、今溜息ついたでしょう?担任は、やっぱりN先生が良かったって思う?」
「えっと……。……うん」

今溜息をついたのはホワイトに同情したからなのだが、事実言われた通りでもあったので何も言わずに頷いた。確かにアロエ先生はいい先生だと思う。だけどやっぱり、ファイツとしてはNがいいなと思ってしまうのだ。

「そっか……。でも、今度からは無理しないでね。お姉ちゃんとの約束よ」
「……うん」

素直に頷いた自分に笑顔を浮かべて、屈んだホワイトは立ち上がった。忘れてた、と開けっ放しになっていたカーテンを閉める。自分の代わりにそうしてくれたことに気付いたファイツは慌てて起きようとしたが、ホワイトがカーテンを閉め終わる方が早かった。

「お姉ちゃん、ありが……」

続けようとした言葉は、最後まで続かなかった。自分が大事なことを忘れていた事実に、ファイツは今ようやく気付いたのだ。

「どうしたの?」
「……ううん。お姉ちゃん、ありがとう。……あたし、もう寝るね」

またホワイトを心配させてはならないと、ファイツは首を振った。今度はちゃんとお礼を言ってもう眠ると言葉を付け加えると、ホワイトは頷いてドアへと向かった。

「おやすみ、ファイツちゃん」
「……うん。おやすみなさい……」

ホワイトがドアを閉めたパタンという音が、ファイツの部屋にやけに大きく響いた。まだ身体がだるいファイツは目を閉じるが、ぐっすりと眠った所為か簡単には眠りに落ちてくれない。
こうして1人きりになると、どうしても本屋での出来事が浮かんで来てしまう。現在ファイツが住まわせてもらっているマンションは、あの本屋からはかなり離れていた。それを少し躊躇いがちにラクツに話した時、ファイツはホッとしたのだ。彼にあの距離をお姫様抱っこをさせたまま歩かせるのは、いくら何でも気の毒だ。ラクツも『確かに現実的ではないな』と言ってくれた。これで諦めるだろうと思っていたのに、ラクツは自分を置いたまま帰らなかった。店員を呼んで短い会話を交わしたかと思うと、すぐに自分の近くに戻って来て『店員にタクシーを呼んでもらうから心配するな』と告げたのだ。
しかも慌てて所持金を確認し始めたファイツに、ラクツは自分の財布から取り出した3000円を眼前に差し出した。お金を出してもらうなんてと戸惑ったけれど、ファイツは結局そのお金をおそるおそる受け取った。一応再度確認してみたけれど、財布には何度見ても1000円しか入っていなかったのだ。店員がバックヤードから出してくれた椅子にファイツを座らせて、ラクツは2人分の鞄を持ったまま立っていた。タクシーは5分くらいで来たけれど、ファイツにはその時間が1時間程にも感じられた。気まずいやら申し訳ないやらで、椅子に座ったままファイツは何も喋らなかったのだ。ラクツもラクツで口を開かなかったので、余計に気まずかった。ファイツが何も言わなかったのが原因なのか、ラクツは結局ファイツがタクシーに乗り込むまで傍にいてくれたのだ。それだけのことをしてくれた相手に、ファイツは。

「あたし……。ラクツくんにお礼言ってない……」

そう、ファイツはラクツにお礼を言わずに帰って来てしまったのだ。タクシー代を出された時も、申し訳なくて謝りながら受け取ったのでお礼を言っていない。何度も何度もごめんなさいと言ったはずなのに、ありがとうとは1回だって口にしなかった。しかもホワイトにそう言うまで、ファイツはすっかりそのことを忘れていたのだ。

「明後日学校に行ったら、ちゃんとありがとうって言わなくちゃ……」

心にそう強く誓って、ファイツは目を閉じた。