school days : 024

横抱き
本屋で幼馴染と出会ったのはまったくの偶然だった。勉強ならば教科書でこと足りるので、ラクツがわざわざ参考書を買うことはほとんどない。けれど今日、勉強好きなプラチナが新しく出た数学の問題集について休み時間に熱弁していたのが少し気になって、ラクツは下校途中に足を運んだのだ。物静かなプラチナは基本的に感情を表に出さない。しかしこと勉学に関する事柄は別で、珍しくかなりの熱が入ったように語っていた。珍しくといえば、彼女は何かを言いたそうに時折こちらを見ていた。それにはもちろん気付いていたけれど、プラチナ自身が何も言わなかったのでラクツもまた何も訊かないことにした。本当に重要なことなら、いずれプラチナの方から言って来るという確信があったからだ。今はタイミングを窺っているか、またはその内容を吟味しているのだろう。プラチナは何かを口にする前に、内容を一度頭の中で整理してから話すタイプなのだ。自分だってそうだから、ラクツは何も訊かなかった。ただ、プラチナが話した問題集には割と興味を惹かれたから。都合良く剣道部が休みだったこともあり、ラクツは参考書が並んでいるコーナーにやって来た。
けれど最初に目に入ったのは問題集などではなく、幼馴染の後ろ姿だった。周りには自分と彼女の2人しかいない。彼女はまったくこちらに気付いていないのだとすぐに悟ったラクツは、このまま見なかったことにして引き返そうと思った。別に今すぐ欲しいわけじゃないし、問題集なら今日じゃなくても手に取れる。無言で踵を返そうとしたまさにその時、彼女が棚に手をついたのを目の端で捕らえたラクツは思わず足を止めた。様子がおかしい、明らかに具合が悪そうだ。先週の朝、彼女の顔色が悪く見えたことが脳裏に蘇る。迷ったのはほんの少しの時間だけで、すぐにラクツは幼馴染に近付いた。ただ大丈夫かと声をかけるだけでいい、彼女がもし頷いたのならばすぐに立ち去ろうと自分自身に言い聞かせながら。
しかし幼馴染の身体が傾いたのを眼前で見て、ラクツのそんな考えは吹き飛んだ。彼女との距離はそれ程離れていなかったのにも関わらず、全力で走った。それが功を奏したのか、間一髪で彼女の身体を支えることが出来た。

「……大丈夫か?」

安堵しながら問いかけるが、彼女の返事はなかった。緩慢な動作で顔を上げた彼女と至近距離で見つめ合う。幼馴染が目を見開いたのを確認したラクツは、静かに身を離そうとした。きっと、彼女は自分にこうされることを嫌がるだろうから。
けれどラクツの予想に反して、彼女が慌てて身を離す素振りを見せることはなかった。幼馴染の自分に対する苦手意識が払拭されたとはとても思えない、どうやら思った以上に彼女は具合が悪いらしい。

「大丈夫か、ファイツ」

ラクツは再度、彼女に問いかけた。口に出してしまってから、自分が彼女の名を呼んだことに気が付いた。しかも呼び捨てで呼んだ、平素なら絶対にしないミスだ。柄にもなく相当焦っているようだと自嘲しながら彼女の返事を待った。

「ラクツ、くん……」

やや間が空いて口を開いたファイツは、弱々しく自分の名を呟いた。その声をきちんと聞き取ったラクツは、驚きのあまり目を見開いた。彼女に名前を呼ばれるのは随分と久し振りのことだったのだ。時間にして数秒だろうか、確かに自分は放心していた。しかしそれもわずかな間だけで、ラクツはすぐに気を引き締める。

「うん……。あたしは、大丈夫……」

更に間が空いて返って来た言葉に、今度は眉をひそめた。自分の大丈夫か、の問いにファイツは「うん」と答えた。頷きはしなかったものの、確かに彼女は肯定したのだ。しかしラクツはファイツから身を離すことはせず、代わりに支える手の位置を変えた。

「ラ、ラクツくん……?」

いったいどうしたのかと怪訝な顔をしたファイツには構わずに、ラクツは手に力を込める。そしてそのまま、ゆっくりと立ち上がった。思ったよりずっと、彼女の身体は軽かった。

「……きゃあっ!」

自分が今どういう状況なのかを一瞬で理解したファイツは驚いて声を上げる。けれどそれも予測済みだったので、彼女を万が一にも落とさないようにしっかりと支えた。

「な……。何してるの、ラクツくん!」
「何って、横抱きだが」
「そ、そうじゃなくてっ!何でそんなことしてるの?だってあたし、大丈夫だって言ったのに!……言ったよね?」

耳元でそれなりの声量を出されているというのに、不思議とラクツに不快感はなかった。しかし、それでも溜息をつく。彼女は本気で自分を騙せたとでも思っているのだろうか。

「確かにそう言われたが……。そんな状態のキミに言われても、説得力がない」
「う……」
「まだ具合が悪いんだろう。家まで送るから、おとなしくしていろ」
「……え」

何とか下ろしてもらおうとしたのか、意味のない抵抗を続けていたファイツの手がはたと止まる。目を数回瞬かせて、そして何かを考え込むように黙り込んだ。

「……どうした?」
「えっと……。家までって、あたしの家まで?」
「他に何がある。キミの家はすぐ近くだろう」
「あ……。……あのね」

ファイツはいったん言葉を切って、何かを言いたそうに口を開いた。眉根を寄せて、明らかに困った顔をしている。それに気付いたラクツは、ファイツが話しやすいように先を促した。

「何か問題でもあるのか?」
「……うん。やっぱり下ろして、ラクツくん」

ファイツは、そうラクツに希う。先程と打って変わって静かな口調だった。これなら少なくとも走って逃げるようなことはまずしないだろうと判断したので、ラクツはとりあえず彼女の頼みを聞き入れることに決めた。持ち上げた時と同じように、ゆっくりとファイツの身体を下ろす。そのすぐ後で、足が床についたファイツが実に言いにくそうに言葉を紡いだ。

「えっとね……。あたし、中学の時に引っ越したの。だから今のあたしの家は、この近くじゃないの」
「……何?」

そう告げたファイツは、やっぱり困った顔をしていた。