school days : 023
あなたの名前を口にする
参考書コーナーと書かれている棚の前で、ファイツは立ち尽くしていた。先程から動かないファイツを何人かが怪訝な顔で見たけれど、それは気にもしなかった。正確に言えば気にしている余裕がなかったのだ。(ど、どうしよう……)
ファイツは困っていた。先週受けた数学の小テストが今日返って来たのだが、その結果は散々なものだった。これはまずいと学校が終わるとすぐに本屋に駆け込んだまでは良かった。けれど参考書コーナーには数学の本が多過ぎて、どれを選んだらいいのかがファイツには分からなかったのだ。数学が苦手という自覚はある。だからテストの結果は高得点は取れないだろうと薄々察していた、だけどせめて半分の50点は取れるだろうと思っていたのに。結果は35点という、それはそれは酷いものだった。落ち込んだファイツを見て、ワイはいつものように明るく話しかけてくれた。小テストだから気にすることないと背中を叩いて励ましてくれたものの、どうしたって気にしてしまう。例え小テストでも立派なテストだし、何といっても教科は数学なのだ。数学といえばN先生との図式が成り立つファイツにとっては何とも悔しい結果だ。確かに寝不足で頭は働かなかったのだが、それにしたって酷い。苦手な数学を何とか克服しようと、これでもファイツは自分なりに努力したのに。春休みだってあれ程勉強したのに、これでは何も変わっていない……。自分が腹立たしいやら情けないやらで、ファイツは大きな溜息をついた。ずっとここにいるわけにもいかないので、とりあえずどれか一冊でも手に取ろうと決めた。基本レベルの問題が載っているものがいい、それに加えてなるべく厚い方がいい。
(……あれにしようかな)
陳列された参考書の中からそれなりに厚いものを選んで手を伸ばす。それでもまだ届かなかったので、更に背伸びをした。
「あ、あれ……?」
急に背伸びをしたのがいけなかったのか、ファイツを突然の眩暈が襲った。それでも何とか耐えて、目当ての本を掴む。少しだけ身体がふらついた。その表紙にははっきり基本レベルと書かれていた。パラパラとページをめくってみると、最後の方に解説と書かれた水色の小冊子が別冊でついていた。それもかなりの厚さだ、これなら解説も詳しそうだ。解説が詳しいことに越したことはない、特にファイツは数学が大の苦手なのだから。これにしようかと迷って、一応別の参考書をとりあえず手に取ってみる。もちろん基本レベルと書いてあるのを選んだ。自分が基本的なことをまず理解していないのだと身に染みて理解したからだ。
適当にまたパラパラとめくってみる。同じように別冊で解説がついていたものの、その冊子は先程の参考書より明らかに薄かった。その分値段は安かったのだけれど、どうせ参考書を買うなら解説が詳しい物がいいだろう。お金は何とか足りることだし。
(……うん、こっちにしよう)
結局最初に手に取った参考書を買うことに決めたファイツは、もう片方を元あった場所に戻そうと勢いをつけて爪先立ちをした。戻すとなると、どうしてもそうせざるを得ないのだ。多分、それがいけなかったのだろう。ファイツは再びの眩暈を感じて、思わず棚に手をついた。しかも今度は先程より強い眩暈で、じんわりと汗ばんでいるのに気が付いた。
(何か気持ち悪い……。もしかして、あんまり寝てないからなのかな……)
ファイツはここのところ、睡眠時間を削ってまで勉強していた。まだ時間はある、だけどどうしても焦ってしまうのだ。地道にこつこつ努力するしかないと分かってはいるのに、何かに急き立てられるような気持ちになってしまう。今必死に頑張らないと、Aクラスには絶対に入れない。そんな気がしてならなかった。クラスの前を通り過ぎる時は、特にそう思うのだ。
(頑張らなきゃ……。N先生のクラスに入るんだもん……!)
家に帰って早く寝たいという気持ちはあるが、Nの顔を思い浮かべたファイツはぶんぶんと首を振った。何しろチャンスはあと1回しかないのだ。2学期中に5教科の全てでいい成績を残さなければ、5クラスの一員には決してなれない。もちろんその5教科の中には数学も含まれている。こんな点数を取る有様では、特進クラスなんて夢のまた夢だ。
だから今日も早く帰って勉強しようと思ったファイツはレジに向かおうとして……けれど出来なかった。身体がふわふわしたように浮く感じがする、それに視界が何だかぐるぐると回っているように見える……。せめて蹲ろうとしたけれど、踏ん張ろうにも足に力が入らない。もうダメかもなんて諦めにも似た気持ちが脳裏に浮かんだその時、ぐらりと身体が傾くのが分かった。
(あ……)
あたしはきっと、このまま倒れるんだ。そう思ったファイツは思わず目をぎゅっと瞑ったが、床にぶつかる感じはなかった。
(あれ……?)
少し経ってから、ファイツは自分が誰かに身体を支えられていることに気付いた。だから床にぶつからなかったんだ、とあまり働かない頭でぼんやりと思った。誰だろう、たまたま通りががった店の人かもしれない。とにかくお礼を言わなくちゃと何とか顔を上げたファイツの目に、その人物の顔が映る。
「……大丈夫か?」
どうして彼がここにいるんだろう。自分を支えているのが誰なのか分かったファイツは、まず最初にそう思った。次に思ったことは、”彼から離れなきゃ”だった。だけど身体はまだだるくて、起こすのも酷く億劫だったから。だからファイツはおとなしく、彼に身を委ねていた。
「大丈夫か、ファイツ」
本当は、まだ怖い。あの冷たい眼差しで自分を見る彼の瞳が、どうしようもなく怖い。だけど今の彼はそれは心配そうな表情をしていて、その瞳には冷たさなんて微塵も感じられなかった。おまけに彼は、確かに自分の名前を呼んだのだ。それにつられるようにファイツもまた、幼馴染の名を呼んだ。
「ラクツ、くん……」
思った以上に弱々しい声だったけれど、それでも彼の耳にはちゃんと届いたらしい。ラクツがわずかに目を見開いたのが、ファイツの目にはしっかりと見えた。