school days : 020
こうかは いまひとつの ようだ……
「なあラクツ、学校で何かあったのか?」サラダを食べながら藪から棒に尋ねたブラックに、ラクツは内心で舌打ちした。普段は呆れる程の鈍感な兄なのに、何故こうも妙な所で勘がいいのだろう。
「……別に。何もなかったが」
嘘ではない、確かに学校では何もなかった。学校に行くまでの間のことも範囲に含めるならばブラックの言う通り確かに”何か”あったのだけれど、わざわざ正直に言ってやる義理もない。
「そうか、ならいいんだけど」
今度はカレーを飲み込んだブラックは水が入ったコップに手を伸ばす。そして、その水を一気に飲み干した。
「……な、なあ。このカレー、やけに辛くないか?」
「別に普通だろう。これは中辛だ」
どうやら水が気管に入ったらしく、ブラックはケホケホとむせ込んだ。その様子を一瞥してラクツが淡々と答える。今日の夕飯のメニューはカレーとサラダだ。男子高校生ということもあり、品数こそ2品と少ないものの量はかなりのものだった。特にブラックは雨で朝練が出来なかった鬱憤を放課後練で思い切り晴らしたようで、それなりの量を食べているラクツより更にカレーの量が多い。
父親のハンサムは警察官の仕事が忙しく、3人で食事をすることは少ない。深夜に帰って来て早朝出かけることもしばしばで、3人暮らしだけれど実質2人暮らしのようなものだ。男しかいないこの家だけれど、それでも結構片付いている方だと思っている。それはもちろん、自分達が父親の分まで手分けして家事をやっているからだ。ちなみに今日の夕食当番はブラックで、レトルトカレーと買って来たサラダというはっきり言って手抜きなメニューだがラクツは文句を言わずに食べている。どんな料理が出て来てもお互い文句をつけないのが決まりなのだ。
「しくったなあ、甘口にすりゃあ良かったかな……」
「甘口は甘過ぎる」
「そうか?ああ、お前は甘いの苦手だからな。よっし、お前の分は今度から辛口にしてやる!……なあ、ところで部活の方はどうよ?何か最近チェレンのやつが元気ないみたいでさあ」
お前、何か知ってる?とのんきに尋ねたブラックに、ラクツははあっと大きな溜息をついた。チェレンはラクツが所属する剣道部の先輩で、同時に主将でもあるのだ。おまけに面倒見が良くて責任感が強い彼はクラス委員長でもある。つまりチェレンとブラックは同じクラスなわけで。さぞ兄が迷惑をかけていることだろうと今年も早々に謝罪したラクツに、チェレンは大丈夫だと笑ってみせた。「ブラックのお目付け役の女子がいるから去年程大変じゃないからね」と苦笑混じりに言って。それでも、多少なりとも大変な思いをしているのだろうと察したラクツはなおも頭を下げた。そして、ブラックはそれを知らない。
「ブラック、キミはもう少し慎んで行動するべきだ。もっと周囲を見ろ」
「お前ってたまに兄貴みたいなこと言うよな。一応、オレの方が歳上なのに」
「歳の差は1歳だけだろう。ボクも含めて、キミの言動で少なからず迷惑を被っている人間がいるんだ。これからはもう少し考えて動いてくれないか」
「……分かったよ」
長い沈黙の後にブラックはそう言ったが、きっと理解していないだろうとラクツは思った。納得していない、とその顔が言っている。こんな所は、昔から少しも変わっていない。こういう時、ラクツは自分の選択が間違っていたのではないかと思ってしまう。ラクツがポケスペ学園を志望したのは通学距離が然程なく、それなりの進学校だったからだ。ついでに剣道部が強かったからという理由もあったが、志望校に強い拘りがあるわけではなかった。懸念があるとするならば、兄と同じ学校に通うということくらいだった。
ポケスペ学園を受験すると言った時、1つ上のブラックは大層喜んだ。背中を叩かれて、満面の笑みで「よろしくな、後輩!」と言われたことはよく憶えている。「別にブラックがいるから選んだわけじゃない」と一応言い返してみたが、「照れなくてもいいじゃんか」との言葉が返って来たのでラクツは口を閉ざした。兄がこうなった時は、何を言っても無駄だとよく知っている。
色々と、本当に色々と迷惑をかけられてはいるが、ラクツはそんな兄を嫌ってはいない。これでも一応、自分の兄なわけだし。結構な頻度で鬱陶しい、とは思うけれど。そう、鬱陶しいと言えば。
「よっし!食った食った、ご馳走さん!」
「……ご馳走様」
「なあラクツ、一緒にサッカー見ないか?今夜8時からリーグの決勝があるんだぜ!」
先程までの不満はどこへやら、カレー大盛りを食べ終えたブラックは目を輝かせて尋ねた。自他共に認めるサッカー好きのブラックは、プレイするのと同じくらい見るのも好きなのだ。
「いや。ボクは遠慮しておく」
その兄の誘いを、ラクツは迷いもせずに断った。ブラックと違ってサッカーが特別好きというわけでもないし、何よりブラックと見ると集中出来ないのだ。「行け!」だとか「そこだ!」とか、元々声が大きいこともあって、隣で見ているととにかくうるさい。それでなくても今日は、集中なんて出来なさそうだから。
「そっか」
ブラックはそれだけ言うとリモコンを持った。弟に断られることには慣れている兄は、気にした様子もなく待ちきれないとばかりに電源ボタンを押した。8時までは後30分もあるのだけれど、わざわざ指摘してやるのも面倒だったラクツは何も言わないことにした。そわそわしている兄を呆れ混じりに一瞥して、ラクツは食器を持ってキッチンに向かった。皿についたカレールーをティッシュで拭い取ってから、水が張ってあるシンクに沈めた。夕食を作った方が後片付けもするのが決まりなのだが、あの様子ではすぐに洗わないだろう。そのついでに洗面所に行って、歯磨きも早々に済ませた。
とりあえずやらなければいけないことを終えたので、ラクツはそのまま2階にある自分の部屋へと向かった。階段を昇って、廊下の突き当たりにあるドアを開ける。ベッドとデスク、本棚に箪笥。最低限の家具しかない部屋は、きちんと整理整頓されている。やっぱり自分の部屋は静かで落ち着く、特にこうしてブラックと話した後は殊更にそう思う。
ドアを閉めて、ラクツはベッドに寝転んだ。ラクツだって放課後練をして来たのだ、身体はやはり疲れている。夕食後だし、1時間前にシャワーを浴びたこともあって少々眠い。こんな時は眠るに限ると、ラクツは目を閉じた。けれどこうして目を閉じてしまうと、否が応にも今朝の出来事が脳裏に蘇ってしまうのだ。それも、鮮明に。小さく溜息をついてラクツは目を開けた。見えるのは天井だ、だけどあの娘の顔が浮かんで来る……。
ラクツは今朝、学校に向かう途中でユキに話しかけられた。自分にあからさまな好意を向けて来る少女。実に嬉しそうに話しかけるユキに一応は応じたものの、少し早足で歩いた。好意はありがたいのだが、正直鬱陶しい気持ちの方が強いのだ。もちろんそれは表情に出さなかったけれど。
なるべく早く着きたいと、更に歩く速度を上げたラクツの耳にユキの悲鳴が飛び込んで来た。自分を追いかける為にユキが急ぐであろうことは容易に想像がつく。その所為で、もしかしたら転んだのかもしれない。そう思うと、流石に無視をする気にはなれなかった。そうなったらとりあえず、結果的に急がせた自分にも原因はあることだし。もしくは自分の気を引く為に悲鳴を上げたのか。むしろその可能性の方が高そうだと思いながら、それでもラクツは一応振り向いた。
そしてラクツは、幼馴染の存在に気が付いた。ユキの状況を確かめようと振り向いたはずなのに、彼女の様子なんて目に入らなかった。その代わりに自分の幼馴染が呆然と立ち尽くしているのが目に入った。雨が降っていてもその表情ははっきりと見えた。相変わらずファイツはどこか自信なさげで、怯えた顔をこちらに向けている。彼女の顔色がやけに悪く見えたことがラクツは気になった。ユキの声でようやく我に返ったのか、ファイツは突然駆け出した。走り出す前に申し訳なさそうにユキに謝ったことで、ラクツは自分の幼馴染がユキにぶつかったことをようやく悟った。ラクツの横を走り去る時、やはり彼女はこちらを見なかった。ファイツがどことなくふらふらしているように見えたことが、ラクツは気になった。
(……具合でも悪かったのだろうか)
ファイツの姿が見えなくなった後でユキが話してかけて来たが、ラクツは幼馴染の先程の様子が気になっていてそれどころではなかった。もっとも自分のいつも以上に適当な返事でもユキは心底嬉しそうだったから、おそらくは気が付いていないだろう。先程ぶつかられたことなんて最早気にしてなさそうな彼女とは対照的に、ラクツはファイツの様子が気になっていた。そしてそれは、あれから数時間だった今でも続いている。幼馴染のあの姿が、頭にこびりついたように消えてくれない。
「……忘れよう」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、ラクツは半ば無理やりに目を閉じた。