school days : 019

魔法の呪文
朝のHRが終わるや否や、すぐに鞄から教科書とノートを取り出したファイツは息を吐いた。眠い、ひたすら眠い。机に突っ伏したら最後、そのまま寝てしまいそうだった。眠気覚ましに顔を洗いたかったけれど、とにかく今は時間が惜しい。だから目を擦るだけに留めたものの、目覚ましの効果はまるでなかった。目薬を持ってくれば良かったなんて思いながら、ファイツは急いでページを捲った。1時限目の数学が、そしてその際行われる小テストが始まるまで後5分しかない。教室に着いたのはHRが始まる少し前で、予鈴が鳴るまでにするつもりだった予習は出来なかった。本当ならもっと早く学校に着くはずだったのに、昨晩遅くまで勉強していたファイツはあまりよく眠れなかったのだ。その結果起きようと思っていた時間より遥かに遅く起きる羽目になってしまった。
特進クラスに入れるかどうかは2学期の成績で決まる。だから別に今必死になって勉強しなくてもいいのだが、今年入れなかったファイツは1学期から頑張ると決めている。Nのクラスに入るには、今年の成績がものを言うのだ。例え小テストといえども手を抜きたくない。おまけに教科は数学、ファイツの一番の苦手科目だ。2年生になって初めてのテストだ、果たして何点取れるだろうか。
最後の追い込みにと教科書に載っている例題を解こうとしたファイツははたと手を止めた、問題がさっぱり分からないのだ。それに、何だか頭がぼんやりする。それにやっぱり眠い、1分だけ目を瞑ろうか……。

「おはよう、ファイツ。朝からテスト勉強?やっぱり真面目ね」

朝からよくやるわねえと感心しながら近付いて来たワイの声で、ファイツはぱちっと目を開けた。危ない、今声をかけてもらわなければ確実に眠っていた。

「おはようワイちゃんっ。……あのね、この問題分かる?」

ファイツはありがとうと心の中でお礼を言って、縋りつくようにワイの眼前に教科書を突き出した。

「ごめん、ファイツ。ぜんっぜん分からない。というか何が書いてあるのかも分からない」
「ワイちゃんもそうなの?……実はあたしもなの」

ファイツは国語でワイは英語、得意教科は違うのだけれど苦手教科は揃って数学だ。ちなみにサファイアは体育以外苦手という壊滅ぶりだが、その代わりに恐ろしく勘が鋭いのでその欠点を選択問題で補っている。もっとも所々漢字を間違っているから、記述式の設問でそれなりに減点されてはいるのだけれど。マークシート式なら100点だって取れるんじゃないかとファイツは思っている。

「うーん、やっぱりアタシには無理ね。エックスに訊いてみようか?」

早々に匙を投げたものの、それでも親友の為にと教科書とにらめっこしていたワイがファイツを見下ろして言った。

「あれ?エックスくん、今日は来てるの?」
「うん、しかも朝からね。珍しいでしょう?」
「えっと……。……うん、そうかも」

ファイツは苦笑しながら答える。エックスは不登校気味で、それもこんな時間から来るなんて滅多にないことなのだ。

「ほんっと自由気ままよね、ちゃんと出席してればA組でもおかしくないのに。頭の良さなら、あのラクツくんにだって負けてないのにさ。……まあ面倒くさがりだし、やる気にムラがあるんだけどね」

親友の口からまたもや出たその名前に、ファイツはびくりと身を震わせた。しかも、今度はそれをワイにしっかりと見られてしまった。

「ファイツ?……どうかした?」
「あ、えっと……」
「……あ。もしかして、アタシがラクツくんの名前を出したから?本当に苦手なのね、彼のこと」
「……うん、まあ……」

ファイツは曖昧に答えた。彼とは幼馴染なんだよ、とはやっぱり言えなかった。別に秘密にしているわけじゃない、だけど何故だか言えなかった。大好きな親友に隠し事をしている罪悪感で、ファイツの胸はちくりと痛んだ。
30分程前のことだ、寝不足で少しふらふらになりながらもファイツは急いでいた。走らなくてもこのままのスピードなら間に合うだろうと、早歩きで歩いた。学校までの道を急ぎながら、ファイツはまるであの日と同じだと思った。寝不足なところまで同じだ。だからだろうか、ファイツはまたもや人にぶつかってしまった。流石に相手は違ったけれど、とにかくごめんなさいと謝って。そして、ファイツは気付いてしまった。幼馴染が、自分を見つめていたのだ。
雨で視界は悪かったし寝不足で頭がぼんやりしていても、ファイツはラクツに気付いた。気付いてしまった。彼を凝視したまま、ファイツはその場に立ち竦んだ。早く学校へ行かなくちゃと思っていても、金髪の女の子がどうしたのと尋ねるまで動けなかった。その声で我に返ったファイツは、もう一度謝ってひたすら前を走った。幼馴染の横を走り抜ける時、その顔を絶対に見ないようにしながら走った……。

「……ねえ、ファイツってば!」
「え……?……ワイちゃん、どうかしたの?」
「それはこっちの台詞よ。何回も呼んだのに」
「ごめんね。ちょっとぼんやりしてただけ」

何でもないよと言って、ファイツは笑った。さっきのことは、自分の内に秘めておこうと思った。

「ファイツ、やっぱりエックスに訊こうか?」
「……ううん、ありがとう。もうちょっと、自分で頑張ってみる……」
「そう……。訊きたくなったらいつでも言ってね、絶対ここに引っぱって来るから」
「そんな……。エックスくんに悪いよ」
「いいのいいの、エックスはもっと人間と関わるべきなんだから!」

拳を握り締めながら言ったワイに、ファイツは笑った。彼女から視線を時計に移すと、針はもうまもなくチャイムが鳴る時刻を指しているのが見えた。テストまではもうすぐだ。

(よし!……ふぁいとふぁいと、ファイツ!)

自分を奮い立たせてくれるその呪文を心の中で呟いて、ファイツは気合を入れるようにぐっと筆記用具を握った。