school days : 009

人魚の涙
カスミ、と誰かが自分の名を呼ぶのが聞こえたから。壁に寄りかかって腕時計をぼんやりと眺めていたカスミは、その声にはっと顔を上げた。大きく手を振って走って来る人物に、カスミもまた大きく手を振り返して。そして、彼の名を呼んだ。

「レッド!」
「ごめん、カスミ!……待ったか?」
「ええ。15分の遅刻ね」
「あちゃあ……。ごめんカスミ、今度何か奢るから!」

レッドは心底すまなそうに顔の前でパンっと両手を合わせた。彼の眉が見事に八の字になっているのに気付いて、カスミは思わず吹き出した。見るからにしょげているレッドに、明るく笑い飛ばす。

「……なーんてね。嘘よ嘘、大丈夫。15分じゃなくて5分の遅刻だから」
「本当か?ああ良かった」
「良かった、じゃないわよ。ちゃんと奢ってもらうからね?」
「げ。……マジで?」
「マジよマジ。アタシを誘っておいて遅れて来たあんたが悪い!」

言いながら、この会話はまるでデートの待ち合わせみたいだとカスミは思った。けれどこれはデートではない、あくまでレッドの買い物につき合うだけなのだ。だから、これは断じてデートなんかじゃない。

「そうだよな、遅れて来たオレが悪いよな。分かったカスミ、何がいい?」
「そうね、考えとくわ」
「……なるべく安いやつで頼むな」

レッドのその台詞を聞いたカスミはまた笑った。「はいはい」と言って、レッドと連れ立って歩き出す。ちょうどすれ違った女の人がこちらをちらりと見たのに気が付いた。あの人の瞳に、自分達はどう映ったのだろう。友達に見えただろうか、それとも別の何かに見えたのだろうか。

(そんなこと、レッドは気にもしないんでしょうけど)

そう心の中で呟いて、カスミは口角を上げた。有名人である彼には、たくさんの友人がいる。たくさんの女子に囲まれている光景を見たのは一度や二度ではない。けれど、今レッドの隣を歩いているのは茶髪のあの娘でも金髪のあの娘でもなく、確かに自分なのだ。
スポーツ店に一緒に行って欲しい。緊張しながら携帯の通話ボタンを押したカスミに、レッドは一昨日そう告げた。レッドのそんな頼みを、カスミは快く引き受けた。気が付いたら頷いていた、一も二もなく分かったと頷いた。『じゃあ10時に駅前な』と言った彼の声は通話が終わってもしばらく耳に残っていて、カスミはぎゅっと胸を押さえた。その声がようやく聞こえなくなってから、のろのろとキッチンへ向かった。冷蔵庫に貼られている予定表をそろりと見て、カスミはホッと息を吐いた。2人で出かける日は、確かに予定が空いていた。

(こうやって2人で出かけるのって、何年振りかしら)

久し振りに彼を独り占めにしているというのに、カスミは上手く笑えなかった。前に向けていた視線を足元に落とす。空はこんなに晴れているのに、足取りはどんよりと重かった。さっきまではちゃんと笑えていたのに、今は笑えそうもなかった。そんな自分とは対照的に、レッドは先を歩いている。どんどん広がっていく彼との物理的な距離がまるで心の距離に思えて、カスミは思わず立ち止まった。気軽に呼べなくなった彼の名前を呟くと、その彼が振り向いたのが分かった。

「……カスミ?」

レッドはカスミの呟きなんてもちろん聞き取れなかったはずだ。けれどレッドは振り返って、名前と同じく赤い色の瞳でじっとカスミを見つめている。決して自分を見ることがないその瞳の中に、今確かに自分の姿がある。

(何で……。何で今、気付くのよ)

レッドとは小学生の頃からのつき合いだ。自分より背が小さかったはずなのに、気が付いたら彼は自分の背を追い越していた。お調子者だった彼は、気付けば落ち着きを見せるようになった。そして気付けば、そんなレッドをカスミは好きになっていた。いつ好きになったのかなんて分からない、気が付いたら目で追っていた。だけどレッドは、カスミの気持ちには気付かない。彼自身の気持ちにも、レッドはきっと気付いていない。

「どうしたんだよカスミ、何かあったのか?」
「ううん、何でもないわ」

カスミの言葉に「そっか」と頷いて、レッドは歩き出した。その彼に続いて、カスミもまた歩き出した。彼が自分の気持ちに振り向かないことは知っている。レッドの瞳には、自分ではない女の子が映っている。確かに今隣を歩いているのは自分だけれど、最後に隣にいるのはきっと自分じゃない。

(だけど……。せめてレッドが自分の気持ちに気付くまでは隣にいたい)

おてんば人魚だと言われる自分の瞳から何かが零れたのにカスミは気付いて、人差し指でそっとそれを拭った。