school days : 006
大好きな人
校門を潜ったファイツは、淡い期待を込めて辺りを見回した。ここから教室に入るまでの間に、出来ることならあの優しい黄緑色の髪を持つ人物を一目見たい。あの優しい声で、おはようと微笑みかけて欲しい。けれどファイツの願いに反して、彼の姿を見つけることは出来なかった。あわよくば彼に会えやしないかと、少し早めの登校を心がけているファイツはそっと溜息をついた。(N先生……)
のろのろと歩きながら、ファイツは好きな人を想っていた。その人物を初めて見たのは入試の日だった。緊張で身体の震えが止まらなかった自分に「大丈夫だよ、落ち着いて」と声をかけてくれた人。……それがNだった。
あの日のことは鮮明に思い出せる。彼を一目見た瞬間、心臓がどくんと大きな音を立てたのだ。上擦った声で何とか「はい」とだけ答えて、ファイツは席に着いた。最後の確認をしようとノートを開いたはいいが、肝心の内容はまったく頭に入らなかった。彼の顔が焼き付いて消えてくれないのだ。本当に、あんな熱に浮かされたような状態でよく問題が解けたものだと思う。
一大イベントだった受験を終えても、ファイツは何だか落ち着かなかった。自己採点で出た点数はボーダーラインを確かに超えていて、それにホッとしたのも束の間、今度は深い溜息が出て来てしまう。合否のことも気になっていたけれど、それ以上に入試会場で声をかけてくれただけの間柄の人間が気になって気になって仕方がなかった。相手のことはおそらく先生だろうということしか知らない。だけど気になる。初めての体験は、それはファイツを酷く戸惑わせた。
無事合格していたと分かっても、心はもやもやして晴れなかった。悩んだ末に、ファイツはホワイトに電話することにした。ポケスペ学園に通う従姉なら彼のことを知っているに違いないと思ったからだ。1歳上の従姉はいつだって優しくて、自分を本当の妹のように可愛がってくれている。そんな”姉”が、ファイツは大好きだった。ポケスペ学園を受験しようと思ったのだって、ホワイトの存在があればこそだ。お姉ちゃんならきっと真剣に話を聞いてくれる、その確信は今回も裏切られることはなかった。きちんと相槌を打って話を聞いてくれた従姉は、少しの沈黙の後に『それはやっぱり恋なんじゃないかしら』と、どこか嬉しそうな声で告げた。
彼が教える学校に通う生徒なだけあって、ホワイトはファイツが必要としている情報をちゃんと持っていた。彼の名前はナチュラル・ハルモニア・グロピウス、通称N先生。数学の天才で、担当教科はもちろん数学だ。年齢は25歳らしい。
「独身だって。恋人もいないらしいわよ」とホワイトが言った時、ファイツはそっと息を吐いた。ある意味名前以上に大事な情報だ。自分があの人に一目惚れしたのだと分かっても、”相手が既婚者だったとか恋人がいました”ではあまりに不毛過ぎる。
教え方も丁寧で、そのルックスから女子生徒にかなりの人気があるらしい。それはつまりライバルが多いということに他ならない。正直言ってあまりありがたくない情報も、ファイツはしっかり手帳に書き留めた。彼に関する情報はどんな小さなことでも知っておきたかったのだ。
『で、どうするのファイツちゃん。どっちの高校に通うの?』
『……どうしよう…』
実を言うと、ポケスペ学園は第二志望の高校だった。既に第一志望の高校も合格を決めていたファイツは迷っていた。どちらも選べる立場にあるけれど、第一志望の高校の方が家から圧倒的に近いのだ。ポケスペ学園に通うとなれば電車で2時間はかかる計算になる。けれど、その代わりにNに毎日会えるかもしれない……。どうしたらいいのと零したファイツに、弾んだ声でホワイトが言った。
『ねえ、もしポケスペ学園に決めるんだったらアタシの家から通えば?1人暮らしだから部屋なら充分空いてるし、ファイツちゃんと暮らせるならアタシも嬉しいもの』
『……いいの!?』
『ええ!もちろん、叔母さんの許可が必要だけどね』
ホワイトのその提案が、ファイツの背中を押した。第一志望の高校にも受かったんだからそっちに通えばいいじゃないと言った母親を何とか説き伏せて、ファイツは卒業式の数日後にホワイトが住んでいるこのヒオウギ町にやって来た。正確には戻って来た、が正しい。中学3年間は親の仕事の関係でヒオウギ町を離れていたのだ。数年振りのこの町は、昔とあまり変わっていなかった。
(……N先生)
好きな人の名前を声に出さずに呟いて、ファイツは胸に手をやった。首からぶら下がっているペンダントの中には、Nの顔写真が入っている。自分が彼を好きなことを知っているホワイトがわざわざ手に入れてくれたもので、このペンダントは今やファイツの宝物の1つだった。何だかNが見守ってくれている気がして、それだけでファイツの心には勇気と元気が湧いて来る。
(……うん、N先生に会えないからって落ち込んでちゃダメ!)
そう自分に言い聞かせて、ファイツはぐっと拳を握った。
「あ、いたいた」
「……え?」
聞き間違えるはずがない、大好きな人の声がして。顔を上げたファイツの目に飛び込んで来たのは、やっぱり大好きな人の顔だった。いつの間に職員室を通り過ぎていたのだろう?そこから会いたくて堪らなかった人がこちらに近付いて来る。間違いなく、ファイツの方へ歩み寄って来る。
「え、N先生っ!あのっ!お、おはようございます……!」
すぐ傍に大好きな人の顔がある、その事実にびっくりしたファイツは思わず叫んだ。ものの見事にどもりながらも何とか挨拶だけはして、けれどその拍子に鞄を床に落としてしまった。
「おはよう。……はい、これ」
「は、はい……。ありがとうございます……」
くすくすとおかしそうに笑うNの手から何とか鞄を受け取って、ファイツはがたがたと震えそうになりながらもお礼を言った。彼と話す時、ファイツはいつだってこうなってしまう。
「えっと、N先生……。あの、どうしてわたしを……?」
聞き間違えじゃないのなら、彼は自分を捜していたらしい。その事実だけで泣きたくなるくらい嬉しいけれど、やっぱり理由が気になった。
「キミのクラスにブロンドヘアーの女子生徒がいるだろう?確か、名前は……」
「ワイちゃ……ワイさんのこと、ですか……?」
「ああ、確かそう言ってたね。さっきその子が、”ファイツが捜してます”ってボクに言って来てね。今会えて良かったよ、ボクに質問でもあるのかな?」
「えっと……」
ファイツは目を瞬いた。確かに昨日、ついでに今朝も自分はNを捜していた。別に質問をしたいわけではなくて、ただ会いたかっただけなのだ。けれどそれを正直に言える度胸はなく、ファイツは小さく「いいえ」と答えた。
「で、でも、あの……。わたし、特進クラスに入りたくて……。今年はダメだったけど、来年は入れるように、って……。だから、その……!」
そう言いながら、自分は何を言っているんだろうとファイツは思った。けれど、Nはファイツの話を黙って聞いてくれている。相変わらず穏やかな笑みを湛えて、ファイツをまっすぐ見つめている。
「……そっか。じゃあ、勉強頑張らないとね」
「は、はい!わたし、頑張りますっ!」
幸せな気持ちが溢れて来て、ファイツは笑った。ぺこりと頭を下げて、足早に自分の教室へ向かう。大好きな人が自分に微笑みかけてくれる、それだけでファイツは幸せになれるのだ。