school days : 005
女って分からない!
枕元で聞こえたその音に、寝転んでいたヒュウは顔を顰めた。音の出所は分かっている。ヒュウは舌打ちをして、読んでいた漫画を脇に放り投げた。ちょうど読み始めたばかりで、まだほんの2ページしか読んでいないのに。こんな時間に誰だよと悪態をつきながら、それでもようやく携帯を手に取る。画面を一瞥したヒュウは思わず「げっ」と声を上げた。今は正直勘弁して欲しかった。このまま無視することも考えたけれど、電話をかけて来た相手の性格を知っているだけにそれも躊躇われる。それに、今出ない方が後で面倒なことになりそうだった。溜息をついてから、ヒュウは渋々通話ボタンを押した。携帯を耳から少し離すことも忘れなかった。
「遅いわよ!」
「うるせえよ!」
電話が繋がるや否や文句を言って来た相手に、負けじと言い返す。実際本当に大きな声なのだ。このままだと耳だけでなく、頭まで痛くなるに違いない。それはゴメンだと、ヒュウは携帯を更に離した。一応声のトーンは落として、けれど不機嫌さは抑えずに話しかける。2人の間に遠慮なんてものは最早存在しないのだ。最初から存在しなかった気もするけれど。
「おい、今何時か分かってんのか?」
「22時よ、時計見りゃ分かるわよ。いいじゃない、どうせ暇だったんでしょう?」
「お前だってそうだろ!」
「あんたと一緒にしないでくれる?あたしは女の子だもん。寝る前のスキンケアとかヘアケアとかで、今の今まで忙しかったんだから!!」
「あー、そうかよ。まったく女ってのは面倒だな」
「大変だって言いなさいよ!」
ヘアケアなんて、男であるヒュウは産まれてこの方したことがない。適当にタオルでがしがしと拭いて、それで終わりだ。後は勝手に乾くのを待てばいい。スキンケアにしても、特別意識したことはなかった。やっぱり女は面倒だと思いながら、適当に相槌を打つ。
「分かった分かった。……で、いいかげん本題話せよ。まさか、オレにこんなくだらねえこと言う為に電話したんじゃねえよな?どうせ、ラクツのことなんだろ」
「…………」
「おい、聞いてんのか?」
「…………」
「……ユキ?」
反応がないことを訝しんだヒュウは、相手の名前を呼んだ。彼女の名前をちゃんと声に出すのは随分と久し振りだった。
「……何?」
「んだよ、聞こえてんなら何か言えよ」
「うるさいわね、ちょっと落ち込んでただけよ」
「落ち込む?へえ、いつもうるせえお前でもそんなことあるのな。知らなかったぜ」
「そりゃそうよ。だって、ラクツくんと同じクラスになれなかったのよ!」
……ああ、また始まった。内心でそれは大きな溜息をついたヒュウは、こめかみを押さえた。
「お前なあ、そんなの今更だろ。ラクツが頭いいのは知ってるだろうが。多分3年間A組だぜ、あいつ」
「あたしがA組に入れないのは分かってるわよ。あたしが落ち込んでるのはそれだけじゃないの。……ねえ、ヒュウ。あの噂、知ってる?」
「噂?」
「ほら……。ラクツくんとA組の例の子が、ついにつき合い始めたって噂よ……」
「ああ、あのお嬢様か。そんなのオレだって知らねえよ、あいつとはあんまりそういう話しねえからな。そんなに気になるなら、ラクツに直接訊いてみろよ。あの女とつき合ってんのか、ってな」
「……無理よ」
「はあ?何でだよ、訊いたらはっきりするじゃねえか」
「だって……。ラクツくんに尋ねるなんてこと、怖くて絶対出来ないわよ……。もしそうだって言われたら、あたし……」
「…………」
耳に冷たい何かが当たる感触を覚えたヒュウは、自分がいつの間にか携帯を耳に押し当てているという事実をこの時知った。どうせまたいつものラクツ談義なのだから、適当に聞き流そう。さっきまでは確かにそう思っていたはずなのに、今はどうだろうか。ユキの声が普段より弱々しいということもあるけれど、明らかに自分は彼女の話を真剣に聞く気でいるのだ。
(……分かんねえ)
自分自身の行動も謎だったけれど、ユキのことも分からなかった。いつもなら自分からラクツに話しかけに行く癖して、こういう時だけは臆病になる。恋をするとそうなるのとユキは言っていたが、その感情がヒュウには理解出来なかった。
1年程前だろうか、ユキが突然こうして自分に電話をかけて来た日のことが脳裏に蘇った。あの時だって、ヒュウはユキのことを分からないと思った。何しろヒュウとユキはあまり仲が良くないのだ。良くないどころか、むしろ険悪と言っていい。そんな相手が、何故自分の携帯に電話をかけて来るのだろう。中学3年の時、同じクラスだったよしみで電話番号を交換したのだけれど、絶対に互いにかけることはないだろうと思っていたのに。いくら考えても訳が分からなかった。とにかくこのままでは埒が明かないので、渋々ながらもヒュウは話をしてみることにした。言葉少なに少しだけ会話して、ようやく合点がいった。
”ラクツくんに一目惚れをしたから協力して欲しい”。ユキのその頼みを、当然ヒュウは断った。「何でオレがお前にそんなことをしなくちゃいけねえんだ」とも言った。随分酷いことを言ったのに、それでもユキはめげなかった。ラクツくんが好きなのだと、一目惚れをしたのだと、あの時ユキは言った。「部活も一緒だし仲もいいし、あんただけが頼りなの」とも言われた。どうしても諦めたくないのだと呟いて、最後には泣き出す始末だった。
(……1年、か)
絶対に聞かないつもりだったけれど、ヒュウはすぐにその考えを改めることとなった。数日前からいなくなった飼い猫をユキが見つけたことが理由だった。ついでに根負けしたこともあって、ユキの頼みをある程度は聞いてやるとヒュウが決めた日。あの日から、1年が経った。愚痴を遠慮なく言えるのはあんただけだものと言って、たまにこうして電話をかけて来る。聞き流されると知っていて、好きな人の話を一方的にして来る。相変わらず言い争いもするしムカつくけれど、それでもユキの想いは知っている。
「仕方ねえな、俺が訊いて来てやるよ」
「え?」
「いいの?」と尋ねるユキの声は、打って変わって明るかった。現金だとヒュウは思った。
「ま、ある程度は協力するって言ったしな。それに、猫が見つかったのもお前のおかげだし」
「今は元気なの?あの猫ちゃん。確か、チョコちゃんって言ったっけ」
「ああ。……で、ラクツの件だけどよ。あまり期待すんなよ」
「分かってる。……ありがと、ヒュウ。あんたって結構いいやつなのね、ちょっとだけ見直したかも。それじゃあね!」
「は?」
おいと声を出した時には、既に電話は切れていた。無機質な電子音が、耳に虚しく響き渡る。
(何だよあいつ。言う相手が間違ってるだろ)
急に元気になったり落ち込んだり、あいつはいったい何なんだ。そもそも女って何なんだ。そう問いかけても、答えてくれる人間は誰もいない。
「女ってやっぱり分からねえ……」
そう呟いた言葉は、ヒュウ自身にしか聞こえなかった。