school days : 004
お姉ちゃんは心配性
ガチャンという音で、テーブルに突っ伏していたホワイトは目を開けた。音の出所はすぐに分かった。キッチンの食器棚に閉まってあるはずの食器が少し崩れていたのだ。バラの絵が描かれたそのお皿は一目惚れして買った物で、一番のお気に入りだった。まだそれ程使っていないのに割るなんてとんでもない。床に落ちなくて良かったと、ホワイトは安堵の溜息をついた。「アタシ、いつの間に寝ちゃったのかしら……」
リビングに戻って来たホワイトは目を擦った。現在の時間は夕方の5時25分だった。どうやら20分もの間、うたた寝をしてしまったらしい。緩慢とした動作でふかふかとしたソファーに腰かける。20分も眠ったのだからいいかげん眠気が覚めてもいいだろうに、ホワイトはまだかなりの眠気を感じていた。春は好きだけれど、時々どうしようもなく眠くなるのが玉に瑕だ。本当に、これさえなければ完璧なのに。
(何だか……。頭がぼうっとする)
中途半端な時間に寝た所為か、やけに頭が重く感じられた。おまけに何だか背中まで痛かった。突っ伏して眠ったのが原因らしい。数回伸びをしてみたけれど、依然として結果は変わらなかった。相変わらず背中は痛かったし、やっぱりまだ眠かった。
眠気覚ましに熱いコーヒーでも飲もうと、ホワイトは立ち上がった。少しだけ残っていた黒い液体を飲み干して、そのままポットからお湯を注ぐ。どうせ眠気覚ましに飲むならと、今度は砂糖も牛乳も入れなかった。熱いコーヒーをひと口飲むと、すぐに苦味が広がる。久し振りに飲むブラックコーヒーは、思った以上に苦かった。
(ブラックといえば……。あのブラックくんと同じクラスになったのよねえ……)
ブラックは、将来はサッカー選手になるという”夢”を大声で叫ぶことで有名だった。今日は始業式の後にHRをしただけで終わったのだけれど、そのHRでの自己紹介で早速ブラックは叫んだのだ。”絶対プロのサッカー選手になってやる”と、それはもう隣のクラスどころか下の階にまで聞こえるくらいの大声で。
顔はかなり整っているのに何で彼女がいないんだろう。前々から不思議に思っていたホワイトは、その叫び声を聞いた瞬間に納得した。あんな風に所構わず、しかも軽い耳鳴りがする程の大声で叫ばれては周囲は溜まったものではない。事実、ホワイトだって思い切り耳を塞いだのだ。
(だけど……。ちょっと、かっこ良かったかも)
ホワイトにだって、芸能事務所を立ち上げるという”夢”がある。絶対に叶えたい”夢”を彼も持っているのだと思うと、自然と親近感が湧いて来る。それに、皆の前で絶対に”夢”を叶えるんだと宣言するなんて、誰にだって出来ることじゃない。少なくとも、ホワイトにはもう出来そうもない。だから、他人にどう思われようとも自分の道を突き進むブラックはやっぱりかっこいいと思う。
「って……。何考えてるの、アタシ!」
何だか急に気恥ずかしくなって、ホワイトは意味もなく慌てた。顔が熱いと感じたのは気の所為だろうか?それに何だか、心臓の鼓動がさっきより速いような……。
「……あ」
玄関先から聞こえた音に気付いて、ホワイトは立ち上がった。何となく助かったと思ったのには、気付かない振りをした。
(やっと帰って来た!)
1人でいるのは別に苦じゃないけれど、やっぱり誰かが帰って来る瞬間は嬉しい。それに何より妹のように可愛がっている人間が帰って来たとなれば、その嬉しさもひとしおというものだ。
ホワイトは現在、従妹に当たるファイツと2人暮らしをしているのだ。互いに1人っ子で尚且つ性別が同じということもあり、ホワイトはファイツを妹のように思っていた。ファイツもファイツで、ホワイトをお姉ちゃんと呼んでくれるし、2人で仲良く出かけたりもする。隣に立つと姉妹だと間違われることもしばしばで、そのことがホワイトにはかなり嬉しかったりするのだ。
そんなあの子を出迎えようと、ホワイトは足早に玄関へと向かった。鍵を持っていると知っているけれど、どうせならきちんと出迎えたいと思ったのだ。けれど、ファイツの姿は見えなかった。どうやら帰宅したのはお隣さんらしい。マンションに住んでいると時々こういう勘違いをしてしまうのだ。
「ああ、また間違えたわ……」
その結果に溜息をついたホワイトはソファーに深く座り直した。期待させられた分、落胆も大きなものだった。勢いをつけた所為で、安物のソファーが先程より音を立てて軋んだ。その音は自分以外に誰もいない空間にやけに響いた。
眠気はもう感じなかった。その代わりに少しだけ淋しさを感じて、ホワイトはテレビの電源を点けた。何か面白い番組はやっていないかと適当にチャンネルを回してみる。けれど、どれもあまり面白そうに見えなかった。
「これじゃあ電気代の無駄じゃない……」
ホワイトは現在親と離れて暮らしているので、毎月になると実家から仕送りが送られて来るのだ。それに加えて、今は叔母からも振り込まれるようになった。ありがたいことにその額はかなりのもので、家賃と生活費を差し引いても充分にやっていける。けれど、それでも節約するに越したことはない。将来の為にも、今の内に節約癖をつけておきたかった。一応チャンネルを二巡させてみたものの、結局は同じことだった。やっぱり、どの番組にも興味を惹かれないのだ。
やっぱり消そう。そう思ったホワイトはリモコンの電源ボタンに指を伸ばして、だけどそのまま固まった。何気なく目をやった画面には、”コンビニ強盗が発生した”というテロップが出ていたのだ。ニュースキャスターが緊張した面持ちで報じている。
「嘘……。あのコンビニ、知ってるところじゃない!!」
思わず立ち上がった拍子にコーヒーカップが倒れる。その衝撃でまだ熱いコーヒーが靴下にかかったけれど、ホワイトは気にもしなかった。大事な大事な従妹の帰りが少し遅いことと何か関係があるのかと、どうしようもなく不安になってしまう。ホワイトは祈るような思いで壁時計を見上げた。時刻は午後5時45分で6時にもなっていないし、まだ外は明るい。それにあの子は、友達とお茶するから少し帰りが遅くなるとのメールをちゃんと送って来ている。
ホワイトは当たり前だがファイツの親ではない。だけどあの子をよろしくと叔母から頼まれている身としては、やっぱり心配だった。何よりファイツは、最早ホワイトの妹と言っていい程の存在なのだ。
「どうしよう……。電話してみるべきかしら……」
メールが来てから5時間は経っている事実が、ホワイトを殊更不安にさせた。ただ単に友達と話し込んでいるだけならいい、けれどもしコンビニ強盗に巻き込まれていたら?そうなっていたら電話なんてもちろん出られないし、そもそも巻き込まれているなんて思いたくない。それは分かっているけれど、電話するべきか否かホワイトは悩んだ。少し帰りが遅くなっただけで電話までするなんてまるで束縛しているみたいだし、やっぱりもう少し待ってみようか……。
ぎゅっと携帯を握り締めたちょうどその時、再び玄関先で音が聞こえた。今度こそ間違いないと、ホワイトは駆け出した。大した距離でもないのに全力で走った。
「ファイツちゃんっ!」
「……お姉ちゃん?」
玄関の扉を開けて叫んだホワイトの目に、無事そのものの従妹の姿が映った。いったい何事かと、面食らった顔をしている。
「えっと……。どうしたの?」
「何でもないわ。……びっくりさせてごめんね」
ああ、良かった。心の中でそう呟いて、困惑している従妹を力いっぱい抱き締める。ホッと胸を撫で下ろしたホワイトの耳に、「苦しいよ、お姉ちゃん」と苦笑するファイツの言葉が辛うじて届いた。